春雷

梅崎幸吉

第1話~完了

「春雷」





 ――清水由美は自宅の応接間に掛かっている六号の絵を見ていると痛みが伴う不思議な郷愁に包まれる。

 由美がどうしても購入したいと思った最初の絵画である。だが、これ以後二度と絵を買うことはないであろう。



      *



 二年前の出来事が昨日のように鮮明に蘇る。

 清水由美の職場は丸の内にあった。二十階建ての銀河ビルの三階にある光洋商事に勤めていた。


 短大を卒業してすぐに父親の友人が経営している今の会社に入った。

 二年たっても由美は社交的になれなかった。社長が父親の友人ということもあってか表面的には特に何の問題も無い。天気の良い日の昼休みは、歩いても五分の日比谷公園で手作りの弁当を食べた。

 噴水のある場所が由美のお気に入りで、そこからは花壇もよく見える。春の色彩豊かな花々と新緑の芽吹きは新鮮な空気と生命力を送ってくれた。

 由美はもっと自由な美術に関わる仕事をしたいと思っていた。


 由美は七歳の時に両親を飛行機事故で失った。実家の九州のお爺さんの葬式に行くはずであった。幸か不幸か、その前日から由美は高熱で寝込んでいた。


 由美は父の兄の養女となった。父の兄は真面目で実直な人物であった。兄夫婦には子供がいなかった。


 両親の突然の死は、当時の由美には実感出来なかった。又、したくもなかった。だが、いつまで待っても両親は由美の所に帰って来ない。由美には死というものがよく分からなかった。逆に言えば生きるということも、何故、何の為に生存するのか?という疑問がその時に漠然と芽生えたのである。

 由美は生活には何の不自由もなかったが、成長するに伴って幼かった頃の疑問も同時に大きくなっていった。


 中学になる頃はすでに文学少女であった。本来、内省的であった由美は、ますます自分の内部にこもるようになった。 由美にとって、現実の世界よりも文学の世界の方がはるかに現実的であった。美術の世界も魅力的であった。由美は芸術を通して様々な人生を味わい、自由に生きる事ができた。


 養父である孝男は、そんな由美を見ていて心配ではあったがどうする事も出来なかった。孝男自身、生きる意味を考えるゆとりも必要も由美のようには執着出来なかった。由美が独り立ち出来るまでは責任があった。


 高校に入る頃には、由美は心理学や哲学に興味が移行していた。

 文章や散文詩、気が向けば絵画も自分の好きなように描いていたが、自分の好きなもので生活したいほどの強い要求は見いだせなかった。自分が養女であることの自覚が、思春期特有の情熱に自分を委ねたい、という感情を押さえているのも確かであった。自分と同年代の友人達が恋愛に夢中になっているのを見ても別に羨望も興味もわかない。


 由美は友人から見れば変人の部類に属していた。だが、嫌われていたわけではない。むしろ、皆の人生相談や悩みを聞いては的確な助言を与えていた。単に異性に興味が無い、これだけでも十代では変人に値する。


 短大に入ったのは、ただ早く仕事をして自活をしたかった、それだけである。由美は、高校の頃から本代や映画などの自分の小遣いはアルバイトで稼いでいた。一カ月の本代だけでもばかに出来ない金額だった。

  今の会社に入ったのも単に養父を安心させるためである。 由美は自分を決して出さないこと、目立たないこと、これが周りとのバランスを保つ技術であった。演技といえば演技である。しかし、誰もが日常のなかで演技をしている。社会のなかでこの演技が出来ない人間は簡単に自滅する。由美は文学を通しても、現実でもそれを学んだ。


 由美は、自分自身でもこの全てを相対化するものの考え方が決して好きではない。だが、他にどう考えて良いのか方法が見いだせなかった。


 会社が早く終わる日は銀座の画廊を見て歩く。週毎に作家が入れ替わる。自分の会社の近くにも、五、六軒はあるのだが昼休みの内に見てしまう。しかし、最近は少し遠のきつつあった。どの作家も皆似たようなものに感じられ、刺激がない。現代の文学もそうであった。いや、芸術全般がそうなのかも知れない。由美は見る眼だけは肥えていた。最も、これは由美の贅沢な望みであろう。かといって、自分では人の魂を揺さぶるようなものは生み出せそうもない。

