エピローグ:潮満ちて

 あの夏から一年。時の流れの速さに驚きながら、繰り返す日々の中で気づく。


 久々に帰ってきた雨上がりの静かな行橋に、遠くの方から工事の音がかすかに聞こえてくる。どんよりとした曇り空が、あの頃見えていた灰色の町そのもので、余計に懐かしくなった。灰色だと思い込んでいた町並みに、いつの間にか色が混ざり始めていた。昔からある建物と新しい店が混在する通りは、まるで自分の心のように、古いものを抱えながら新しいものを受け入れ始めていた。


 俺は無事に県外のFラン大学に合格し、都市部での生活を満喫している。

 穂香は実家の米農家を手伝えるように、行橋で就職したらしい。

 汐は……どこで何をしているのだろう。実家の牡蠣小屋は無くなり、小さな祈りの浜辺も今はきっと干からびていることだろう。あの夏の日以来、消息は不明。新学期から学校には顔を出さず、親の仕事の関係で引っ越した、とだけ担任から知らされていた。北関東は、あのときの俺には遠すぎた。


「睦ちゃん! 久しぶり!」


 穂香が改札前のベンチで待ってくれていた。一年前より少し痩せて、髪も伸びている。ノーメイクで男勝りだったのに、今日はうっすらメイクまでして、目元が柔らかく見える。社会人になったからか、随分大人びて見える。けれど、駆け寄ってくる足取りは相変わらずたくましく、ベンチから立ち上がる仕草も力強い。力強いのに落ち着いていて、制服姿の頃とは違う、社会人としての佇まい。けれど、俺を見つめる瞳の輝きは、あの頃のままだった。口元を緩めて、少し恥ずかしそうに目を伏せる仕草は、新しい穂香の一面を見せているようで、懐かしい感じもする。


「じゃ、行くか」

「今年はずっといっしょにおってくれるんよねぇ?」

「当たり前ちゃ!」

「なら良いけど」


 今日はこすもっぺ。あれからちょうど一年になる。去年と同じように、浴衣姿がちらほら散見される。


 駅前のイベント会場の熱気そのままに、湿った空気が汗を誘う。イカツイ男が大声を張り上げて客の呼び込みをしているのをかわし、ここに出していた牡蠣小屋で汐と再会したことを思い出す。あのときの汐は満潮時の汐であり、澪だった。その面だけを見て、可愛らしいと感じていたのが懐かしい。


 シャッター通りのメインストリートに、今日は下駄の足音が鳴っている。一年前には気付かなかった店の看板の色あせ具合や、路地裏に咲く季節の花々が、今は妙に鮮やかに感じられる。かつては閉店の張り紙だらけで人の気配もない、寂れた風景にしか見えなかった通りが、今では懐かしさと新しさが混ざり合う不思議な景色として映る。


 錆びついた雨戸の隙間から覗く新しい店の明かりは、この町の変化を静かに物語っているようだった。汐が教えてくれた多角的な視点で見ると、どんな場所にも新たな発見があることに、今更ながら気づかされる。あれからまた潰れた店も増えたみたいだが、同時に見るからに新しいカフェや外国料理屋が開店したようだ。空ければ、そこに新しい要素が入り込む。そうやって町の新陳代謝は進んでいくのだろう。いつの間にか町は、古いものを抱えながら新しいものを受け入れ、その両方を織り交ぜながら、ゆっくりと形を変えていっている。


 それは穂香との関係も同じだった。たくましい背中の向こうに、繊細な女の子らしさを隠していた穂香。いつも近くにいすぎて、その魅力に気づかなかった自分。正面から見ることを恐れていた自分。そんな自分に気づいて初めて、その頃の自分が恥ずかしくなる。


「この町って、矛盾だらけだよな」


 ふと呟いた言葉に、自分で笑ってしまう。でも、その矛盾を受け入れられるようになった時、初めて町の本当の姿が見えてきた気がした。保守と革新、伝統と変革、それらが混在する姿こそが、この町の魅力なのかもしれない。


 飲み屋街に差し掛かり、あのとき初めて会った干潮時の汐に勘違いしてしまったことも、牡蠣の配達に付き合ったことも、今では良い思い出だ。そこをさらにまっすぐ行くと、市役所の先に今川河畔が見えてくる。お祭りのせいか、いつもより人が忙しく行き来している。今川にかかる今井渡橋を行き来する人々の町、だから行橋なのかもしれない。しらんけど。


