後編 生きてていいんだ。

 ふっと意識が浮上して目が覚める。

 真っ先に視界に入ったのは白。


 けれど、愛おしい冷たく清冽な雪の白ではなかった。


「起きたのね。よかった!」


 涙声が傍らから届き、視線をそちらにやる前に抱きつかれた。

 至近距離過ぎて顔は判別できないが、自宅の匂いがした。

 母だ。


「なんで……?」

「駐輪場の管理者さんが救急車を呼んでくれたのよ!」


 管理者!

 あの駐輪場にそんなたいそうな肩書の人がいたのか。

 私は……。


「死に損なった……ってこと」


 私は一気に絶望に叩き落とされて気がした。

 だが、そこに男性の明るい声が届いた。


「いや~、見つけてくれたのが善良な一般市民でよかったね! 未成年の女の子の自殺志願者なんか、裏社会の人のいいカモだからね!」


 視線を向けると、ニコニコとした白衣姿の男性がいた。

 母が私から身を放してあいさつしたので医師だろう。


「いっそそっちの方がよかった」


 私がつぶやくと、男性医師は笑顔のまま、けれどとても怒っていると知れる声音で言った。


「君は本当の生き地獄を知らない」


 反論したかった。

 けれどできなかった。

 男性医師の声にはそれだけの重みがあった。


「君には心配してくれる親がいる。時に邪魔くさく感じるだろうし、理不尽だと思うことだってあるだろう。悩みだって大人には理解してあげられない、一人で解決しなきゃいけないことだってあるだろう。でも、それを乗り越えて行かなきゃいけない。今の君にはわからないかもしれないけれど、死ぬのだけはもうちょっと待って欲しい」


「なんで……」


 私は戸惑いながら男性医師を見上げた。


「なんでそんなに死んじゃダメって言うの? 親戚でもないのに。医師だから一応説教しなきゃいけないっていう面目のため?」


 面目のためなんかじゃないと、本当はわかっていた。

 男性医師は私にまっすぐなまなざしを向ける。


 レントゲンみたいに私の皮膚の下、肉を剥がした向こうにある骨の髄まで見透かされているようだった。


「君は出産に立ち会ったことはある? 医療が発展した現代でもね、出産時に亡くなってしまう妊婦さんっていうのはいるんだよ。世のお母さんたちはみんな、命懸けで子供を産むんだ」


 男性医師の声音に、もう怒りはこもっていなかった。

 ただ、事実を伝える真摯な響きだけがある。


「君は、自分の命は自分の物だと思っているかもしれない。でも、本当にそうなのかな? 死ぬ前に、よくこのことを考えてみて欲しい」


 ひとりぼっちが寂しい。

 そんな私の悩みは何一つ解決していない。


 けれど、死ぬのは……違うかもしれない。

 どう違うのかはわからないけれど。


「死なないで……」


 小さな声だった。

 吹けば消える小さなろうそくの明かりみたいに。

 でも、同時にぎゅっと握られた左手が、熱くて……。


「ごめんね、お母さん」


 自然とそんな言葉が口を突いて出た。


 いつでも冷たくて親しみなんて全然わかなくて、どこか他人のような気さえしていたのに、私は彼女を『お母さん』と呼んだのだ。


 その『お母さん』は。


「生ぎででぐれだらぞれでいいよぉ~」


 ぐしゃぐしゃな顔で、泣きながら再び私を抱きしめた。

 その瞬間、私の中の「氷像」が溶けた。


 あこがれも何もきれいさっぱりなくなった。

 ああ、そうか。


「私、生きてていいんだ」


 ぽつりとこぼした声を聞いた人は、誰かいただろうか。

 ただただ母は泣いて、男性医師はふっと微笑んでから去っていった。


 しばらくしたら「一通り検査し終わったら退院です。たぶん明日、遅くても明後日には家に帰れますよ」と看護士さんが伝えに来てくれた。


 私は看護士さんにあいさつしたあと、窓の外へ視線をやる。


 綺麗な晴天。

 もう、雪は降っていなかった。




おわり


***あとがき***


読んで下さった方ありがとうございます。

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お礼の文章は近況ノートに載せることにしています。

事情はプロフィールより確認できます。

よろしくお願いいたします。


おわり

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綺麗な終わり。 音雪香林 @yukinokaori

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