俺と貴方と剣の果てで
@nanikanoteriyaki
第1章 夜に月と出会う
その出会いを覚えている。瞼の裏に強く刻まれたその時間を。
黒い夜に美しい満月が浮かんでいる。そんな暗い森の中を彷徨っていた。傷つく素足、空腹に喘ぐ体――このままどうせ死ぬのだと、当時の俺は幼いながらに達観していた。
眼前には巨大な獣が一匹。貪られて死ぬのと飢えで死ぬのはどう違うのだろうか、と諦観していた。
誰かが木の枝を踏みつけたような音に振り返る。
「……童か。珍しい」
そこには女性がいた。見るからに美しいと感じてしまう程の存在感を漂わせながら、どこか浮世離れしている。月明かりに照らされて、より幻想的に見えた。
透き通るような銀色の綺麗な長い髪。煌く宝石のようにどこまでも紅い瞳。纏う衣装はまるで踊り子のように所々の肌などが見えている。傷どころか汚れ一つ知らぬような肌だった。
その女性は鞘込めの剣を片手に持っていた。剣士なのは間違いない。子どもの頃ではあったがそれでも、彼女がただの人物ではないと思う程の覇気を強く感じていた。
「獣か、邪魔だ」
たった一刀。たった一撃。一振りの斬撃で、獣は両断された。
その時に見た。見てしまった。
――言葉に尽くせぬ至上の刃、絶技の剣を。万の兵がそれを目指したとして、たった一人でもたどり着ける者がいないのではないかと思う程に。焼き鏝を押し付けるかのように魂に強く、強く刻み付けられた。
彼女は剣を鞘に納めた。赤い瞳が再びこの身を見る。
「生きたいか?」
そう尋ねられた。まるで人に道を聞くかのように、容易く。
彼女は本気だと分かった。例えこの身がまだ幼くとも、答えた通りに彼女は導くだろう。その手を取るべきだと思った。取らなければきっと、自分自身は後悔する。選ばなかった事に、手を放してしまった事に。
“生きていたい”
弱くとも、声音だけは届けようと。振り絞って彼女の問いにそう答えた。
紡がれた言葉に彼女は小さく笑った。
「そうか、ならば着いて来い。今日からお前に剣を教えてやろう」
これは始まりの記憶。とある森の一夜。
例えこの日から幾星霜が過ぎようとも決して薄れる事の無い光景だった。
ここから前の記憶はもう俺には必要ない。だから斬り捨てる事にした。
俺は見てしまったのだ。それを知る前の人生はもう俺ではなく、どこかの誰かでしかない。そう思わせる程に美しいと感じた、彼女の剣を。
“ヴィル、ここから先は一人で進め”
先生。
“恐れるな、お前が進み続ける限り我らはいずれ再会する”
先生。
“お前には私の全てを文字通り刻み付け、叩き込んでやった。例え錆びついたとしても、その刃と矛先を失わぬように”
先生。
“さぁ、行け。お前は私が剣を認めた、たった一人の存在なのだから”
俺は貴方を――。
孤児院の朝は早い。少なくとも十人以上の子どもが住んでおり、彼らの生活を守る事は意外と大変であり忙しい。
少なくとも俺の一日はいつもここから始まる。
魔法具を使用し、鍋を作る。簡単なシチューでいいだろう。魔法が使えなくとも道具があればそれ紛いの事が出来るとはいい時代だと感じる。
まだ寝起きであろうシスターが炊事所に入って来た。
「シスター、おはよう」
「おはよう、ヴィル。いつもごめんなさいね、朝食の準備まで」
「気にしなくていい。元々慣れているんだ」
シスターと言うが、まだそこまで老人では無い。俺の齢が確か十三だったから、それより二回りほど上だろう。
「フェルナルドは? 朝食の時はいつも貴方の手伝いをするように言っているのだけれど」
「外で素振りをしていたよ。まあ、いつも兵士になるのが夢って言ってたから」
フェルナルド――俗に言うここの自称大将である。毎日素振りしては、いつか兵士になる事を夢見ているそうだ。
「そう……。力仕事をしてくれるのならねぇ」
「おはようございます、シスター。ヴィルもおはよう」
「あら、おはようアイーシャ」
紅色の髪を後ろで一本に纏めた少女。この孤児院での女神とも呼ばれている。
簡単な魔術が使える彼女は、この孤児院にとっては心臓とも呼べる人物だった。
「悪いアイーシャ。来て早々だけど手伝ってくれ」
「いつもの事でしょう」
匂いに釣られたのか、子ども達が目を覚ましてくる。
もう良い頃合いだろう。鍋の取っ手を持ち食堂へ向かう。
「ヴィル兄ー!」
「シチューだー!」
子ども達が席に着く。丁度そのタイミングで孤児院の扉も開き、フェルナルドも入って来た。
「へへ、メシの匂いだ」
「アンタも手伝いないよ、フェルナルド」
「いいんだよ、そういう細々したのは。俺の仕事じゃねぇし。俺は早く兵士になって、一人前の男になるんだ!」
「まあ、思うのは人の自由だからな」
孤児院の中で子ども達やシスター、見知った顔の馴染みと食事を交える。
これが俺の、ヴィルにとっての変わらない日常。平和の象徴だった。
俺はこれでいい。争いを知らず、平穏を生きる。そんな日々を愛しているから。
――本当に?