 ヘルパーさんが年配の方の世話をしながら一緒に散歩している。何もすることが無い暇そうなおじさんが、町をフラフラしている。見方によっては元気のない町かもしれないが、それが自然に許され、受け入れられている町であるとも言える。橋を行く人々は、それぞれが誰に囚われるでもなく、自由を謳歌しているように見えた。


 橋を渡って、そのまま今川沿いを海に向かって下っていく。あのときみたいに自転車があれば、もっと快適に移動できたのかもしれない。今はなき汐の家の牡蠣小屋に、穂香と二人で行ったことを思い出す。今よりもっと短かったショートヘアとたくましい背中の穂香の姿を思い出してふと横を見ると、ちゃんとメイクもして少し痩せた穂香が急に女性らしく見えてきたような気がする。


「何見よん?」

「いや、あのたくましかった穂香がなぁって思っちゃって」

「しゃあしいわぁ!」


 バイパスの下の日陰をくぐり、ひたすらゴルフの打ちっぱなしを目指す。わざとらしく俺等二人を避ける軽トラに、ちょっと申し訳無さを感じながら、広い青空を一身に引き受ける。中州を闊歩する白い鳥の行方を気にしながら今川大橋を渡ると、毎週日曜日に通った川沿いの道に繋がった。


 タイヤが道路を擦る音しか聞こえない。


 蓑島の小さな船着き場のすぐそばにあったはずの牡蠣小屋は解体され、今はもう見る影もない。一年しか経っていないはずなのに、真新しいコンクリートで覆われている。かつて藍色の瞳に魅せられた、あの小さな祈りの浜辺は、見る影もなかった。白い砂浜は完全に埋め立てられ、今はコンクリートの下にある。黒ずんだ古い流木も、結びつけられていた古い縄も、貝殻も何も無い。すべて撤去されている。あの日、汐が必死に作り出そうとした水たまりも、もう跡形もない。


「ごめん、見てらんない」

「睦ちゃん……」

「なあ穂香。この町から、何もかもなくなっていくみたいだ」


 あの瞳の藍色は、本当は誰のものだったのだろう。汐のものか、澪のものか。それとも、二人の想いが溶け合って生まれた新しい色だったのか。変わることを恐れて目を背けていた俺も、大切な人から目を背けていた俺も、もういない。去年の痕跡が、波で上書きされた砂浜のように、すべて消されている。


「なくなるんやなくて、変わるんよ」


 穂香は空を見上げた。


「なくなるものもあれば、生まれるものもある。大切なんは、その両方をちゃんと見ることやろ?」


 たしかにそうだと思った。俺は本当に大切なものから、ずっと目を背けていた。この町の、人々の、そして自分自身の本質から。


 でも、ショックだった。水道からホーズで水たまりを作って必死で流木を満潮状態に保とうとしていたあの干からびた浜辺が、コンクリートを溜め込んで固まっている。満潮時の汐が、澪が、そこに埋まっているような気がして、なんともいえない心地悪さに気がついた。


「なんやったんやか、あの反対運動」


「きっと、覚醒だったんよ」


「覚醒? その心は?」


「えー、どちらも……って!」


「いやいや、普通に。どういう意味?」


「え、だから、町のことなんて誰も気にかけとらんかったっちゃろ? 睦ちゃんだって、この町のことなんて嫌いって言っとったじゃん。でも、長野さんが声を上げ始めてから、睦ちゃんも変わったし、町のみんなも少しずつ変わっていったと思うんよ」


「あー、なるほど」


「私もそう。長野さんの活動、正直最初は迷惑だったっちゃ。いつも一緒におった睦ちゃんを取られたみたいで」


「穂香……」


「私、ずっと見ちょったんよ。睦ちゃんが長野さんに夢中になっていく様子を。最初は迷惑だったっちゃけど、でも不思議とイライラはせんかった。だって初めて睦ちゃんが、誰かのことをちゃんと見ようとしちょったけん。誰かの気持ちに寄り添おうとする睦ちゃんの姿は、小さい頃の睦ちゃんを思い出させた。きっと長野さんは、睦ちゃんの中の優しさを引き出してくれたんよ」


「やっぱ穂香は見えとるなぁ」


 穂香は仕方ないなぁと言わんばかりに鼻で笑って続けた。


「活動には失敗したかもしれんけど、私たちはみんな目が覚めたんだと思う。やってみらんとわからんのに、みんな変わりたくないけんやってみらんかった。やってみたのは長野さんだけやった。でもそれによって、睦ちゃんだって、この町の良さに気付けたでしょ? 私だって、自分の気持ちに正直になれた。町の人たちだって、この町のことをもっと考えるようになった。それって、すごいことじゃない?」


