第6話

「じゃあ、売り手がついたんだから、盗られないよう、あの部屋には鍵を掛けてくれ。夜は特に絶対だ。いいな?」

「分かった!」

 ついでにこんな素晴らしい約束まで取り付けられた。

「……でも……なんでそんなにサインをしたくないんだ?」

「したくないってわけじゃないけど……、その……」

 数秒沈黙が落ちて、フェルディナントは首を振った。

「いい! 分かった! 事情は探らない! そのかわり、何か困っていたら、俺に言うんだぞ。俺はお前の絵の支援者になったわけだし、こ、この王都の守護職でもあるから……、困ったら、積極的に……誰よりもはやく……俺に相談するんだぞ」

「ありがとうフレディ」

 白猫を抱えたまま、ネーリが微笑んだ。嬉しそうだ。まだ頬が色づいている。

 もう戻らなくてはならないけど、離れ難い。このまま家に、連れ帰りたいくらいだ。

 なんとか「俺は神聖ローマ帝国の軍人皇帝陛下の命令遂行中」と心の中で呪文を唱えて、想いを断ち切る。

「フレディ、忙しいと思うけど良かったら【夏至祭】は見に来て。この時期毎年やる、ヴェネトの水神祭なんだよ。街いっぱいにお花を飾ってすごく綺麗だから。君に見せてあげたい。ぼく喜んで案内するよ」

 ネーリの瞳がきらきらしている。嬉しいけど、これ以上見てると多分心臓がどうにかなってしまう。幼い頃から軍隊や貴族やらで色んな人間には会って来たけど、こんなにキラキラした瞳で無防備に自分を見て来る人はいなかった。危いほど、出会ってから瞬く間にネーリに惹かれて行く自分をフェルディナントは自覚していた。

「うん、わかった……」

「? 馬がいないよ?」

「あ……今日は竜で来た。ちょっとだけ寄ろうと思っただけだから」

「そうなの?」

 ネーリはキョロキョロと空を見上げている。

「ごめん。人目があるからここには呼べない。もう少し街の外れに行ってから、呼ぶよ。

 そのかわり干潟には、そのうちフェリックスを絶対に連れて行くから」

「そうだよね。思わず会いたくなっちゃったけど、約束してたんだった」

「今日はここに泊まるのか?」

「うん。もうちょっと絵が描きたいから」

 そうか。

 フェルディナントは小さく笑む。

 時間を忘れてまた、明け方まで描くのだろうか。一度でいい。ネーリが絵を描いてるのを、最初から最後まで、時間を忘れて眺めてみたい。

「お前の絵を見てると……ヴェネツィアの街の夜は美しくて、出歩きたくなる気持ちはすごく分かるけど。最近妙な事件も多いから、あんまり遅くに出歩かないようにしろよ。……事件の方は、早めに俺たちが何とかする」

 腕を伸ばして、ごく自然にこっちを見つめるネーリの頬に触れていた。

 ハッとして、赤面し、慌てて手を引っ込める。いつもはこんなに勝手に他人に触ったりしないのに。……本当に、こいつのこの瞳には吸い寄せられる。

「じゃあ……またな」

「……今度いつここに来れそう?」

 初めて、そんなことを聞かれた。

 嬉しい。

 少しは、ネーリも自分に会いたいとか、思ってくれてるんだろうか?

「……。毎日だって来たいよ」

「えっ?」

 フェルディナントは歩き出しかけて、振り返った。

 ネーリと視線が合い、聞かれまいと思った自分の呟きを拾われたことを察して、顔面が熱くなった。

「じゃあな!」

 駆け出して行ったフェルディナントに釣られるように、白猫が腕の中から飛び出して、彼を追って行った。途中で諦めて、戻って来るだろう。彼の姿が通りの角に消えると、ネーリは教会の中に戻った。祭壇に歩み寄り、膝をつくと、祈りを捧げる。


「……僕の絵が好きだって言ってくれる人がいてくれたよ。おじいちゃん」


 瞳をそっと開き、聖母子像を見上げる。抱えた愛し子を優しく目を伏せて見つめている。

「僕の絵を好きだと思って持ってくれてる人がいる。

 だからもう、僕はひとりじゃないよね?」

 戻ってきた白猫が膝に顎を乗せている。優しく撫でてやった。

「だからもう心配しないで。おじいちゃん。僕は大丈夫だから……これからは、この国を見守ってあげて。これ以上、悪いことになって行かないように」

 ネーリは天窓から降り注ぐ月明かりに微笑んだ。


「……お兄ちゃんを守ってあげて」




【終】


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