ならば何故、この渇きは癒されない?
孤児院の庭では子ども達が遊んでいる。
この場所は村はずれの教会を買い取って孤児院とされているため、周囲は森に囲まれている。一応村への道も長くは無く、左程の時間はかからない。
けれどその周囲では魔物が出る為、俺やフェルナルド、魔術が使えるアイーシャが見守っている。一応、昔はそこそこの術師であったシスターが魔物避けの結界などを貼ってくれているそうだが、人には効果が無いらしい。
「……ん?」
何か気配が変わったと感じる。
目を凝らすと木々の奥に、二人組の人物が見えた。殺気は無く、ただただ歩いているだけと言った様子である。
男と少女だろうか。男は巨躯な体で背中には長い槍を持っている。少女は黒いフードとドレスのような恰好で腰には鞘込めの剣。
「傭兵か?」
二人はこちらに向かってくるが敵意は無い。ならこっちもそれで返す必要は無いだろう。
彼らは門の前で止まった。アイーシャは警戒、フェルナルドは珍しいのか目線が釘付けである。
「孤児院か、話には聞いてたがまさかこんな所にあるとはな」
「……何用でしょうか? まさかこの近辺に危険な魔物でも……?」
「もっと悪い知らせよ、シスターさん。――指名手配犯とその一味が近辺に潜んでいる可能性があるの」
「おい、アイリス……」
「こういう時は隠し事すると面倒くさいでしょう、父さん」
「お前なぁ……。まあ、なっちまったもんはしょうがねぇか。俺はアーウィング。コイツと傭兵をやらせてもらってる」
成程、二人は親子なのか。それなら年が離れている事も納得がいく。
……にしても男はかなりの猛者のようだ。動きに全く無駄がない。例え死角から迫られても即座に反応出来る程の実戦経験を積み重ね、そしていつ戦いが起きてもいいように体を備えている。
少女はまだそこまででは無いだろうが、年齢離れした実力者だと見てとれる。
「近くにそんな人がいるなんて、何てこと……」
「確実じゃねぇがな。一応、俺達はここら一帯が怪しいと踏んでいる。何か変わった事は無かったか?」
「いえ、特には……。村に買い出しに行く時も、村の人は何も言ってなかったし」
「って事は、まだ潜んでいる可能性が高いな……。感謝する、すまなかった」
シスターと男の話を聞く。
さて子ども達にはどうやって話を伝えようかと考えた際、フェルナルドが鼻息荒く二人へ寄っていく姿が見えた。
「な、なぁ! アンタら、強いのか!?」
「何だ坊主。一応、これで飯を食ってるんでな。そこそこはやるつもりだが、どうかしたのか」
「俺を連れて行ってくれ! アンタ達みたいになりたいんだ!」
「フェルナルド……!」
彼の言葉に、傭兵の二人は顔を見合わせる。
どうやら互いの言葉は既に決まっているようだ。
「生憎、食い扶持を稼ぐのに必死でよ。これ以上面倒を見る余裕もねェ」
「同感。それに貴方、まだ剣の振り方すら覚えてないでしょ? 死ぬだけよ、それ」
「で、でもよ……!」
「暮らす場所があるなら、それを捨てる真似はやめとけ。無くしてから気づくもんだ」
そういって傭兵達は村へと向かっていく。
どうやらしばらくの間、滞在するとの事だった。
孤児院とはいっても、一生そこで生活なんて出来る訳が無く。
買い出しなどは必要不可欠な行動である。特に子ども達は食べ盛りなため、食料の消費は想像以上に早い。
そんな訳で俺はアイーシャと共に村へ歩いて向かっていた。一応、念のためとアイーシャは護身の魔術書を持ち歩いている。
「それにしても傭兵が来るなんてビックリ……」
「確かに。シスターの結界のおかげで魔物はほとんど寄り付かないからな。そういうのとは無縁だと思ってた」
「……少し怖いね」
アイーシャは簡単な魔術こそ扱えるが、それは生活に必要な範囲内の話である。当たり前だが彼女は戦いとは全く関係ない世界の住人だ。
もし例の手配犯とやらが来たら、孤児院は惨劇になるだろう。血が流れ、骸が散らばる光景が広がる。抗う力は無い。
――ああ、それは駄目だな。
「傭兵の人がいるし、大丈夫、だよね」
「うん、きっとそうだ」
今日の二人組が無事に仕留めきれればいいのだがと思う。
出来る事なら俺は――。