 有楽町線の市ケ谷で降りて四谷の方に五分も歩くと由美の住んでいるマンションがある。もうすぐ桜の花が咲く。小さな蕾が細い枝にたくさんついている。外堀公園の土手は散歩に気持ちがいい。

 由美が独立したいと言った時、普通のモルタル作りのアパートでいいと言って、養父の孝男と少し対立した。孝男は女性の独り暮らしがいかにあぶないかを力説した。それで今のマンションに決めた。八畳の広さに台所、それにトイレがついたユニットバス。それでも家賃は10万である。それでも此処らでは安いと不動産屋は言った。家賃の半分は孝男が出している。ありがたいのと窮屈さの両方があった。


 養父の孝男が先日もお見合いの話を由美にした。由美が結婚しないと自分の責任を果たしたことにはならないのであろう。由美は結婚には特に興味がなかった。

 さらに言えば、男性と付き合うのも嫌であった。由美の友人のなかにはちらほらと結婚する者も出てきた。だが、まだ由美は二十二歳である。孝男にしてみれば、だからこそ悪い虫がつかないうちにとでも考えているのだろう。


 由美は男性に限らず、人間不信であった。その意味は由美自身がよく分かっていた。物でも何でも、執着すればするほど自分自身を見失なう。まして、相手が人間であれば尚更である。生成死滅は自然の摂理である。これは両親が由美に残した、唯一身にしみて分かった教訓である。この教訓を覆すような考えや出会いは現実にはまだ無い。これからもあるかどうか、由美は懐疑的であった。


                      *


 由美の全身に形容しがたい戦慄がざわざわと駆け巡っている。その絵の前で由美は立ち尽くしていた。会社の近くにある画廊に昼休みを利用して入ったのだが、会場に入った時から胸の鼓動が高まった。三十坪程の空間がやけに広く感じる。作品も大きくて三十号。他は四号から十号までの作品が多く、油彩画が大半である。デッサンや水彩画は五点である。

 由美の目の前の絵は六号の小品である。題名は「旅芸人の少年」と書かれてある。

 青を背景に少年の半身が描かれている。やや俯いたその顏はすでに深い諦めの表情をしている。特に変わった手法でも無い。柔らかいトーンのどちらかと言えば情感的な作風である。

 由美はこの少年を見て、ピカソの青の時代の作品を思い出した。

 特に「道化師の家族」、「アルルカンの肖像」などが由美の脳裏に鮮明に浮かんだ。名状しがたい感情が由美を襲った。涙が溢れて止まらない。昼休みの時間もあまりない。羞恥の感情もあるのだが押さえきれない熱いものが激しく込み上げてくる。だが、由美はとにかく会社に戻らなければならない。

 職場に戻っても仕事が手に付かない。気が付くと涙が流れている。何度もトイレに行っては気を静める。体のなかが燃えるように熱い。由美の同僚達も、赤い顔の焦点の定まらない由美を見ていて心配し始めた。由美は体調が悪い事にして早退した。


 由美は自分が、どうやって自分の部屋にたどり着いたのかさえ良く覚えていない。由美の全てが混乱している。現実の感覚さえ覚束ない。由美は着替えもしないでベッドに横たわった。

 翌日も会社に休ませてほしいと連絡を入れた。

 由美は本当に疲れていた。正午過ぎまで眠っていた。


 夢の中で久しぶりに両親と会った。懐かしかった。由美はまだ子供だった。父と母が由美に手を振って離れて行く。由美は呼んだ、大声で呼んだ、だが両親はどんどん遠退いて闇に消えた……

 由美は泣きながら目を覚ました。もう午後の一時近い。まだ夢の余韻が残っている。……起きると眩暈がする。空腹感も無い。 

 由美はあの絵がどうしても欲しくなった。画廊に電話を入れた。不安であった。もう売れているかも知れない。画廊のオーナーが出た。まだ、売れてはいないが、あの絵に関しては作家が相手によっては売らないという。非売にしたかったらしいが、展示した以上は一応値段は付けたと。オーナーは「この画家は、少し変わっているんですよね」と言った。

 由美はオーナーに聞いた「それでは、お会いすればいいんですね?」と。ただ、オーナーはあまり期待しないようにと、すでに三人断られていると言う。由美は時計を見た。まだ五時である。画廊は七時までだが、由美の会社が近い。誰と会うか分からない。作家が来るのを確めて、由美はタクシーで画廊の前まで行くことにした。

