第2話 出会い
セクスティリア・シラナより、セクスティリア・カエソニアへ文をしたためます
お元気ですか?
最後にお会いしてから季節がひとつめぐりましたね。
新しい家はいかがですか?
夫のカエソニウス様とはどんなお話をされていますか。
お姉様のことですから、誰よりも淑女たるふるまいで、自慢の妻となられていることでしょう。
私はお姉様を見習わなければと思うのですが、いつもうまくいきません。
これからよりいっそう、身を引きしめなくてはならないのです。
なぜなら私は本日より、学び舎に通うこととなりました。
今から出発で、緊張しています。
でも、お姉さまの恥にならぬよう、セクスティリウスの名を汚さぬよう、がんばってまいります。
ではまた、次は季節がめぐる頃に。
カエソニウス様の妻セクスティリア・カエソニアへ、もう一人のセクスティリアより
十二歳の春。
学び舎へと通うよう、唐突にお父様から告げられた私は、とても緊張していたわ。
その
お祭り以外で子供が集まる場というのも初めてで、庭に集まった人たちがいっせいにこちらを見た瞬間焦ってしまって、とっさにどう動けば良いか思い浮かばなかった。
まずは……まずはそう、挨拶。挨拶からよ。
落ち着いてセクスティリア。大丈夫、練習してきた通りにすれば良いのだわ。
「……皆様、ごきげんよ――」
「お前何突っ立ってんの?」
だけど背後からの声に、振り絞ったなけなしの勇気は吹き飛んでしまった。
言葉を遮られたせいで、また頭が真っ白になってしまったものだから、結局そこに突っ立っていることしかできなくて。
すると声の主は私を通り越し、さっさと庭に並べられた椅子に向かい、足を進めていった。
サラリとした黒髪の後頭部。私と変わらないくらいの背丈。服装から
「アラタ、新しい子だ」
黒髪の子よりひとまわり大きな、長めの金髪を一括りにした……。
「みたいだな」
明らかに高級そうな、刺繍の縁取りまでされた衣服を身に纏っている彼……っ。
「まだ座る位置が分からないのじゃないかな?」
「あ? あ〜、なるほど」
ピタリと足を止めて、振り返った黒髪の子。
驚いたのは、その子は髪だけじゃなく、目の下まで真っ黒だったこと!
「そこの新しい席お前のだわ。後列中央な」
サラッとそう言われて、その言葉の意味が飲み込めなくて戸惑っていると。
「奴隷は席の後方で大丈夫。もうすぐ教師が来るから、席についたほうが良いですよ、お嬢さん」
黒髪の子の後に言葉を続けてくれた高級な身なりの子は、衣服以上に面差しの整った美丈夫だった。そして……私の知っている顔だったわ。
「……ご親切に感謝いたしますわ、クァルトゥス様」
きちんとしなければいけないという意識が強く働いたから、なんとか貴族らしい、正しい作法を頭から引っ張り出して、礼の姿勢を整えた。
けれど私は女だから、身分が上だからといって、殿方相手に居丈高に出るなど言語道断。相手を立てつつ、権威を示さなければいけない状況だったから、礼節に則った綺麗な所作で、非の打ちどころのない礼を尽くすことを選んだの。
するとクァルトゥス様は、私がどこの娘であるのか気付いたよう……。
改めて私に向き直り、姿勢を正したわ。
「僕をご存知なんですね。改めて自己紹介させてください。クァルトゥス・アウレンティウス・ドゥミヌスです。貴女のお名前もお聞きして宜しいですか、お嬢様」
私の身分を正しく理解し、上位者だと分かって態度を改めたのね。
「ティベリウス・セクスティリウス・シラヌスが娘、セクスティリアと申します」
「大変失礼致しました」
「いえ。私が一方的に存じ上げていただけですもの。お気になさらないで」
そう……お会いしたことなんてないのだから、彼は私を知らなくて当然。
私が彼を知っていたのは、お父様から彼について聞かされていたからですもの。
このやり取りで、その場にいた比較的身なりの良い方々までもが騒ついたわ。
貴族の中の貴族。名門中の名門であるセクスティリウスの娘が、まさか学び舎へとやって来るだなんて、思いもよらなかったのね。
そうよね……。
私だってつい先日まで、考えもしなかったことだものね。
だから、気を抜いては駄目よ。
私はセクスティリウスの名を汚さぬよう、きちんとしなければいけない。
同じく
そう強く意識したのだけど――。
「俺はあらとすげおるぎうす。アラタって呼んでくれりゃいいから」
私が自分よりも上位の地位にあるって理解できなかったはずはないのに、黒髪の子が礼節なんて無視して話に割って入ったものだから、驚いてしまったわ。
それ以上に、お名前の発音が聞き取りにくかったことに、慌ててしまった。
あらとす? でも……違う気がするわ。どうしましょう、もし間違ってしまったら、お父様に怒られてしまう。殿方の名を正しく発音できないなんて、不作法にもほどがあるもの。
「……あら、とすくん?」
恐る恐るそう聞き返したのは、知らないままでいることへの恐怖があったから。