“我らはいずれ再会する”
「……大丈夫?」
「ああ、何でもない」
「ねぇ、ヴィル」
「?」
見るとアイーシャが俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
その表情には不安の文字が浮かんでいる。
「ヴィルもフェルナルドみたいに、孤児院から出たいって思う……?」
「理由が無かったら出ない、かな。また空腹で倒れるだろうし」
「……ぷっ、何それ」
アイーシャに笑われたけど事実である。
一年ほど前に、空腹で森の中倒れていた所をシスターに助けられた。そんなこんなで孤児院に腰を落ち着ける事になったのだ。
用心棒をやろうかとも考えたが、孤児院は平和であり思っていたよりもそういう機会は無かった。何より子どもの前でそんな物騒な事はさすがにアレだろう。
「ヴィルって、ぼんやりしてるし争いごとには向いてないと思う。うん、孤児院に来てくれてよかった」
「そうか?」
「そうだよ」
そういってアイーシャは笑う。
「ねぇ、ヴィル。私ね……」
「?」
「ううん、何でもない。内緒」
顔を背ける彼女に首をかしげる。
ああ、でもこんな日々を俺は悪くないと思うのだ。
子ども達もシスターもアイーシャもフェルナルドも皆、己の力で幸せに生きるだろう。
――ならば俺は? 孤児院で平穏な日々を過ごし、戦いとは無縁の日常だった。それでもずっと脳裏から、あの剣が離れない。
そこから五分程歩いて、村に辿り着く。
比較的規模の小さい農村ではあるが、それでも食料の流通には随分と助けられていた。
「あらぁ、アイーシャちゃん。儂らも傭兵さんから聞いたよ、怖いねぇ」
「ホント、そうですよねお婆さん」
商人の婆さんと話すアイーシャ。買い物は彼女に全て任せていた。正直、こういうのを見分ける目に関しては彼女の方が俺よりもはるかに優れている。
「ん……?」
視界の片隅、村の中央――確かあそこは村長の家だった筈。そこに見覚えのある二人組がいた。
確か傭兵の……。
そう考えていると少女の方と目が合った。父親である方は村長と話している最中である。
「あら、貴方確か孤児院にいた……」
「ヴィルだ。キミは」
「アイリスよ。何、気になる情報でもあった?」
「いや、生憎何も。ここは普段平和だし」
魔王との戦いの戦線からは遠いこの村は、本当に平和である。
尤もそれがいつまで続くかは不明だが。
「ああ、暇なのね貴方」
「……そんなに分かりやすかった?」
「顔に書いてあるわよ」
「マジか」
フェルナルド程では無いと思っていたが、どうやら自分はそういうタイプだったらしい。
「二人は、傭兵になってどれぐらい?」
「父は長いわ。私は物心ついてからずっと。こういう方が性に合ってるのよ」
「って事は、魔王との戦いにも参加が?」
「あるわよ。と言っても最前線ではないけれどね。金回りが悪いのと指揮官が終わってたから、最低限の仕事だけしてとんぼ返りしてる」
余程嫌な記憶があるのか、アイリスは顔を顰めている。
剣が主を選べないように、傭兵もまた同じなのだろう。
「ま、学校に入った後はそんな事気にしないでいいんでしょうけど」
「学校?」
「知らないの? 王国首都に建設された、士官学校。魔王との戦いで活躍する戦士を育てるための養成機関。
入るのも楽じゃないけれど、一定の力を示せば入学試験は通るわ」
「……それにもしかして、例の指名手配のやつと関係ある?」
「察しが良いのね」
手配書の人間は、どうやら討伐すると賞金に加えて、ある程度の名声も入るらしい。それ程の相手のようだ。
彼女が掴んだ情報曰く、元王国騎士団隊長格。魔王との戦いで魔族と交戦した経歴有。指揮官に反乱を起こし、そのまま魔族に同調し人を殺しまくっていたらしい。そうして戦いが停戦している今、そのまま王国に潜伏しているそうだ。
どこまでが本当の情報なのか、結局は分からないけど。
「間違いなく盛られている所もあるでしょうね。嘘は真実に混ぜるのが効果的だもの」
「……キミは何で学園に?」
「そんなの決まってるでしょ。こんな戦いだらけの日々をさっさと終わらせたいの。父さんもいい年齢だし……。いい加減どこかで畑仕事でもしてくれたいいんだけど」