 画廊に着くと作者はすでに来ていた。由美は、勢いで来たがかなり不安であった。初日からまだ二日しかたっていないのに三人が断られているのである。画廊の事務所の顏を出して先ほど電話した清水ですと言うと、五十歳位のオーナーが頷いて作者に紹介した。

 由美はすっかり勘違いしていた。さっき自分が勝手に会場で作者だと思ったのは単なる絵描きの友人の方であった。青木哲というまだ二十八歳の画家は日焼けして身体もがっちりとしている。どうみても繊細な芸術家には見えない。建築現場で働いていそうな肉体労働者の風貌である。百八十センチはありそうでその手もごつい。このごつい手のどこからあの深い悲しみの情感が描けるのか?


「ああ、話は土井さんに聞いた。ただ、おれは少し口が悪いかもしれないが、気にしないでくれ」

 確かにぶっきらぼうな言い方である。だが、由美にしてもその方が気が楽である。由美はあの絵の値段も少し気になったが、それよりも、まず自分が買えるかどうか、こちらの方が先の問題であった。

 他の三人も自分と同じように感じたのであろうか?

 この画家はなにを基準にして相手を見るのか?

 目の前で煙草を吸っている青木を由美は真っ直ぐに見た。青木は、自分の方をじっと見ている由美を見て笑いながら言った。


「おい、あんた、あれを見に来たんじゃないのか」

 由美はふいに青木に言われたのと、自分の考えを見抜かれた様な気がして顏が赤くなった。

 由美は立ち上がると自分が欲しい絵の前に立った。又、最初の感情が由美を捕えた。全身が震えている。涙が止まらない……。  


 画家の青木は由美を気にする風でもなく、自分の友人が来ると、「何だ、てめえ、暗い面してんなあ。もう、絵なんかやめちまえ」

 青木は言いたいことを言っている。言われた方も「おれは、才能ないしなあ」などと言っている。

「……でもよう、なんだか」と相手が言おうとすると「何だってんだよ、おい、引き際ってもんが何でもあるんだよ。あと十年もしてみろ、つぶしがきかねえぞ。まだ三十前だろう。やめるんだったら、今しかないぞ」と強い口調で言っている。相手はその気迫に押されて「じゃあ、またな」と青木の絵も見ずに帰ってしまった。由美は、二人の会話を聞いているうちに少し冷静さを取り戻した。


「さっきの方も絵を描かれているんですか?青木さんの絵も見ないで帰られたけど」

「ああ、あんなもんだ。自分の事で疲れてね、だからおれはいつもはっきり言う。ああいうやつはパンを焼いたり靴でも作っていた方がいいってね」  

 青木は吐き捨てるように言っているが、由美は何か妙に胸を打つものを感じた。

「そういえば、あんたも疲れてんのか。なんか変だぞ」

 由美は、とっさに何と答えたらいいか一瞬言葉に詰まった。

「私は、青木さんの絵を見て、ピカソの青の時代の絵がたくさん浮かんだの。何か、こう胸が締め付けられるような、深い諦めのような、……言葉って難しいわね。うまく言えないわ」

「ふうん、青の時代か。そうか、おれの絵はまだ暗いのか。最もこのおれは、まだガキだからな。ふむ……」

 青木は煙草を吹かしながら、自分の絵を睨みつけるように見ている。由美が気に入った自分の絵の前に行くと青木は腕組みをして怖い眼差しでじっと見つめている。

「ああ、もう時間だ。おい、もし用が無ければ、飯でも食いに行くか?」


 由美は絵の件はどうなっているのか、と思ったがこの青木という人物にも興味が沸いてきていた。

 青木が連れていったのは二十階にあるレストランであった。

「おれは、高いところが好きでね。いや、食い物は安いほうがいいんだが。ここから見ると、本当に下には人間がちっぽけでひしめいているのがうそみたいだよなあ。……全くいやになるよ」

 由美は青木の話を聞いていると、時々自分自身と話しているのか、目の前の現実の人物と話をしているのか、単に独り言なのか判断がつきにくい。理由は、今まで誰も由美が納得するように答える事の出来なかった質問を青木に投げ掛けた。

