第4話
報告書をまとめ終わると、すでに日が変わっていた。とはいえ、午後に少し寝ていたのでまだ眠気はない。夜風に少し当たりたくなって騎士館の外に出た。守備隊の団長という立場になるフェルディナントには来客がある可能性があるので、団長館として独立した館が与えられているが、他の竜騎兵達は駐屯地に並び立つ騎士館で共同生活をしている。駐屯地として与えられた区画はまだ余裕があったので、今はもう少し騎士館を増設もしていた。
軍馬用の厩舎に竜が全く入らないので、近くにある高台に竜用の待機場所を得たいと思っているのだが、今のところは黙っている。まずは与えられた場所を最大限に活用してからだ。
外に出ると、団長館の側の木の陰で休んでいたフェリックスが首を上げた。
側に歩いて行って、額に触れてやる。竜の外皮は鋼の剣さえ弾くほど硬質なので、実際のところ、雨に濡れた所で大した影響はない。しかしここは屋根のあるところに待機場所がないので、雨が降ると竜たちが濡れっぱなしになっているのだ。別に問題はないのだが、じっと雨に濡れて大人しく蹲っている騎竜達を見ると、妙に憐れみを感じた。
神聖ローマ帝国では竜は高い知能を持った、高貴な動物だとされるから、非常に大切にされている。騎竜を世話するための人間が必ず付くほどだが、今回は大所帯になってはいけないので、竜騎兵三十騎、人も竜も三十騎。ぴったりである。だから世話は各々がしてやっている。
ここにいる竜は、竜騎士の騎竜なので規律を破って空を飛ぶようなものはいなかったが、本来は竜は飛びたがるものなので、ここでは自由に飛ぶことも出来ず、随分我慢させていると思う。
(ヴェネト王国の外周の外なら飛行許可が出るかもしれん。そうか……フランスとスペインは艦隊で来ているから、海軍演習を行うはずだ。それに合わせてうちも飛行演習を行えば角はあまり立たないかもしれないな)
フェリックスが暗闇の中、金色の瞳でじっと自分を見つめている。見つめ返し、数秒後、フェルディナントは何か、胸にあるモヤモヤとしたものを払拭しようと思い立った。
「よし。フェリックス、来い」
首を伸ばした。
フェルディナントは帯剣だけし、革の手袋だけ嵌めると手綱を取った。
◇ ◇ ◇
馬の場合は市街をぐるりと迂回して回り込まなければならないが、空からなら駐屯地からはすぐに辿り着く。
「しばらく空を飛んでいていいぞ。ただしあまり見られないようにな」
ポン、とフェリックスの首を軽く叩いてから、手綱に吊られて、近づいた地面に身軽に飛び降りた。フェリックスはそのまま急上昇して夜闇に消えていく。それを見送ってから、フェルディナントは今日も明かりを掲げたまま扉が開いている教会へと入って行った。
朝には二階の通路に並べられた絵はいつも通り、奥の部屋に運び入れられていた。部屋は綺麗に掃除をされていて、道具なども綺麗になって揃えられている。
だが、また明日から書き始めるのだろう。
紙がキャンバスに置かれている。見てみると、教会で遊んでいる子供たちの絵だった。
ヴェネツィアの街並み。
礼拝を行う聖職。祈る大人たち。
今日磨いていた、天地創造のステンドグラス。
フェルディナントの表情が自然と綻ぶ。
……彼は本当に、すごい画家だ。
今日という一日を過ごした喜びが、こんなにも伝わって来る。
カタン、と音がした。
フェルディナントは振り返る。
丁度、絵を描く道具を脇に軽く抱えて、外から戻ってきた感じのネーリだった。
彼は最初、誰もいないと思っていたようで、中にフェルディナントがいることに気付くと立ち止まった。
「フレディ?」
「ごめん。いないと思って、勝手に見せてもらってた」
ああ、とネーリは笑う。彼の笑顔にホッとした。
「いいんだよー。好きな時に見て。その方が絵もきっと嬉しいよ」
彼は入って来ると、道具を部屋の隅に下ろした。色に汚れた指を、奥の水場に洗いに行く。
「絵を……描きに行ってたのか?」
「うん。王宮の側まで行って来たんだよー」
「その……、少し見てもいいか?」
「ただのスケッチだけどね。それでいいなら」
許可を得たので、フェルディナントはたった今ネーリが持って帰って来たスケッチを見せてもらった。
ヴェネツィアの街並み。美しい水路。
水面を見つめる令嬢。
パブで歌う人々。
王宮へ続く、なだらかな坂道。
ヴェネト王宮も描かれている。
月明かりの下で、浮かび上がっている。
色鮮やかないつもの絵とは違う。木炭で描かれた黒と白の世界。
それでも、鮮やかだ。
やっぱり光を描いているからだ、とフェルディナントは思った。
色の鮮やかなどに頼らなくても、ネーリの絵の素晴らしさは変わらなかった。黒と白の世界でもこんなに生き生きと光に満ちている。
(すごい……)
子供も、大人も。
水も風も、
石の壁、繊細な布、木造の屋根も。
朝も、夜も、
星も、星のない空も、
彼はどんなものでも描けるのだ。
「これ……これだけの量、どのくらいで描くんだ……?」
「んー。礼拝が終わってからぷらぷら外に出て行ったから、五時間くらいかなあ」
たった五時間でこれだけの絵を描いたのか。
びっくりする。
「……ごめん」
手に着いたなかなか落ちない色を、濡らした布で拭いていたネーリがこちらを見る。
「え……?」
「昼間、一方的になんで絵を売らないんだとか、しつこく聞いてしまって」
何を謝られたのかと思ったネーリが軽く笑う。
「なんだそんなこと。気にしてないよ。僕のこと、心配して言ってくれたの分かるし。それに本当によく言われるんだ。折角描いたんだから売りなさい、って」
「いや、確かにそうなんだけど……俺は、お前の絵が本当に好きだ。すごいと思ってるんだ。でも、売れば金になるなんて、分かり切ったことだよな。分かっていてお前が売らずに手元に残しているなら、きっと何か意味があってそうしてるんだろうと、帰ってから思ったんだ。俺は事情も何も知らないくせに、……五月蝿かったなと思って」
「そんなことないよフレディ」
ネーリが歩いて来る。
「気にしないで。僕も全然気にしてないから」
「いや。俺も元々はスペイン陸軍の士官学校で学んだから。その頃、よく何で違う国で学んでるんだとか言われて、随分鬱陶しかった。人には色々な事情があって、当然なのにな。
『何で普通はこうするのに』なんて、誰にも言う資格はない。自分のことでも分かってたつもりなんだが、昼間は俺も、お前に対して同じ『嫌なこと』をしてた」
「そんなことないよー」
「……俺は金も払わず、いつも素晴らしい絵を見せてもらっていたのに、悪かった」
「謝らないで。本当に気にしてないから。これからも僕の絵、好きな時に見に来てねフレディ。そうしたら僕はすごく嬉しいよ」
謝りに来たのに、逆に何故か励まされてしまった気がして、フェルディナントは分かった、と頷く。
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