「ほんとすごかったよな。バズっとったし。でもさ、あの時、なんで抗議活動に参加せんかったん? 穂香なら絶対毎回俺についてくるような気がするけど」


 穂香は笑って即答した。


「睦ちゃんにとっての逃げ場が必要やけん」


「え?」


「私が参加したら、睦ちゃんの相談場所や逃げ場がなくなるけん。睦ちゃんが抱え込まんように、当事者になりすぎんように、ちゃんと見守りたかったんよ」


「穂香……」


「それに、誰かが外から見らんと。町のことも、睦ちゃんのことも、長野さんのことも。見えんことが、あるやろ?」


 たしかにそうかもしれない。抗議活動に参加しないことが、実は最も積極的な関わり方だったのかもしれない。


「私ね、長野さんに感謝しちょう。睦ちゃんと私の関係だって、長野さんがおらんかったら、きっと今もただの幼馴染のままだったと思う」


「なんで無意識のうちに別の自分を演じるんやか。穂香のことを真正面から見ずに斜に構えとったもんな」


「睦ちゃんだけじゃないよ。私もそう。幼馴染っていう便利な関係に収まろうと、演技を続けてしまっとった。自分を傷つけないようにしながら、思いっきり傷つけとった。でも、それも私の選択だったんよ。誰かのために強がるのも、自分のために演技するのも。多分、みんなそうやって必死に生きとるんよ」


「で、その演技を手放したから、本当の自分の気持ちがわかり始めたっていうことか」


 澪が汐として役割を果たすために演技をして、役割としての汐を手放し、罪悪感としての澪を手放し、新たな汐として生まれ変わった、あの夏の日。それは同時に、俺にとっては素直になれない自分を手放し、穂香にとっては自分を傷つけるまやかしを手放した日々だったわけだ。


 潮風が穂香の短い髪を揺らす。一年前の夏、ここで必死に声を上げていた長い黒髪の少女のことをふと思い出し、溜息がこぼれた。


「だから今、この場所がコンクリートで埋められとっても、私は悲しくない。ここは長野さんの、いや、私や睦ちゃんの覚醒の場所やけん」


 コンクリートの下に眠る思い出の浜辺。だが不思議と、心は晴れやかだった。この灰色の埋立地も、いつか誰かの記憶には藍く染まるのかもしれない。


「でもなぁ。もしあれがうまく行ってれば、汐もずっとここにいて、たまに牡蠣食べに戻ってきたりとか出来たんだろうなぁ」


「いいんよこれで。抗議運動が叶わんかったからこそ、現実の受け入れ方だったり、本質的なものを見れるような目だったり、新しい可能性への気付きがあったりしたんよ。戦に負けて、勝負に勝ったんよ」


 見えないと、本当の意味で受け入れられない。見えるようになったら、本当の意味で受け入れられるようになる。受け入れたら、もっと見られるようになる。もっと見られたら、もっと受け入れ幅が広がる。穂香から教わったことが、自然と頭の中で渦を巻く。


「……穂香は、やっぱ男らしいわぁ」


「睦ちゃんは、いつまでもしゃあしいねぇ」


 その言葉に、懐かしさと新しさが混ざったような感覚が込み上げてくる。いつもの穂香の口癖なのに、今は違って聞こえる。たくましい背中で前を歩いてきた穂香が、今は隣で肩を並べている。その距離感の変化に、ようやく気づいた気がした。


「穂香」


「うん?」


「この一年間、いろいろ考えたんよ」


「睦ちゃんがなんか考えるっち、珍しいわぁ」


「……そうか? なんか、いつもの冗談が今は心地よく聞こえちょう」


「え?」


「なんか穂香のその言葉の中に、どれだけの優しさが隠れちょうか、思い知った。いつも見守ってくれて、気遣ってくれて。俺のことを一番知ってくれとって。当事者になりすぎないように、見守ってくれとったって、穂香はさっき言ってくれたけど、それはちょっと違うかもね」


「どういうこと?」


「穂香は、ずっと光を当ててくれとちょった。たくましい背中で前を歩いて、道を照らしてくれとった。でも俺は、その光を当たり前だと思ってしまってた。与えられるばっかりで、自分からは何も穂香のために出来てなかった」


「睦ちゃん」


「だから今度は、俺が穂香に光を当てたい。俺がたくましくなって、誰かのために光を当てられる人間に、俺もなりたいし、ならんといけん。今まで見ようともしなかった穂香のことを、これからは大切にしたい。当たり前だと思わずに、ちゃんと感謝したい。いつもそばで支えられてばっかりだったから、今度は俺が支えたい。穂香の良さも悪さを受け止めるために、穂香の側にいたい」