溜息を吐きながら、彼女はそう告げた。この先の事まで見通しを立てている。さらには先の先まで。
ふと思う。――俺は本当にこのままでいいのだろうかと。
孤児院で旅を終えるのも悪くないと思う部分はある。でも、胸の渇きがそれを否定するのだ。
例え気づかないフリをしていようとも、無かった事にはならない。
「何か難しい顔してるわね」
「生まれつきこういう顔だ、悪いな」
「ふっ、何それ。変なの。
何か詳しい話があればまた教えて頂戴。この場所の地理に関しては貴方達の方が詳しいでしょうし」
アイーシャが俺を呼ぶ声がする。
……今は彼女と共に帰ろう、孤児院へ
――だが一度生まれた輝きは決して消える事無い。今もこの胸の奥で蠢いている。燃え盛る、焔のように。
“……ところで、何故お前は私を先生と呼ぶ”
いや、だって。貴方は俺に剣を教えてくれているじゃないですか。
教える者と請う者、であるのなら貴方を先生と呼ぶのは自然だと思います。
“何度も言っている筈だ。お前には教えているのではない、叩き込んでいるのだ。
教えは忘れる。時間が経てば記憶で色褪せ、やがて思い出せなくなる。
私の叩き込みは違う。例え忘却の果てだろうと忘れる事はその体が許さない。……ああ、だからこそか。私の国では弟子は独りもいなかった。皆、殺した”
はあ。
“はあ、とは何だ。斬るぞ”
いや、もう本気で斬りかかってきてますよねそれぇ!
うわ、無言で向かってきた! これ修行じゃない本気だ! チクショウ、やるしかねぇ!
……。
…………。
………………。
“……なるほど、まあやるようにはなったな。だがまだ甘い”
ぜえぜえ、この先生容赦なさ過ぎだろ……。また全身なます斬りにされかけたし。
“ふむ、成程。教えるのではなく、道を示しているのならそれも師と呼んでいいだろう”
おまけに何か一人で違う結論出してるし。
“しかし、お前には違う生き方もあっただろうに”
……どうでもいいですね。
どちらにせよ、飢えで死んでたでしょうし。貴方に出会えていない俺は俺じゃありません。
俺は貴方の弟子です。その道に生きて、その道に死ぬ――死に場所を自分で決める渡り鳥のように、そう決めたんです。
“……お前は一つの場所に留まれない、天に座する恒星ではなく、流星のような人間だ。だが知っているか。流れ星は燃え尽きて消えるのが道理だと”
それでも光を放つ事は出来ます。
きっと誰かの道標になる事だってある。俺と出会った時の、貴方のように。
“ふっ、全く。厄介な弟子を抱えたモノだな私も”
俺こそ、貴方に出会えて――。
「……」
それがかつての夢だと気づき懐かしさを覚えたのもほんの一瞬。すぐさま現実を見る。
気づいたのは、違和感からだった。
見られている、何かがいる――何者かがこの周囲を囲んでいる。それは長期間に渡って滞在してきたからこそ気づけたのかもしれない。
「――!」
ベッドから起き上がり、カーテンをめくる。
……暗い森の奥に、何かが煌いたように見えた。それはまるで刃のようで。
丁度俺が起きて来た物音で目を覚ましたのか、シスターも部屋に現れた。
「ヴィル? どうかしたかい」
「……シスター、結界に違和感はあったか?」
「ええ、ほんの些細なものだったけど」
もう一つ違和感を覚える。
何やら燃えるような、焦げ臭いような――。
「シスター! 裏手に火が……!」
そんな表情でアイーシャが飛び込んでくる。
即座に子ども達を起こして回る。フェルナルドも最初こそ眠そうな目をしていたが、焦げ臭い香りに異変を感じたのかすぐに手を貸してくれた。
子ども達と共に外へ出る。
孤児院へ放たれた火は瞬く間に燃え広がっていて、建物の頂上まで赤く燃え盛っていた。
「おう、出て来た出て来た。景気よく燃えてるなぁ」
「お頭、どうします? 囲んでヤっちまいますか? 上物もいますし」
「ひっ……」
舌なめずりする男に見られて、アイーシャが小さく悲鳴を上げた。
どうやら頭らしき男が座り込んで酒を飲んでいる。
盗賊の数は十人――どうやら何人かは件の傭兵に取られているらしい。
「っ! ここは、私が……!」
「お、俺だって……!」
アイーシャが震える手で、魔術書を構える。