「青木さん、質問があるんですが、これは私も随分考えてどうしても分からないことで、青木さんならものごとをはっきりおっしゃる方だから言うんですけど」

「そんな、前置きはいいから、ずばり言ったら」

「はい、人間て一体何のために生きているのですか?」

 由美の真剣な顔付きを見て、青木は頭を掻きながら言った。

「そうだな、おれは、人間はまだ真の人間になっているとは思っていない。説明はやっかいだが、この、おれから見て形は似ているがほとんどが人間じゃ無い。最も豚や猿という言い方で言えば、確かにおれは豚ではない。一応見た目は人間と呼ばざるを得ない姿をしている、だが一切を元素に置き換えたら、一体誰が実体を判断出来るか、この一点に全てはある。分かるか」

 青木は由美を見ないで宙に向かって言っていた。由美の思考が一気に活動を開始した。青木は夜景を見ながらビールを飲んでいる。

「それは、自然科学の法則原理では、この世界は法則の抽象的関係でしか成立し得ない、つまり人間を含めその原理の関係から出ることは出来ない。その関係自体は意味も無意味も無い、そういうことですか?」

「随分と抽象的で回りくどい言い方だな。まあ、あんたの言っている視点に限ればそうだ。特に今はその相対的な考えが流行りだな。どんなものも屁理屈になる。まあ、個人にとっては便利な考えだよ。だが、そんなものは芸術にとっては自明のことだ。科学に半端にかぶれた連中がくだらんものをごちゃまぜにした。今、知的錯乱がまともだと信じて疑う事も無い。やだねえ、おめでたい奴が多すぎて。これは、あんたの質問の答えになっていないな」

 由美は少し混乱した。青木の考えでは自分もおめでたい人間のひとりである。青木の直観力と思考の回転は速い。


「あんた、少しは悩んだんだろうけど、普通の生活をしているんだろう。そのうち、疲れるよ。ピカソの青の時代の事をあんたは言っていたけど、あの状態になったらおかしくなるよ。無論、あれは暗くも明るくもない。ただ、ピカソが自分の無能さにじたばたしていただけだ。あのゴッホもそうだ、ゴーギャンも、詩人のランボオも、あの時代の連中はそのなかでほとんど斃れた。今の自称芸術家とほざいている連中はそれを食いぶちにしてるって訳だ。今のあんたがもう少し進むと似たような状態になる。抽象表現はその中和剤にすぎない。奴等は東洋的思想や禅の世界に助けを求めたのさ。最も、あんたの生き方におれがどうこう言う事じゃないが……」

 青木は由美の目を見た。だが、すぐにそらしてビールを一気にあおった。由美は自分が同情されているのか、責められているのか、或いは、叱咤されているのか判然としなかった。

「それで、青木さん、あの絵は私に売ってくださるんですか?」

 青木は夜景を見ていた。由美の目を見ずに頭を掻きながら言った。

「別に、焦らすわけじゃないが、最終日に連絡するよ」

「それと、これも聞きたかったんだすが、何故、あの絵だけは売りたくないんですか?」

 青木は由美を見つめて腕組みをした。由美の心の奥まで見抜くような恐い眼光である。青木の話は知性に裏付けされた迫力もあり、論戦すれば由美など赤子の手をひねるようなものであろう。それに青木のような人物がものに執着するタイプにはどうしても見えない。もし、非売にしたければ展示しなければよいのである。


