母との距離

@azumiren

第1話

「私にとって、一番忘れられない瞬間は、 雨の日のことです。

小さな駅の入口で、母が傘を閉じた時、

私は初めて、あの人の背中が濡れていることに気づきました。

母の傘の中にいた私は、ずっと守られていたのだと、 その時、初めて知ったのです。」


千夏はポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出す。

半年前、授業で書いた課題作文だった。




その短い文章を読み返すたび、

千夏はわずかな苦笑を浮かべてしまう。

あの頃は、言葉にすることで、

何か大切な感情を形に留めておこうとしていたのだろうか。


それが感謝なのか、安堵なのか、

あるいは言いようのない不安なのか、


自分でもはっきりしない。


ただ、言葉として外に出すことで、心の中で揺らめく思いが、

少しでも定まるような気がしていた――

そんな心許ない記憶だけが胸の奥に残っている。




六月の大学キャンパスは細かな雨粒に覆われていた。

ざわつく湿気が、どこか閉ざされた空気を醸し出す。

その朝、千夏は傘を手に、講義を放棄して歩いていた。


理由はたいしたことではない。

寝不足で、朝が重苦しく感じただけ。


教室を抜け出したところで、

行き先も決まらないまま、

図書館の窓際の古いベンチに腰を下ろす。


ベンチの背もたれ越しに聞こえる雨音は、

地面に小さな水溜まりを作り続けていた。



今となっては母との距離は、

気づけばじわじわと開いてしまっていた。


長く連絡を途絶えたわけではないが、

電話をかけようとするたび、何から話せばいいのか分からなくなる。

向き合うことが重荷で、どうしても腰が引けてしまう。


にもかかわらず、母は相変わらず、

あの頃自分の好物だった母お手製のおばんざい、

あるいは季節の果物を、

気まぐれに送り続けていた。

その包みを受け取るたび、

千夏は幼いころ守られていた自分を思い、

そして今それに報いることができない自分を責めずにはいられなかった。


こうして、願望と現在がずれたまま溶け合わずにいることを、

梅雨空の下で改めて意識する。

しとしとと降り続く雨音の中、千夏はその小さな作文を、

濡れかけた手のひらでそっと押し戻しながら、小さく息をついた。


「どうして、こんなに自分はダメなんだろう」


その独白は、雨音に呑み込まれ、消えた。


心の内にわだかまるものを振り切るように立ち上がり、

図書館棟から大学までの

歩き慣れた道を進んでいると、ふと視線の先のベンチ脇に

小さな紙切れがへばりついているのに気づく。

わずかに色あせた栞しおりだろうか。

誰かが落としたのか、図書館の本から滑り落ちたのか、

それは雨に溶けかけたインクで、かろうじて文字の輪郭を留めていた。

興味よりも、なぜか「放っておけない」という気持ちが先に立つ。

細く、脆い紙片は、このまま放っておけば雨水に溶けて消えてしまいそうだ。


千夏は傘を一度閉じ、慎重に体を傾けて栞を拾おうとした。

その瞬間、濡れた木の枝が靴先に引っかかり、バランスを崩す。

背中には、容赦なく降り注ぐ冷たい雨。たちまち全身が湿り、

制服の生地が肌に貼りつく。

だが、もう引き返せない。

落ちかけた栞を指先でつまみ上げ、大切に手のひらで覆う。

ほんの小さな紙切れを守るため、自分が雨に濡れることになるとは思わなかった。


学内施設へ駆け込み、入り口で待機していた職員が彼女を見てタオルを差し出してくれた。

タオルを受け取りながら、千夏は手元の栞をそっと開く。

かすれた文字の断片からは、短い詩がかろうじて読める。


「雨が君の背中を濡らすとき

 誰かが君を待っている。

 その誰かが たとえ遠くても 

 傘の下で心は繋がる。」


濡れた髪から水を拭いながら、千夏は母のことを思う。

自分を守ってくれた人。

その存在は、どんなに遠くなったように感じても、

今も見えない傘を広げ続けているのかもしれない。


手の中で微かに震える紙片は、

無力なようでいて、

見知らぬ誰かの思いが滲み込んでいる。

千夏はその栞を大切にタオルで包み込み、小さく息をつく。

雨が止む頃、濡れたスマートフォンを取り出して、

長いあいだ鳴らさなかった番号へコールする。

呼び出し音がほんの数回鳴っただけで、

母の声が受話器越しに飛び込んできた。

いつもと同じ、穏やかで少し抑揚のない調子だ。


「そっち、雨どう?」


その何気ない問いかけに、千夏は胸が苦しくなる。

こっちは一人で都会へ出てきて、

母をがっかりさせないようにと躍起になりながら、

実は期待に応えられていないんじゃないかとずっと気にしていた。

連絡を取るのが怖くて、言い訳を考えては先延ばしにしてきたのに



――母の声は変わらない。

昔と同じ距離感で、当たり前のようにそこにいる。


「……うん」とだけ言って、千夏は空を見上げる。

低く垂れ込めた雲の切れ目から、細い光がすうっと差し込んでいた。

頭の中であれこれこじらせていた自分が、何だか滑稽に思えてくる。


母の声の向こうには、いつもと変わらない家の風景が広がっているのかもしれない。

慌ただしく状況に翻弄されてきたのは、どうやら千夏だけだったようだ。

何か言いたいような、けれど言わなくても分かっているような、

そんな空気が通話口を満たしている。

結局、母は何も責めないし、何も押し付けてこない。

ただ同じ場所に立ち続けて、こちらの声を待っていてくれる。

それに気づいたら、千夏は肩の力がすっと抜けていくのを感じた。

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