フェルナルドが震えた手で、小さな斧を構える。
二人とも当たり前だが実戦の経験どころか訓練すらない。ましてや人相手なら。近くには件の傭兵がいただろうが、今からすぐ来れるかは分からない。
「へっ、所詮はガキだ! 囲んで一気にやっちまえ!」
「男は殺せ。女と子どもは高く売れる」
彼らは敵だ。この世界を生きようとする者を等しく摘み取ろうとする。
――あぁ、そうだと言うのなら。斬らねばならない。
そこらに落ちていた手頃な長さを持つ木の棒を手に、俺は自分の世界を切り替えた。
訣別の時だ。あの剣を再び目指す、嵐を超える時。
旅立ちのあの時と同じように。
“ついて来い。お前がそう願うのなら”
はい、行きます先生。
「なん、だ」
男は世界が冷たくなったと感じた。
眼前の少年が木の棒を手にした瞬間、何かが切り替わった。
本能が警鐘を鳴らす。今すぐ逃げろ。アレは危険だ。目の前にいるのは人では無い。まるで自分が巨大な掌に乗せられているかのような錯覚に陥った。気分次第でそのまま全て潰されてしまうような――。
「がっ」
少年の足が地面を跳ねる。たった一歩で数メートルを跳び、そのまま一人の盗賊へ肉薄した。
そのまま胸元を木の棒で強く押されて吹き飛ばされる。その男は燃え盛る火炎の中へと消えていって、二度と声を出す事は無かった。風に消え行く砂塵の如く、たった今一人が死んだ。
とうの本人は何も知らぬままであったが、遠雷を思わせるような凄まじい速度で首を打たれ全身の力が緩んだ瞬間を吹き飛ばされたのである。即ち、一瞬で二度の斬撃。
けれど少年の記憶の中にある女性は、遥かその彼方先に見えていた。
「ひっ!」
盗賊の一人が手にしていた錆びた直剣。吹き飛ばされた際に落としたそれを少年は拾っている。
剣の先をだらりと地面へ垂らす、脱力の構え。一見無防備だったが、踏み込めない。迂闊に踏み込めば殺される、と心臓が喧しい程に鼓動を強く響かせる。首筋に深く刃物を添えられているかの切迫感が、息を詰まらせる。
刃の如く煌く黒い瞳孔が次はお前だ、と告げていた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その恐怖に耐えきられなかったのか、二人がそれぞれの得物を掲げながら突っ込む。
だが少年の動作の方が遥かに早い。
振り抜かれた剣は、一人の首を半ばまで。そしてもう一人の心臓を貫いていた。力無く倒れていく亡骸を見る事しか、盗賊達には出来ない。
見ていた者には、少年がただ二人の間を歩いていただけにしか見えなかった。
「ぐあっ!」
「な、なんだよコイツ……!」
次々と斬りかかっていくが、為す術なくただ倒されていく。
それは止まる事無く、ただ風に吹かれる木の葉のように消えていく。
「……あんだけいた駒共も全滅か。やっぱり教会なんて焼くもんじゃねぇ。罰当たりがどんな顔して出てくるか分からん」
座り込んでいた男は空になった酒瓶を投げ捨てて、立ち上がる。
今までの盗賊とは装いも振る舞いも違っていた。男は俗に言う頭領であった。
傭兵の動きを抑えるべく半数を村に、残りを本命の孤児院へ差し向けていた。孤児院を殲滅した後、村を襲撃し滅ぼす予定だった。
その全てが狂った。たった一人の、まるでどこにでもいるような少年の剣で。
「お前、どこの流派だ。俺も騎士団じゃそこそこやる方だったが、お前の剣術は初めて見るぜ。まるで嵐だ。立ち塞がるモン全てを呑み込み薙ぎ倒す。
……戦場にいたら間違いなく英雄だったなお前」
「……」
問いに少年は答えない。その必要は無いと言わんばかりに淡々と構えを崩さず、男を見る。
それに応えるように男は剣を抜いた。血錆びがいくつも付着している使い古された剣だった。
「……油断なんて期待するなよガキ。テメェは危険だ。全力で殺す」
瞬間、再び少年の姿が消える。
男は即座に剣を眼前に翳した。少年の剣が、男の剣の腹へ激突する。
まるで木の実が自然と枝から落ちるかのように、その動作は澱みがない。
体格は男の方が遥かに優位だと言うのに、男の足は地面に深い平行線を刻んでいた。
“なんつぅ衝撃だ……! 動作の運びがほとんど見えねぇ……!”