「いや、決して売りたくないんじゃない。そうだよな、だったら何故見せたってことになるよな。単に我儘っても、あんたには通じないな。画廊の土井という人から三人断ったと聞いたんだろう。あんたは、このおれのことをかなり誤解しているようだな。今日はおれもやや理屈っぽいが、このおれの言うことをそのまま聞いてくれ。おれの欲望、野心、全てに対する執着、これは人後に落ちない。おれは自己愛を肯定する。どう、今のを聞いて矛盾を感じるだろう。この、おれから見たら誰も真剣に自分を愛してはいない。本当は簡単に愛という言葉は使うのは嫌いなんだが、自己を突き詰めると他人との境界が無くなる。言わば、親和力を獲得する。さっき言った関係の実体を体験するんだよ。無論、それだけでは駄目だ。これは単にスタート点にすぎない。あんたがさっき言った相対性の球体の中から抜けることが出来ない。俗に象徴派と言われている連中がそうだ。あんたは文学に詳しいんだろう。そういう顏をしている。まあ、簡単にいうと子供の親離れ、これが近代の悲喜劇だよ。そして当然、抽象表現に至る。個人が個人では無くなる。だが、いやでも個人は存在する。あんたはあんたでしか在りえない。他人を私とは言わんだろう。あんたが感動するのはそこだ。閉じた球体を壊した者のもがき、苦悩、孤独だよ。すでにあんたが壊していれば共感しか感じない。あんたの設問自体がすでに間違っている。それが、おれが最初に言った人間はまだ人間では無い、ということだ。ものごとを真剣に考えるというのは自分の前提を見極めてでないと堂々めぐりを繰返す。これは実に悲惨なことだ。今日でもそれは繰返されている。こんな話を一体、誰が聞く。前の三人は頭がこんがらがっていたよ。こんな理屈を聞かされたら、いやんなるよな。これはおれの我儘だ。売れればいいって問題じゃない。あの画廊だって一週間幾らで借りている。だから、おれのわがままも通るってわけだ。もう、疲れただろう。この話はやめよう。まあ、あんたもがんばんなよ。それにまだ、人間もまんざら捨てたもんじゃない」

 

 由美は残業が七時過ぎる日が続いた。昼休みに青木の絵を見に行った。赤丸はついていない。今の所、誰も買えないらしい。丸の内はオフィス街なので土曜日が最終日であった。

 青木も仕事が忙しいらしく二日に一度、それも七時ぎりぎりに顏を出す程度と聞いた。

 由美にとって最終日は審判の日である。不安で足が向かない。電話も手には取るのだが、すぐに受話器を戻す。留守電にして散歩に出た。曇っていたが春の風が心地よい。


 ――遠くで雷の音がした。雨が降るかもしれない。まだ三時である。

 由美は四ツ谷駅の近くの喫茶店に入った。確か、最終日は五時までだ。由美は一人で時間をつぶすのは慣れている。さっきから胸の鼓動が早い。恐らく自分には売ってくれないだろう、とその不安が心臓のリズムを早めている。この胸騒ぎもきっとそうに違いない、と由美は想った。一時間程で喫茶店を出た。

 ――今度は近くで雷が鳴った。由美は急ぎ足で歩いた。


 自分の部屋に戻ったが留守電には何も入っていない。

 由美は何も考えまいとした。身体も何となくだるい。少し休もうとベッドに潜り込んだ。寒けもする。風邪でもひきかけているのかもしれない。由美は落ちるように眠った。

 由美が目を覚ますと八時になっていた。外は暗い。すっかり眠ってしまったらしい。暗い部屋のなかで留守電のランプが点滅している。由美は、部屋の灯を点けると大きく深呼吸をして留守電を聞いた。

 画廊のオーナーの土井からだった。青木の絵を預かっているから、月曜にでも取りに来て下さい。内容はそれだけだった。由美はほっとした。月曜が待ちどおしかった。

 

 由美は、会社の昼休みに食事もしないで画廊に行った。

 違う画家の個展の会場になっていた。画廊の事務所に入ると、土井がいた。

 土井は由美に作品を渡すと「才能があったのになあ」と言った。由美には何のことか分からなかった。由美が代金の事を聞くと、今度は土井が怪訝な顏をした。

 青木は土井に最終日も仕事で五時までは行きます、と連絡はあったが、三時頃建築現場の人物から電話があり、八階の足場から落ちて死んだ、と。この絵は清水さんが買ったから会期が済んだら渡してくれと、青木に頼まれていたと土井は言った。

「彼は豪華な額が嫌いでね。手作りの簡単な木の縁を好んでいた。後は、購入した人物が勝手に気に入った額を付ければいいと言っていた」

 オーナーは作品を梱包材で包み、買い物袋に入れてきた。


 由美は血の気が引き、頭が真っ白になった。 

 ――あの春雷がなった時に青木は死んだのだ。あれは青木の死の知らせだった。

 ――由美は夢を見ているのだ、と思いたかった。



 由美が、青木の作品を持って画廊を出ると、遠くで春雷が鳴った――。






                                  了  



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春雷 梅崎幸吉 @koukichi-umezaki

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