怒らせてしまうかしら。そう思ったのだけど、返ってきたのは苦笑顔。
「アラとゥす・ゲオるぎウス」
アラトゥス……ね。発音、あまりお上手じゃないのね、彼。
家族名を名乗らなかったからやはり、平民で間違いないよう。
けれどそこでさらに驚いたのは、彼が挨拶だけでクァルトゥス様を促し、さっさと自分の席に着いてしまったこと。
私に媚びを売るどころか、興味すら抱かない様子に唖然としたのだけど、すぐに教師役の大人が入ってきたものだから、私も慌てて席に移動したわ。
初日での彼とのやりとりはそれだけ。
次に彼と言葉を交わしたのは、それからひと月半も後だった。
◆
アラトゥス・ゲオルギウスは特に目立つ外見をした子ではなかったわ。
いえ……目の下を真っ黒にするくらい、いつも寝不足で、そこはとても目立っていたのだけど……本来なら、貴族の私が彼に興味を持つ理由なんて無かった。
だのに私は、彼の存在におおいに戸惑っていたわ。
「クルト、帰るぞ」
「うん。あ、待ってアラタ」
「早くしろよぉ〜」
対してクァルトゥス様は、毎日違う衣服を纏い、髪も綺麗に纏めて、いつも一人の奴隷を連れていた。
私を含め大抵の人は、荷物持ち用に奴隷を一人だけ連れてきて良いという規則に則って、そうしていたのだけど……アラトゥスは常にひとりだったわ。
彼が、クァルトゥス様のなんなのか……それが分からなかった。
はじめはアウレンティウス家の解放奴隷なのかもしれないと思ったのだけど……それならば
そもそも、仕えるべき
結局どれだけ考え、どれだけ観察しても、彼らの関係を推し計ることは叶わなかった。
そして私は、そんな二人を遠巻きに見ておくことしかできなかったの。
「セクスティリア様、どうなさいまして?」
「……いえ、なんでもございませんわ」
学び舎に来始めた翌日から、私は学び舎内での派閥争いの中心となっていた。
それが、お父様の言いつけだったからなおさらね。
そんなある日のこと。
学び舎の授業は、算術の時間が一番皆、緊張していたわ。
何故なら、教師役がとても怖くて、早口で、何を言っているか聞き取れないことがあったから。
そのくせややこしい計算式を出題してくるものだから、
算盤は、彼らからしたら高価なのね……。殆どの平民が持っていなかった。そして教師役は、どこか平民の子らを
私の隣の席の子も、やはり算盤を持たない子で……。私が入学する前から、何度も鞭で打たれたと聞いていたわ。
そしてその日も、その子が教師役に当てられてしまったの。
「あ……えっと……」
言い淀むその子は、やはり計算が分からなかったみたい。
このままでは鞭で打たれてしまう。そう思ったら私、とっさに算盤をカシャンと鳴らしていたわ。
そうして、その子に見えるよう、膝の上の算盤に計算式を極力素速く、打ち込んでみせた。
この子が間違ってしまうのは、大抵桁が上がる時であるみたいだったから、そこだけ少しゆっくりめに。
そして答えが出たから、それを膝の上に置いたままにしたわ。
「……え、と……さ、三十八!」
私の意図は伝わっていたよう。
その子は正しい答えを言えたから、その日は鞭で叩かれなかった。
その後もその子、チラチラと私を気にしているふうだったけれど、私は気付かないふりを続けた。
別に、恩を売りたかったわけじゃないもの。
私はただ、人が鞭で叩かれるのを見たくなかっただけ……。
叩いて理解できるなら、この子はとっくに賢くなっているはずだもの。
その日の帰りに、奴隷を従えて
振り返ってみたら、そこにいたのはアラトゥスだった。
「お前、イイやつな」
「?」
何に対する言葉か分からなかった。
だってアラトゥスと言葉を交わしたのは、これでやっと二回目だったから。
急に私に触れてきた平民に、奴隷は警戒したようで、私の前へと身を割り込ませたわ。
けれどアラトゥスは気にもとめず、ニッと、口角を持ち上げて笑ったの。そして……。
「じゃあな、サクラ。気をつけて帰れよ」
「え……えぇ、ごきげんよう……」
でも私、アラトゥスが誰のことをサクラと言っていたのか、いまいち分かってなかった。
肩を叩かれてからの流れからして、私に対して言われた挨拶であることに間違いはないわよね?
だけど、サクラ……って、誰かしら?
しばらく呆然としていたのだけど……。
「……サクラ。さくら、さく、あ……セク、リア……あっ!」
セクスティリアって、言えなかったのねって、やっと気が付いた。
クァルトゥス様の名前も略してしまっていた彼のことだから、これはきっと、
発音が苦手な彼なりの、工夫なのかもしれない。
「セクスティリア……サクラ……ふふっ、全然似てない」
本来は、名を略されたことを怒るべきだった。けれど、私はそれがなんだか嬉しかった。
あの時から既に私は、彼の魅力に惹かれてしまっていたのでしょうね……。
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