第12話

 未来に呼び出されたのは、十年振りに会ったあの日と同じ、庭の綺麗なカフェだった。あの日と違ってせっかく今日は晴れているのに、テラス席に出るような浮かれた気分にはなれず、あの日と同じ隅の方の席に座っている。

「ねえ、未来。もういいから」

 深々と頭を下げて露になった未来の項を見下ろしながら、雨音は言った。

「仕方がなかったんでしょ? 多くの命を救うには。だからもう、謝らないで」

 ゆっくりと上げられた未来の顔には、悲しそうな、苦しそうな、色々な感情が混ざった複雑な色が浮かんでいた。だが彼女は全てを飲み込み、短く「うん」とだけ言った。

「それにさ。たった一年なら、まだ良心的な方じゃん。前の彼氏なんて、三年も付き合ったのに結婚してくれなかったんだよ。『付き合う分には楽しいけど結婚したい相手じゃない』なんて言われてさ。私はずっとその気だったのに。晴人とは、よく考えたら結婚を決めたのが早過ぎたくらいなんだし、ほんの一時の気の迷いだと思えば、痛くも痒くもないって。晴人と過ごした時間は楽しかったし、むしろ好きでもない私と付き合わせて申し訳ないっていうか、楽しませてくれてありがとうっていうか」

 気を遣われるのは余計に辛いので平気な振りをして戯けた態度を取ってみたが、未来の表情を見れば上手くできていないのは明白だった。

 やめよう、こんなの。痛々しいだけだ。

「あのね未来」

 未来は小さく首を傾け、目だけで返事をした。

「本当は私、薄々気付いてたんだ」

「えっ」と未来の瞳が見開かれる。

「もちろん、こんなことになるなんて思ってたわけじゃないけど。違和感を覚えたことはたくさんあった。同い年で地元も近所なのに晴人は『受験の時も晴れてた』って、おかしいでしょ。あの年の入試の日は、私のせいで関東全域大雨だったのに。晴人は、晴れ男なんかじゃなかったんでしょ?」

 未来は瞼を伏せ、躊躇いながら、こくりと頷いた。その視線の先、彼女の手の中にあるコーヒーカップの中身は、少しも減っていないようだった。

「晴れ男エピソードは、全部嘘。雨音の気を引くために、私が考えたの。とにかく二人きりで会ってもらう口実が必要だったから、『対決をしてほしい』っていう設定も都合が良かったし。山岸君の名前も、本当は『晴れる人』の『晴人』じゃなくて、『治める』に『北斗』で『治斗はると』なんだ。誕生日だって、全然梅雨じゃない」

「えっ、そうだったの」まさか名前まで偽っていたなんて、思いもしなかった。しかし同時に、腑に落ちたこともある。「じゃあもしかして、婚姻届を旅行先で出したいって頑なに言ってたのは、晴人の戸籍を見せないためだったの?」

「そうだね。でもそれは副次的な理由というか、因果が逆かな。婚姻届は旅行先で出すという体で雨音には伝えておく計画だった。だから名前や誕生日も偽ることができた。本当の目的は二つあって、一つは雨音があの飛行機に乗る予定だった日を、可能な限り大きなイベントに仕立てたかったから。新婚旅行だけでも充分大きなイベントだと思うけど、さらに入籍まで重なれば、より強い雨が降ってくれるんじゃないかと期待したの」

「もう一つは?」

「雨音に離婚歴を残さないための、なけなしの誠意だよ」

 力なく笑う未来の表情に、胸が締めつけられた。彼女の話を聞けば聞くほど、晴人との関係は仕組まれた恋で、雨音は徹底的に騙されていたんだということを実感してしまう。

 未来のことを、非難して、罵倒して、怒鳴りつけてやれればよかったが、生憎そんな気力は湧かなかった。今はただ、悲しくて悲しくて仕方がないのだ。全部嘘だったと分かった今でも、記憶の中の彼の優しい眼差しを疑うことができない。好いていたのは、将来を夢見たのは自分の方だけだったのかと、信じられない気持ちで胸がいっぱいで、怒りなんて入る隙もなかった。

