Light off

Light off

 喫煙所の窓から見える東京タワーの緑色にライトアップされた姿を眺めながら、私は思わず目を細めてしまう。


 東京タワーが好き。


 私のような田舎者にとって、東京の象徴とは歌舞伎町のようなギラギラとした賑やかさでも、渋谷のごちゃごちゃとした喧噪でも、銀座や六本木のような華やかさでもなく、東京タワーのオレンジ色の輝きだった。

 それはきっと昔見た映画のせいだとは思う。


 実際、この前まで付き合っていた人にこのことを話すと変な顔をされたし。

 きっと、あの人の感性が正しくて、私の感性はどこかずれているのかもしれない。

 だとしても、私にとってはそうなのだから、誰が何と言おうと東京の象徴は東京タワーだけなんだ。

 でも、だというのに、こうも緑色にライトアップされてしまうと、まるで東京タワーらしき何かを見せられているようなマヌケな気持ちになってしまうわけで。


 私のすぐ隣では違うフロアで働いているらしきオジサンが、にこにこと、どこか嬉しそうにスマートフォンを同僚らしい同じオジサンに見せている。

 その様子を盗み見ながら、新品の煙草ケースからフィルムを剥がし、流れるように銀紙を灰皿に捨てる。


「これこれ。やっと買えたんだよ」

「これ、うちも孫娘がクリスマスプレゼントに欲しいって言ってたヤツだよ。どこにも売ってなかったのによく買えたな」

「散々探し回ってやっと一つって感じだな」


 クリスマスを楽しいと思ったのは、いつが最後だろう。なんとか思い出してみようとするけれど、頭の奥がしびれたような感覚があって、思い出せそうになかった。私にとって、それだけ昔のことなのだろう。


 そんな会話を交わす二人から視線を切り、手に握りしめていたライターのボタンを強く押す。押す。押す。

 手の中の役立たずは、カチカチカチッと私をあざ笑うかのように鳴るだけ。それがとてつもなく苛立たしくて、私はライターを何度か振ってみたり、再びボタンをひたすら押してみたりを繰り返す。


 完全に火が点かないならまだしも、時々何の役にも立たない火が灯るのがまた、私の苛立ちを助長させていく。

 一瞬だけ冷静になりポーチの中を漁るも、換えのライターは入っていない。

 あるのは買ったはいいものの数回吸って自分には合わないと使わなくなった電子煙草だけ。


 小さく舌打ちをして、またライターのボタンをカチカチカチッと押し続けるだけの作業に戻る。そろそろへし折ってやろうかと思い始めた頃、目の前にスッとジッポライターが差し出された。


「火、いります?」


 視線を声の主に向けると、そこには最近中途採用で入ったばかりの山田さんがきょとん首を傾げて立っていた。どこかダウナーな印象を受けるのは、彼女のメイクやおおよそ社会人としてはふさわしくない黒の服装と、ウルフカットのせいか。それとも、彼女の纏う空気感がそうさせるのか。何にせよ、今まであまり関わって来たことのないタイプの子だ。

 年齢も私より四つ下だと言っていたし、大学に通っていない私からすればこういうタイプの子は未知の存在でしかない。


「ありがと」


 素直に礼を言い、彼女が点けてくれたばかりの炎に煙草の先を近付ける。


 ジジッと紙とタバコの葉が燃える微かな音と共に、咥えていた煙草に火が灯る。やがて野暮ったい煙が私の口の中を通り、肺を焼く。

 この堅く、重い煙を肺いっぱいに吸い込む瞬間が好きだ。

 私はそんな僅かな幸福を、勢いよく口から吐き出した。私の肺を黒く汚す白い煙が、喫煙所の天井の光を写してキラキラと輝いて見えた。


 ここを出ればきっと冷たい風が肌を刺し、煙草を吸うどころではないだろうけれど、こうしてオフィスビルに備え付けられた喫煙所では凍える心配はない。そのことが喫煙者にとってどれほど幸福か。

 きっと、煙草を吸わない人には分からないことだろうなんて、くだらないことを考えられるくらいにはメンタルが回復していることが自分で分かる。


「村上さん、メンソールの煙草じゃないんですね」

「え?」


 顔をそちらへ向けると、山田さんが私が先程までそうしていたように、煙を天井へ向けて吐き出しているところだった。

 正直今の今まで彼女の存在をすっかり忘れていた。申し訳ないと思いながら、「あー」と言ってパサパサと頭の後ろを掻く。


「ずっと辞めてたんだけどね。仕事のストレスがヤバくてまた吸い始めちゃってさ」

 何で言い訳なんてしてるんだろう。というか、質問に対する答えじゃないな、なんてことを考えながら、私はまた口から煙を吐き出す。

「アハハッ。分かります。あたしも同じです」


 ダウナー気味な雰囲気に似つかわしい、どこか淡い笑みを浮かべながら山田さんは言う。ウルフカットの合間から見えるピアスの量に、この子はきっとまともじゃないのだろうと思う。