少年はすかさず追撃の姿勢に移る。刺突の構え。そこから体を捻り、回るような動作での三連撃。斬撃の箇所も一切のブレが無い、まるで精密機械のような所作だった。受け止めるも、剣がぶつかる都度その力は跳ね上がっていった。
剣を握りしめる力を僅かでも緩めれば、得物ごと持っていかれかねない。
さらに斬撃を交えるも、押されている。振るわれる一刀一刀は男の命を正確無比に狙っていた。まるで蛇のように。
真っ当に打ち合っていては殺される。それが男の本能が告げた結論。
男は背後へ飛び退いて後退する――フェイント。そのまま回転斬りで、得物ごと両断するつもりだった。
「っ……!」
手応えが無い。肉を斬った感触が無い。
劒を振り切った姿勢。けれど、視線は背後から感じる。
少年は男の剣と腕を踏み台にして、剣を振り抜こうとしていた。
反射的に少年の足を掴み投げる。――眼前を、振り抜かれた剣の先が掠めた。もし反応が遅れていれば今頃頭と体は綺麗に別れていた筈だ。
“……っ! こいつは剣術を習った、なんてレベルじゃない!”
投げられた少年はすぐに身を翻し、受け身を取っていた。服に着いた砂埃を呑気に払い落としている。
死合った時間は僅か三十秒ほど。それで男は二度、死を体感した。
目の前の少年の評価を検める。アレは――。
“苛烈な殺し合いの中で育った或いは育てられたとしか思えない……! しかも、その殺意や立ち振る舞いを欠片に表に出さない……そんなヤツが何で孤児院なんて平和な場所に紛れ込んでやがる!”
「……あぁ、クソ。こりゃ撤退だな……! 命が最優先だ」
「――あら、それは残念」
男の胸が背後から貫かれた。剣がさらに深く刺し込まれる。
「ぐっ、がぁ……」
「村にいたヤツはもう父さんが終わらせてるわ。後はアンタだけみたい」
「……ちくしょう」
あぁ、やはり罰当たり何てするもんじゃないと男は思った。
でも先ほど死合った少年にもう会わなくて済むと考えた時、それだけでどこか安心した。
アレは――紛れも無く剣の鬼だ。
世界を切り替える。手にしていた剣を放り投げた。どうやらヤツは俺に全ての注意を向けていたようで、背後からの刺客に気が付かなかったらしい。どちらにせよ早く済んでくれたのならそれで良い。
少女は剣を抜くと、そのまま鞘に納めた。どうやら寸分たがわず急所を貫いていたようで、男はそのまま地面へ倒れた。
うわ、アレ大丈夫かな。子ども達のトラウマになってないだろうか。
「……まさかこんなにあっさり終わるなんてね。貴方、怪我は?」
「あぁ、大丈夫」
「……あれだけ動いたのに、息切れ一つしてないのね」
黒いフードを被った金髪の少女。ああ、そういえば孤児院に寄った親子のような傭兵がいたっけな。
今更記憶が蘇ってくる。
「とりあえずついてきて。村の方が安全よ、話なら行きながらでも出来るでしょ」
「そりゃそうか」
念のため、剣を手にフェルナルドとアイーシャを先頭。俺とアイリスが殿となるような形で村へ移動していた。
あんまり子ども達に剣なんて物騒なモノ見せたくないしなぁ。
「貴方、どこの出身? 私も物陰からその剣を見てたけど、あれは我流なんてモノじゃない。見た事も無い動きよ」
「孤児だよ、物心ついた時には先生に剣を教えて貰ってた」
「先生……ねぇ。孤児院にはいつから?」
「一年ぐらい前。森の中で空腹で倒れてるところをシスターに助けられたんだ。で、そこからは剣と無縁の生活を送ってた」
「はっ、冗談でしょ。錆びついてるとか言う次元の話じゃないわよ、貴方の剣。私ですら恐ろしいと思う程だったわ」
「じゃあ先生の剣はもっと怖いって事か」
「人が真剣に話してるって言うのに……」
空を見る。まだ夜中だ。どうやら連中は夜中に奇襲をかけようとしたらしい。戦略としては間違いでは無いだろう。俺にそういう判断は出来ないけど。
村を襲った方はアイリスとその父親が全員叩きのめしたようだ。
「……実は言うとね、貴方達は死んでると思ってたのよ」
「だろうな」
「だろうな、って貴方……」