「それにしても山岸君、遅いな」未来が携帯端末を取り出し、落ち着かない様子で画面を操作する。「一緒に謝りたいって言ってたのに」

「いいって。会っても辛いだけだから、来なくていいって伝えて」

「でも、そういうわけには」

「いいの。謝りたいっていうのはそっちの都合でしょ? 謝られる方だって気を遣うんだから」

 冷たい言い方だと思った。本当は自分が愛されていなかったことを確かめるのが怖いだけだったが、これくらいの冷たさは許されるだろう。

 未来は悲しげに眉を下げ、その瞳を揺らした。「うん、そうだね。ごめん」と言い、また携帯端末を操作する。晴人に連絡を取ってくれているのだろう。

 その時だった。

 カフェの入口のドアが開いた音がした。いらっしゃいませ、という店員の声も待たず、その足音はドタバタと店内に駆け込んでくる。

 晴人だ。

 それは紛れもない、晴人の姿だった。あの日からたった一週間会わなかっただけなのに、いやに懐かしく感じる。

「雨音!」

 晴人は雨音の足元に滑り込むようにして正座の姿勢になり、両手を床についた。そしてその頭を、深々と下げる。

「雨音、遅れてごめん。どうしても、やらなきゃいけないことが、あって。ごめんなさい」

 一体どれだけ走ってきたのだろうか。彼の呼吸は激しく乱れ、咽せ込みながら、途切れ途切れに言った。

「雨音。今までのこと、本当に申し訳なかった。君に話したこと、ほとんど全部嘘だった」

「晴人」

「僕の名前は、『晴人』じゃなくて、『治斗』だし。えっとつまり、『治める』に『北斗』で」

「それはもう聞いた」

「あ、そうなの? えっと、誕生日も、梅雨じゃないし」

「それも聞いた」

「えっと。あ、そう。僕が生まれた日も、雨だったらしい。母さんに聞いた。あ、母さんは、ていうか両親は健在で、姉もいる」

「えっ、そうなの」

「うん、超元気。あとは、えっと」

「晴人」いや。「治斗!」

 治斗がようやく顔を上げた。すると、頭の下に隠れていた手が現れ、その薬指にはまだプラチナが輝いていることに、雨音は気付いた。

「治斗」

「はい」

「何?」

 短く問うと、治斗ははっとした顔になり、慌てて姿勢を正した。

「雨音」

 今度は雨音の目を真っ直ぐに見つめながら、治斗は言う。

「君と僕の間には、ほとんど嘘しかなかった。交際を申し込んだ時だって、騙して申し訳ないという気持ちしかなかった。でも君と過ごすうちに、いつしか君を想う気持ちだけは本当になってしまっていた」

 治斗は鞄を漁り、手のひらで包み込めるほどの、小さな箱を取り出した。

「雨音。今までのこと、許してくれと言うつもりはない。でも、もし君の中に、僕を想う気持ちが少しでも残ってくれているのなら」

 治斗がそっと、箱の蓋を開いた。

「これを、受け取ってくれませんか」

 箱の中にあったのは、指輪だ。その中心には、温もりのある照明に照らされて淡いピンク色に光る、美しい宝石が嵌め込まれている。

 べキリーブルーガーネット。いつか雨音がひと目惚れして恋焦がれた、あの石だ。

「これ」自分でも聞き取るのが困難なくらい、掠れた声が出た。「どうしたの?」

「あの日空港から帰った後、結衣さんに頼み込んで作ってもらったんだ。ついさっき完成したばかりで。あ、だから僕は遅れたんだけど。無理を言った代わりに、この一週間は結衣さんの仕事を手伝わされたよ」

 急いで作っただろうに、粗いところは少しも見当たらなくて、シルバーのアームの部分には、見ているだけで目眩いがしそうな緻密な彫刻が施されている。

「高かったでしょ」

「特急料金まで取られたよ」

「ローン、組んだの?」

「経費が下りなかったからね」

「格好悪いから嫌だって言ってたくせに」

「格好悪いくらい、構わないよ」

 治斗は少し照れるような笑いを見せた後、真剣な目つきになった。プラチナリングの嵌まった指先が震えており、緊張しているのが伝わる。だが彼は、しっかりとした声で言った。

「雨音。僕ともう一度、結婚を前提に付き合ってください」

 ごおん。と、どこか遠くで鈍い音が響いた。それが風の音か雨の音か、雨音には分からなかったが、次の瞬間には、窓から見える美しい庭の草木が、激しい水流に押されて今にも折れそうなほどに首をもたげていた。

 それは雨というよりは、空と海がひっくり返り、海がまた一斉に大地へ還ろうとしているかのようで、ごうごう、どうどうと、祭囃子の太鼓の如く豪快に地面を叩く水の音が、窓越しに聞こえる。

 淡いピンク色の石が雨の色を映し出し、青い輝きを放ち始めた。

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雨女ラプソディ 七名菜々 @7n7btb

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