第1話 これが席とり戦争だ!

千葉県千葉市にある新検見川駅。

朝7時30分。


長いホーム上には、利用客が乗り場口付近にて固まっていた。

関野大地は先頭車両側になる3番乗り口付近で、ぼんやりと立っていた。

3番乗り口は、今日までの半年間かけて導き出した最高の車両口だった。

大きな駅で降車する客の比率が高く、つまりそれは席が空きやすく、かつ席を狙う関野にとってのライバルも降りてくれる割合が高いことを意味する。

つまり、席とりに命を懸ける関野大地の黄金車両といえる存在だった。


ただでさえ細い目は、まだ完全に開いておらず、頭はまだ夢の中にいるかのようにしっかり機能していない。さっきも自宅のトイレの水をしっかり流したかどうかを迷ってしまったぐらいだった。


アナウンスが鳴り、7時33分発の三鷹駅の到着を予告した。

それは関野にとって、目覚めのチャイムでもあった。

両腕を前に伸ばし、両足を軽く屈伸させる。上半身を右左に捻り、身体をほぐす。

乗車前のルーティンの一つ、必勝体操である。


周りを見渡すと、他の利用客たちはスマートフォンに視線を落としており、気合いは感じられない。席とり戦争に臨む気など、さらさらないのだろうが、そんなやつらも空いているものなら席に座りたいと思っている。炭酸の抜けたソーダのようにぱっとしない者たちも、空いた席を見つけては、目の色を変えてダッシュする光景を幾度となく見てきたからだ。

彼らなりの油断させる作戦だろうか。

いや、単に努力もせずに、でも楽したいという、都合の良い奴らだ。

関野は彼らのことを、蔑み、「愚民」と呼んでいた。もちろん心の中でのことである。


先頭車両が減速していき、関野の前をゆっくりと通過していく。


関野の音がぱたりと途絶えた。

視界が狭まり、そばにいた愚民たちの姿は消えた。

彼が気絶したわけではない。

かといって気がおかしくなったわけでもない。

関野大地は集中しているのだ。

聞こえてくるのは、自らの心臓の鼓動と鼻や口から空気が抜けていく音だけである。

25年の年月によって鍛え上げてきた集中力を研ぎ澄まし、今まさに一瞬のチャンスをものにしようとしていた。

電車が間もなく止まろうとする。

関野は目を凝らして、車窓から中を覗いた。中央手前の座席シートに空きがあり。併せて中央奥側にも空きを確認。

立っている客は付近にはいない。

絶好の席とりシチュエーションに間違いなかった。名付けて"神が与えたチャンス"


関野の頭が高速で回転する。

手前の席は空きではなく、子供が座っている可能性はないか。外からだと死角になっていて、背の低い子供が見えていないだけの可能性もある。

関野の心は決まった。

中央奥、左から2番目。


電車が止まり、扉が開いた。

地面を蹴り上げ、車内に飛び込んだ。

視界良好。

--もらった。


その時、予期せぬ出来事が起こった。

左から3番目に座る50代ぐらいのごま塩頭おじさんが、電車がストップしたと同時に一席分、左側にスライド移動したのだ。そこは関野が狙っていたはずの席だった。

代わりにごま塩頭おじさんの席が空いた。

無論、関野の狙いは変わっていたが、彼の極限まで高めた脚力が裏目に出た。


勢い余っておじさんに激突しそうになったのだ。刹那、足の裏全体を使って止まろうとした。

秘技、摩擦起こしの術である。

前よりの重心を、体幹を用いて身体の中心に引き寄せた。足の裏が電車の床と擦れ合う。

前進を許さなかった。

関野の靴のつま先は、おじさんが床に下ろした鞄に触れるか触れないかの位置で止まった。

危機一髪だった。


しかし安堵するのはまだ早い。

関野はすぐ隣の席に座らなければならないのだ。

今度は身体を右に寄せ、右足を一歩出した。

だが、関野を凌ぐ早さで、とある影が動いていた。

その影は、女のものだった。

女は、席の手前まで来ると、両足のつま先を起点にして、くるっと一回転して腰を落とした。

まるで関野を嘲笑うかのような、鮮やかなターン&ダウンだった。


関野は心の中で叫んだ。

なぜ奴がいるんだ。

過去に関野に黒星をつけた数少ない実力者。

その姿を見れば一気に警戒を強めるべき相手。

席とりランクは、愚民を遥かに凌ぐ、通称"ライバル"。


再び、関野の戦績に土をつけたその相手を、彼は睨むようにして見た。

小柄な体型をしているが、パンツスーツに隠れた両足の太ももの可能性は計り知れず。見事なまでのターン&ダウンを決めるぐらいだから、重さや締まりなどは申し分なく、バランスよく筋肉がついているのだろう。

歳の頃は20代半ば。

目はつぶらで、くりっとしており、いわゆる小動物系の顔をしていた。だからなのか可憐な動きがよく決まっていた。コードネームは"有紗(ありさ)"。小動物のリスから名付けていた。


有紗は、電車の発車直後までスマートフォンを触っていたが、次の停車駅のアナウンスが聞こえるぐらいになると、鞄にしまい、頭を背後の壁にぴったりくっつけて寝る体制に入った。

くそ、と関野は心の底から悔しがった。

本来ならこの席には俺が座るはずだったのだ。

それなのにとんだ邪魔が入った。


しかしこの有紗の姿を見たのは久しぶりだった。前回は三ヶ月ほど前のはずだった。

別の車両を使っていて、いつの間にかこの黄金車両に戻ってきたということか。


ふと有紗が床に下ろしていた鞄の中身が見えた。そこにはノートパソコンが入っていた。

上蓋の端にはシールが貼られている。

もしかするとテレワーク用のパソコンではないか。そうか。テレワークをしていたために、長い間この車両に姿を見せなかったのだ。


今日は10月1日。下半期の始まりである。このタイミングで彼女のテレワーグが終わったとすれば、つまり関野大地の"ライバル"が復活したことを意味する。

関野は身震いした。

この総武線には数多くの猛者が集結し、互いに電車という戦場の地で、席という縄張りを争っている。

"ライバル"であり、ターン&ダウンの使い手、有紗の復活は思わぬ刺客だった。


しかしこれに落胆する関野ではなかった。

席とりの神様は、私にあえて試練を託したのかも知れない。すべては関野大地が最強の席とり戦士になるためにと。

ならば、受けて立つ。

俺の力の限り。

すべては出勤前の睡眠のために。


7時33分発の電車は、次の停車駅、幕張に到着しようとしていた。

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総武線で懸命に席取りに励んでいたら、そのライバルの女を猛烈に好きになってしまった件 能戸居留守 @kasamasama

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