アイーシャは魔術が使えるけど、実戦経験が無い。フェルナルドも力は強いが、同じく戦いの経験がない。シスターと子ども達は言うまでも無く。
本人達には言わないが事実だ。……本来ならばこの地には惨劇が訪れていただろう。
まだその恐怖が抜けていないのか、前を行く彼らはきょろきょろとあたりを見渡しながら進んでいる。
俺たちの会話は聞こえていないようだ。
「……間に合わないと思って見捨てるつもりだったのよ。連中がどこに向かったのかを把握だけはしたいと思って、私だけ先行した。父さんはまだ村の警戒と領主に緊急の伝書を送ってるわ」
「伝書?」
「鳩を使うでしょ。……もしかして貴方、それも知らないの?」
必要無かったからなあ、と内心呟く。
もし言葉にしてしまえば、また何と言われるか分からない。これ以上、珍妙な目で見られるのも御免被りたい所ではあるのだ。
「貴方のせいで、色々と狂いそうよ私……」
「俺のせいなのか」
「村に着いたら、また根掘り葉掘り聞かれるからそのつもりで」
「……うへぇ」
そろそろ寝たいなぁ。
――次なる戦いの場所。きっとそこへ行けば、俺はまた。
私は見た。見てしまったのだ。
燃え盛る教会の孤児院、それを囲む盗賊と頭の手配犯、怯える子ども達と孤児院の関係者。けれど私には今の彼らを救う実力も術もない。
自分の命を最優先。それが傭兵の生き方の基本。だから私は見殺す事を選んでいた。
隠密の魔術を使い茂みに隠れた際――ソレは、当たり前のように剣を振るっていた。
今の自分じゃ決して届かない――そう思ってしまう剣を。
この先の探りも考える事も自分の無力感に悔しさを覚える事も何もかもを忘れてしまった。
剣豪? 剣聖? 違う、そういった話ではない。あの斬撃は、見た者を狂わせる。
今の私のように。
彼を知ろうとして、色々と尋ねてみたけれど余りにも世間離れしていて、思わず溜息を吐きたくなる程。
私の目的は学園に入って、魔王を倒す事。そうして戦いを終わらせる事。彼にそれについてきてくれるだろうか。
今回の手柄を、独り占めにしようなどとは考えていない。そもそも私は不意を突いただけだ。きっとあのままなら間違いなく、彼が勝っていた。
共に戦いたい、あの剣と。
辿り着きたい、あの剣に。
「……じゃあ、なんだ。盗賊の大半とその頭は坊主一人に蹴散らされたって事か?」
「その通りよ、父さん」
「いや、トドメを刺したのはアイリスじゃないか」
「私はただ横から掻っ攫っただけで、大立ち回りを演じたのは貴方でしょ」
「何故、怒ってるんだ……?」
村長宅で、俺は事情聴取されていた。いるのは俺とアイリス、アイリスの父親―ベルナンドと名乗っていた―。シスター、アイーシャ、フェルナルド、村長と伝書を貰いすぐ駆け付けて来た領主とそのお付きの騎士である。
子ども達は村の空き家を借りて眠りに戻っていた。
「ふむ……にわかには信じがたいですが、わざわざ彼に名誉を譲る必要も無し。騎士達も現場を確認し、死亡していたのが本人である事は確認が取れております」
「……あの男の実力は紛れも無い本物です。それは王国の歴史が証明しております。ですが、まさかこのような事になろうとは」
「ヴィル殿、でよろしかったかね」
「え、はい」
領主と目線が合う。
「君は何を望む?」
「望み、ですか?」
「うむ。金であれば準備しよう。土地であれば時間が欲しい。名誉と地位であれば用意しよう。それだけの事をキミは今回成している。あの男に煮え湯を飲まされた者は数知れない」
「……」
俺の望み、か。
決まっている事を口にする。
「孤児院の子ども達とシスターが以前と変わらぬ生活を過ごせる事を」
「ふむ、それは元々そのつもりだよ。この村は領地にとって大切な場所だ。私としても早く、元の暮らしが出来るように力を尽くす。
だが、それは本当にキミ個人の願いかね?」
「……」
孤児院の事を考える。
シスターもアイーシャもフェルナルドも自立している。子ども達もその背中を追えばいずれ旅立ちを迎え、やがて幸せになるだろう。
……ならば俺は? 俺は、一体何の為に生きている?