 まあ、それは私も同じなんだけれども。

 彼女には気づかれないように、そっと耳に触れる。もう何も着けられていない、穴だらけの耳。


「あたしの前の職場ってめちゃくちゃブラックで。帰るのは毎日終電間際でしたし、上司からのパワハラにセクハラもヤバいし、ほんと最悪な職場でしたよ」

「へぇ」


 そこで会話は途切れ、二人そろって口から白い煙を吐き出す。


「まっ、ここも忙しいですけど、前の職場に比べれば天国ですね。優しい人多いし、セクハラもパワハラもなし。一番いいのは服装自由なところですけど」

「本当に分かる。私もそれでここにしたし」

「あっですよね。村上さん絶対そうだと思いました。私と同じタイプだと思ったんですよ」


 私が「何が?」と問うために彼女へ顔を向けるのと同時に、喫煙所の中の灯りがふっと消えた。


「え?」


 山田さんが驚きに辺りをきょろきょろと見渡しているのが、廊下の明かり越しに見えたから、私は思わずふふっと笑ってしまう。

 それを知られたくなくて煙草に口をつけて煙を吸い込むと、ジッと煙草が燃える音とともに、暗闇の中でオレンジの光が優しく輝いた。


「ここ、八時には消灯しちゃうんだよ。なんか禁煙活動の一環とかで」

「うわぁ……最悪ですね」


 その声が本当に嫌そうで、私はまた笑ってしまいそうになる。辺りでは消灯に伴い、さっきまでのんびりと煙草を吸っていた人々が出口へと向かっていくのが見える。

 私も、この煙草を吸い終わったら彼らと同じようにここを出て仕事の続きをしなければ。


「でも、こういうのもいいかもしれませんね」


 そんな私の気持ちなんてつゆ知らず。山田さんは呑気な声でそう言った。


「いいかも?」


 私の問いかけに、「はい」と山田さんはハッキリとした声で答えた。


「こうやってあたし達以外に誰もいない暗い喫煙所で、変な色にライトアップされた東京タワー眺めながら、美人の隣で煙草を吸うの。なんかよくないですか?」

「はあ?」


 思わず素っ頓狂な声を上げると、山田さんは先程とは違う、どこか艶やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「知ってます? 今日クリスマスですよ?」

「知ってる……ってか美人? 誰が?」

「そんなの村上さんに決まってるじゃないですか。私の課でも有名ですよ。財務課にとんでもない美人がいるって。クールで仕事もできるしそれにスタイルもいい。欠点は煙草臭いこと」

「何それ」


 山田さんとは挨拶以外でここまで話したことはなかったが、なんて失礼な子なんだろうと、露骨に表情が歪んでしまうのが自分でも分かった。第一、さっき山田さんは前の職場でセクハラをされたと言っていたが、今の発言こそセクハラじゃないだろうか。


 すっかり短くなった煙草を投げ捨てるように灰皿に放り込むと、中に敷かれた水に触れてじゅっと短く音を立てた。


「私、戻るから」


 そう言って出口に向かおうとした私の手を、ぎゅっと山田さんが掴んだ。


「ちょっと離し――」


 瞬間、私の顔を野暮ったい煙が襲って、私は思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。


「煙草臭いなんて、私からすれば評価点でしかないですけどね」


 私が目を開くよりも早く、唇に柔らかい感触と共にじっとりとした苦味が襲った。

 それが何かを意識するよりも早く、目に入って来た彼女の表情に、言葉が出なくなる。

 廊下からの光は僅かのはずなのに。やけに彼女のその大きく潤んだ瞳が輝いて見えた。


「ねぇ、村上さん」


 彼女はその薄い唇を、ゆっくりと舌で舐めてから、その艶やかな唇を震わせて私を呼んだ。そのとろけるように甘い声が、煙草の煙よりも遙かに頭の奥をクラクラとさせる。


「帰っちゃいましょうよ。だって今日はクリスマスなんですから」


 そう先程よりも甘く耳元で囁かれた言葉に、私は――

                                  〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Light off @Tiat726

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画