第5話
「フレディ、スペインにいたことあるんだ」
二人で並んで座り、今日一日で描いたスケッチを見ていると、ネーリが聞いて来た。
「うん。父親が母親と不仲でな。幼い頃から二人が別居していたから。俺も早くに家を出て、スペインの陸軍士官学校に入った。母親の母国なんだ」
「そうなんだ。僕も小さい頃スペインも行ったことあるよ。綺麗なとこだよね」
ネーリが笑いかけてくるので、フェルディナントも頷いて、小さく笑みを返す。
「それも、例の祖父に連れて行ってもらったのか?」
「うん。おじいちゃん貿易商だったから、色んな国に連れて行ってもらったよー」
「お前がこんなにすごい絵を描けるのは、小さい頃から色んな国の、色んな美しい景色を見て来たからなのかな……」
「そうだったらいいな。おじいちゃんもよく僕の絵誉めてくれたんだ。上手だ上手だって小さい頃の、こーんな風に全然描けてなかった時の絵も、すごく誉めてくれた。おじいちゃんが喜んでくれるから、小さい頃からいっぱいいっぱい絵を描いたよ」
「その人は……もう亡くなったのか?」
「うん」
「そうか……ごめん」
「ううん。随分前のことだし、気にしてない。それにおじいちゃんとは、楽しい思い出の方がたくさんだから」
ネーリは立ち上がり、描き途中の風景画を手に持った。
「本当は、売りたい気持ちもあるんだ」
え? とフェルディナントは顔を上げて、彼の背を見た。
「絵が売れたら、そのお金でこの教会の壊れてるところとか、直せるだろうし。干潟の家も古いから、本当は建て直してあげたいけど……」
そうなのか? とフェルディナントは立ち上がる。
「何度か売ろうとしたことあるんだけど。……売れなかったんだ」
売れなかった、という言葉にフェルディナントは眉を顰めた。
こんな素晴らしい絵が売れないなんて絶対に嘘だ。
「それは……どういう相手に売ろうとしたんだ? 望む値段が、つかなかった、ってことか……?」
「そういうわけじゃないんだけど……。いいんだ、この話はやめよう。ちょっと色々複雑で、説明難しいんだ」
ネーリは、ただの街の、美しい絵を描く青年だと思って来たが、何かそうではないのだろうか?
初めてフェルディナントはそう思った。
変だと思うことが、そう言えば会ってからも、幾つかある。
本当は全部聞きたい。もし何か彼が困っているなら力になりたいし、助けてやりたい。
……だが、強くは聞き出せなかった。
大らかなネーリがこんな風に自分から話すのをやめるのだから、きっと何か、簡単なことではないのだ。そう言えば、彼はまだ十六歳だと神父が言っていた。祖父の話は何度か聞いたけど、不思議なくらいその他の家族の話を彼の口から聞いたことが無い。
そのことと何か繋がっているのだろうか?
ネーリにとっての、祖父以外の家族は、今、どうなっているのだろう。
神父の話では、絵を描きながらヴェネツィアの色んな所を移動して生活していると言っていた。特定の家を持ってる感じが、確かにしない。あの干潟の家だけだ。しかしあそこも教会の倉庫を間借りしているだけのような感じだと言っていたから、単にアトリエの一つなのだろうと思う。
フェルディナントは尚更、口を噤んだ。
彼も、あまり家族のことは他人に話したくない。過去のこともそうだったが、今はこの世にいなくて、それが何故かも、説明はしたくない。
……苦しいのだ。
もしかしたら、ネーリも何か、家族に特別な事情があるのだろうか?
分からないけど。
フェルディナントは美しい海の風景を見た。
何か、彼が大きな秘密を抱え込んでいるような雰囲気を確かに感じる。
――それが例えどんなものであるにせよ、
痛みにせよ、苦しみにせよ、
これが、ネーリ・バルネチアの絵だ。
そういうものを抱えながらも、こんなに美しい絵を描ける彼を、心の底から尊敬した。
「……ネーリ」
彼が振り返る。
彼のことを詮索することはやめた。だが、別のことを願うことはいいだろうと思ったのだ。
「その……、……もしまだ、売る気があるなら……お前の絵を俺に売ってくれないか?」
「えっ?」
「いや、その、俺は確かに絵なんか買ったことが無いから、価値というか……正しい相場は分からないけど、王宮に、絵が好きな友人はいる。彼らがどんな値段で、どんな絵を買っているかは聞いて勉強する。俺がすごいと思った画家は……君だけだ。仲間が買うような画家の絵よりは、必ず高値を付けるから。俺に売って欲しいんだ」
「フレディ……でもぼく、」
「売りたいなら、って話だ。無理に奪い取ろうとかは思ってないから……。こんな風にしょっちゅうここへ来てると、暇でふらふら遊び歩いてるやつと思われてるかもしれないが、俺はちゃんと守護職の仕事にもついてるし、神聖ローマ帝国の王都に屋敷もあるよ。爵位も持ってるんだ。……見えないかもしれないけど。今までそんな、はまるような道楽はなかったし、金は溜め込むばかりだったから、きっと満足してもらえる値で買い取るよ。約束する」
ネーリは首を振って笑った。
「フレディ、神父様からちゃんと君がヴェネトでも、神聖ローマ帝国でも立派な守護職についてるって教えてもらって僕知ってるよ。遊び歩いてるなんて思ってないよ。フレディは立派な人だって知ってる」
フェルディナントは赤面した。文無しじゃないんだよと一生懸命説明しようとした所、そんな風に言ってもらってしまった。
「そ、そうか……誤解されてないなら、いいんだけど」
「誤解してないよ」
「ならいいんだ。伝えておきたかっただけだから。ネーリがいいなら、俺に買わせてくれ。必ず高値はつける。お前は……君は、宮廷画家になってもおかしくない人だって俺は思ってるから」
「フレディ……」
「いや、今すぐじゃなくていい。ゆっくり考えて、もし譲ってもいいと思うものがあれば……」
なんか断わられそうだ、と思ってフェルディナントは慌てたが、ネーリはじっと見つめて来た。
「うん……ありがとう。すごくそう言ってもらって嬉しいよ。あのね……、値段とかは、本当に僕もまだあんまりよく分からないから、街の鑑定士さんとかがつける標準的なのでもいいんだ」
ネーリの絵に平凡な値段なんてつけれるか、とフェルディナントは咄嗟に思ったが、とりあえず今は黙っておく。昼間は感情で、喋り過ぎた。彼は本来、あんなに喋らないのだ。それなのにお喋りな奴だなんて勘違いされてそんなことで嫌われるのは嫌だ。
「でも……あのね、その……、……これは相談なんだけど」
相談?