“いずれ我らは再会する”
「次の戦いの場所へ」
「ふむ?」
「俺は、戦場へ向かいましょう。この剣を抜いた事にきっと意味はある」
戦場だ。きっと、俺達はそこで再会する。
そうしてきっとそこが――。
「……成程、ならばであれば学園だな」
「?」
「魔族と戦う場所へ行くには、学園の許可がいるのだよ。無駄な死人を増やしたくはない。
ある程度の力を付けた、と判断された者が戦場へ向かう事を許可される」
「なる、ほど?」
理解出来たような出来ないような。
「学園のおかげで魔族との戦争においても死者はかなりの数抑えられている。尤も、魔王とその幹部が直接出てくればどうなるかは分からないがね」
「学園、ですか」
「ああ、それならきっと良い。きっとキミの剣も役に」
「ま、待ってください! ヴィルが戦場に行くなんてそんな……!」
アイーシャが声を荒げた。優しい彼女にしては珍しいなと思った。
「……どうやら、大人が入る話では無さそうだ。キミ達で話をしてみるといい」
そのまま部屋を出ていく者達。残されたのは俺とアイーシャ、そしてシスターとフェルナルドだった。
「ヴィル……」
「シスター、すみません。拾われて、面倒まで見て貰ってましたが。どうやら俺は俺のやるべき事を見つけたようです」
アイーシャが俺の手を握った。いつものはつらつを感じさせた力強さは無い。不安に震える、小さな手だった。
「ヴィル、もしも貴方に何かあれば私……!」
「アイーシャ」
「今なら、まだ引き返せる、から……」
ふと思う。彼女の言葉に頷いた時の人生を。争いとは程遠い、穏やかな日々を。
子ども達の声と共に日常を過ごし、大地の恵みに感謝し、隣人を愛しく思いながら眠りに着く。
それはきっと素晴らしいモノだ。手に入れ難く、美しいモノだ。きっと誰もが心の底で求めている。
――でも、俺は。
「ごめん」
「っ!」
運命に出会ってしまったから。
彼女に。あの剣に。
もしここが平和に過ごせる日々への、最後の分岐点だったとしても。今の俺はきっと変わらぬ道を選ぶだろう。
短い瞬きのような、人生を。
「……っ!」
そのままアイーシャは踵を返して、部屋を出ていく。
あぁ、馬鹿だな俺。こうなるって分かってたのに。
「フェルナルド、後を頼む。きっと俺じゃ、何を言っても逆効果だから」
「……あ、あのよヴィル。お前怖くないのか」
「?」
「俺はあの時、自分が死ぬんじゃねぇかってビクビクしてたよ。兵士になるって息巻いてたのに、急に戦うってなったら足が竦んで、手が動かなくて。
お前は……死ぬのは怖くないのか」
「あぁ、そんな事か。そうだな……。俺は何も為せないまま死ぬのが一番恐ろしい。
脳裏から離れない景色があって。そのために俺は今を生きている。だから、その何かを為せてそれで死ぬと言うのなら俺はそれでいい」
「……分かんねぇ。分かんねぇよ、お前」
「俺の事はいい。アイーシャと孤児院を頼んだ」
俺は剣に生きて、剣に死ぬ。
それはきっと変わらない。
俺と貴方と剣の果てで @nanikanoteriyaki
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