穂香の目が、うっすらと潤んでいる。その瞳に映る夕暮れの空が、まるで海のように揺らめいていた。


「それちょうど一年前にも聞いた気がする」


「あのときは花火で聞こえんかったかなと思って」


「しゃあしいわぁ。まぁでも、何回言われても嬉しいけどね」


 微笑んだ穂香の笑顔には濁りがなく、からっとしていた。


「睦ちゃんの良いところは、なんでもちゃんと見ちょうとこよ。睦ちゃんは、ちゃんと自分のことも他人のことも町のことも、ちゃんと全部見ちょう。小さいことも大きいことも、何でも。見ることが出来る人なんよ。でも、時々それが変な角度になっとったり、範囲が広すぎたり狭すぎたり、不必要な解釈をしてしまったりする。そんなの本当はいらんのよ。ただそのまま、起きたことをそのまま見ていればいいだけなんよ。周りに惑わされて、フォーカスする場所を間違えんでいいんよ。目の前で起きちょうことに対して、睦ちゃんの視点から、睦ちゃんが感じるように、ただ見てればそれで十分なんよ」


「穂香……」


 海の方を向く穂香のたくましい背中に、女らしくないとか可愛らしさがないとか、そんなことを今まで考えすぎていた。でもそれはそれで穂香の個性だし、むしろその背中で語る説得力が格好良いし、ちゃんと見れば穂香の魅力に気付けた。こんなに簡単なことだったんだ。


「小さい頃から、私が困っとるときも、傷ついとるときも、ちゃんと気付いてくれとったし、ちゃんと見てくれとった」


「それは、穂香が見てくれちょったけんでしょ? そういえば汐からそう教わった気がするわ。穂香がいつも小さい頃から俺に良い影響を与えてくれちょったけん、俺もいつの間にか見れるようになっとったんじゃないかって。穂香、いつも俺のこと見守ってくれとったし」


「違うよ?」


「何が?」


「違う違う。それは、睦ちゃんが私に影響を与えてくれちょったんよ」


「え?」


「反対よ。睦ちゃんが元々そうだったけん、私が睦ちゃんのことをちゃんと見れるようになったんよ。人を見守ることとの大切さは、小さい頃に睦ちゃんから教わったことよ? だから、睦ちゃんは元々見れとる人なんよ」


 そんな。穂香から教わってたと思っていたことは、全部元々出来ていたことだったし、穂香に良い意味で影響を与えていたなんて。いかに大切なものを見失っていたかがよくわかって、恥ずかしくなる。


 自信を持って良いのかもしれない。自分は本来、人に良い影響を与えられる人だった。それをただ見失っていただけだった。去年の汐との出会いが、最終的にそこを気付かせてくれて、本当の自分自身を受け入れるきっかけになってくれた。


 海鳥の鳴き声が、耳をかすめる。音が、胸元で轟いている。


「そろそろ行こっか。こすもっぺ」

「だな」


 蓑島から市内へ繋がる、雨上がりのまっすぐな今川沿いの道路。晴れ間から漏れ出す日光が行き交う車やアスファルトに反射して、眩く目を突く。灰色の曇り空の中でひときわ目立つ微かな虹を頼りに、市内を目指す。


 灰色の町が紅く染まっていく。壁の向こうの夕日を背に、影が伸びていく方向に歩を進める。災害も仕事もすべて忘れて、遠くの灯りを頼りに目の前の楽しみに心躍らせながら、人々は今川河畔に集まり始めている。


 藍色の潮が引いて、また満ちていく。それはまるで別れと出会いの繰り返しのよう。


 人混みに紛れていく度に、行橋の町に染まろうとしている自分に気づく。その人混みはやがて、町を包み込む海となった。四方八方からの人の海が、今川沿いに集まって、溶け込んでいく。高揚感も切なさも、全てが重なり合って、かけがえのない夏の記憶となっていく。


 今川の水面に映る提灯明かりの夏の夜空が、かつての汐の瞳のように藍く揺らめいている。灰色だと思っていた町が、今は無数の色を持って輝いている。それはあの夏の日々が教えてくれた、物事をちゃんと見ることで、初めて見えるようになる景色だった。


 人々が行き交う橋の上で、確かに感じる。

 この町に満ち引かれた、新たな汐目があることを。

                                       了

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藍色の汐目で、しゃあしい君にさよならを 柿原 凛 @kakihararin

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