「……例えば、……売る時にこういうの、無くてもフレディは買ってくれるかなぁ、って」
こういうの、とネーリは絵の裏側を見せた。
「?」
フェルディナントが分かりやすく、首を傾げた。
「……こういうの……っていうのは」
「これ」
指差したそこに、【ネーリ・バルネチア】という彼の名前が書いてある。
「名前のことか?」
「うん。絵って売る時に、書かなきゃいけないらしいんだけど」
フェルディナントは天青石の瞳を瞬かせた。
「相談って、サインを書かなくてもいいかどうか……ってことか?」
こくん、とネーリは頷く。
「……いや……。……おれがほしいのはお前の絵だから……後のことは全然別にいいけど」
「いいの?」
ネーリの目が輝く。思わずその目の輝きに気圧された。
「お前が描いた絵って俺はもう分かってるし。全然……お前が書きたくないならサインとかどうでもいいが……」
「ほんと?」
「ちょっと待て。『売れなかった』ってそれか?」
「鑑定士さんに怒られちゃったよー。どこの誰が描いたか分からない絵なんか、値はつかないって。普通貴族は、どこどこの誰誰の絵ですよ~って客に紹介するから、それが出来ないなんて話にならないんだって」
「別にどこの誰が描いたか分からなくたっていいだろう。絵は、素晴らしいかどうかなんだから。……いや、俺の言ってること、なんか間違ってるか?」
美術品の取引なんぞまともにしたことが無いので、自分がもしかして常識ないことを言っているのだろうか、と腕を組み、しばし考える。
「いや。どう考えても構わないよな。俺が買うのにお前のサインがあるかどうかなんか……ネーリ。俺はお前の絵が好きなんだ。他人に見せびらかしたくて買いたいんじゃないんだよ。側に置いて、いつも見れるようにしておきたいってだけだ。お前が描いた証とかは、お前が書きたくないなら俺はいい。だって分かってるんだから。お前が描いたってことを、俺は」
ネーリは頷いた。
「それでいいなら、本当に買ってくれる? 値段なんて安くても、幾らでもいいから。ここの全部売って、ここの教会のちょっと雨漏りしてる所とか、ミシミシする古い椅子とか、直したい。あと階段のところの石畳三つくらい抜けててでこぼこしてていつもご近所のおばあちゃんが躓いて危ないから、直してあげたい。最近ここの教会に来てくれる人増えてるのに、聖書が足りないから破れたり雨で濡れちゃってしわしわになっちゃってる聖書まで使ってもらってるから、あと十冊くらい聖書増やしたい。それが出来るなら、全部君に売るよ」
フェルディナントは唖然とした。聖書十冊って。
「できるかな」
赤面したのは多分、怒りと、あと光をやっと見つけたみたいに一生懸命覗き込んで来る黄柱石の瞳があんまり綺麗で、可愛かったからだと思う。
「ネーリ!」
さすがにフェルディナントは怒った。
「そんなに自分を安く見積もるなよ!」
何が雨漏りの修繕だ。
この絵は、王宮の、王の寝室だってきっと飾れる。ここにある絵を全部売ったら、こんな小さい教会修繕どころか、綺麗に建て直してもっと大きく立派な教会にすることだって出来る。
宮廷画家には、大貴族の支援者だって大勢付く。彼らの絵を、巨大な劇場や城や教会に飾るのだ。それを見に、人が集まる。サロンが賑わえば、富はまた増えて行く。
ネーリは建物自体を建て直すことだってできると言われて目を丸くしていたが、自分の絵が売れると理解して、絵を抱きしめて喜んでいた。こんな簡単なことでこんなに喜ばせてやれたなら、もっと早くやればよかった。
「初めて絵が売れたよー」
ネーリは入って来た白猫を抱き上げて嬉しそうに頬を寄せた。
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