シリウス

チヌ

シリウス

 日が短くなると、街が明るくなる。太陽がいない寂しさを埋めるように、街そのものが太陽になろうとでもしているかのように、街はあらゆる手段を用いて明るくなろうとする。イルミネーションなんて、その最たるものを見上げながら、まだ湯気が立つカップに口をつけた。思ったよりもぬるかった。

 雪は滅多に降らないのに、気温は一丁前に氷点下を記録している。そのくせ、日中は日差しが強く、もこもこのダウンを着て歩くと軽く汗ばむ。荷物になって邪魔なだけだから脱ぐわけにもいかず、大きく息を吸って、肺の中から冷やそうと試みるが、乾燥した空気にただ咳き込むだけだった。

 凍てつくほどの尖りはない澄んだ空気は、普段より光や音をよく通す。目が覚めるような青から眠りを誘うような紺を纏った天井に、規則正しく並ぶ星々が輝きを増して見えるのは気のせいじゃない。頭上の三角形をなぞりながら、視線はただ一点を見つめていた。


「シリウス」


 あなたと目が合う。あなたの口から白い息が漏れる。

 あなたはカップに視線を移し、それから目の前に広がるLEDの波を通り越して、また空を眺めた。


「シナモン、嫌いなんだよね」


「香りがね、強くて」


「スパイス全般、苦手」


 カップに残ったチャイはただ居心地が悪そうで、なんだか気の毒になってすっかり空気と同じ温度になった液体を飲み干した。体内を通る一瞬だけ冷たい存在感を見せて、あとはすっかり大人しくなった。あなたの手にあるホットチョコレートは、同じタイミングで買ったのにまだ温かさを残している。確かに、あなたはシナモンもカルダモンも、ラムも抜いて注文していた。

 両手で包み込むようにカップを持って、あなたはじっと星を見ている。指先は寒さでほの赤く、耐寒性の低そうな可愛いコートの中は、きっと重ね着されていないし、ホッカイロも貼られてない。それでもこの街で暮らす分には、全く困らない。


「あとは、トマトも苦手かな」


 あなたはそう言って腕を絡める。いつだって唐突だけれど、どんな状況であれ拒まないのはあなたの、少しだけ低い視線を独占できることに勝るものなんてないから。飲み干したカップは二つまとめて、近くのごみ箱に捨てた。

 イルミネーションを観に行くであろう人の流れを逆走しながら、どうにかして、今のこの瞬間を永遠にできないかと真面目に考える。幸せは長くは続かないと誰もが知っていて、あなたは特に、幸せの後には必ず不幸が訪れると信じている。朝が過ぎて夜が来るように、ジェットコースターが必ず落ちていくように、人生が上振うわぶれることを恐れながら、あなたはイルミネーションを観に行こうと誘ってくれた。眩しくて直視できないくらいの笑顔で。


「ナッツも、アーモンドとか、実はあんまり」


 食べたくないんだよね、と言うあなたの横顔は、見とれるほど綺麗だった。

 雪に埋め尽くされる心配がないからか、月末だというのにまだ紅葉が楽しめている。落ち葉はたくさんの靴に踏み均され、薄明りの中では本物の絨毯と大差ないように見える。あなたはブーツの表面に纏わりつく細かい葉っぱを鬱陶しそうに払い、マフラーを巻きなおした。

 イルミネーションは紅葉の引き立て役に徹しているらしいが、それでも主張が激しい。人工的な光には奥ゆかしさというものがない。こんなことを言ったら、あなたはイルミネーションが嫌いだと誤解するだろう。嫌いじゃない。決して。ただそれよりもっと、好きな光があるだけ。

 好きとか、嫌いとか。あなたが口にするそれらは全て、何かの呪文のように耳に残る。覚えていなくちゃ、と思う。学校の授業で、テストに出るよ、と言われたときのような緊張感。仕事中に、さっきも説明したけど、と言われたときのような気まずさ。特に、あなたは記憶力がとてもいいから、困ってしまう。大事なあなたの、大事な言葉を忘れないようにしなくちゃいけない。

 あなたの隣に立たせてもらっている以上、それが義務なのだと。

 あなたは甘いものが好きで、

 あなたは辛いものが苦手で、

 あなたはお酒が飲めなくて、

 あなたは、案外、食べられないものが多くて。

 あなたと会話を楽しみたいのに。

 あなたの言葉を一字一句、聞き逃さないようにするのに気を取られて。

 あなたに愛想を尽かされないために。

 あなたの隣は譲れない。譲りたくない。譲らないでほしい。他の誰にも。

 シリウス二連星。あなたの隣にいるのは私でありたい。


「イルミネーション?」

 あなたの表情が曇ったように見えたからてっきり、あなたは行きたくないんだと思った。興味がない話題を振ってしまって、つまらない人だと思われたくなくて、私は慌てて次の話題を探そうと必死になって頭の中を覗いていた。

「行こう。いつ?」

 だから、あなたがスマホをいじるのはスケジュールを確認しているからだと気づくのに、少し時間がかかった。そもそも、イルミネーションがいつからやっているのか、私は知らなかった。ただ、沈黙を破るために、たまたま見かけた広告を思い出して口にしただけだった。

「電車で32分かぁ」

 それが長いとも短いとも、あなたは言わなかった。トントン拍子で予定が立てられ、私の頭はその日にどんな服を着ていくかでいっぱいになった。この前、あなたが褒めてくれた服。この時期に着ると少し寒いかもしれない。

「明日は晴れだって」

 電話越しのあなたの声が、いつもより少しだけ弾んでいて安心した。たまにしか合わない休みを棒に振るような結果だけは避けないと。私なんかと一緒にいてくれる、あなたの時間を有益なものにしないと。

「寒くないの?」

 あなたと一緒に歩くから、寒さなんかより優先すべきものがあっただけ。あなたが私と過ごすいかなる瞬間も、決して、時間の無駄だと思われないように。

 そんなことを、あなたが言わないことも、承知の上で。

「あぁ、すごい。ここ全部が光るんだ」

 あなたの感想が聞きたいけど、それが苦手なのも知っている。もっと詳しくと頼んでも、あなたはきっと困るだけ。言葉にしたそれ以上のものは、あなたも持ち合わせていないのだと、最近わかるようになった。あなたの色眼鏡をかけられないのは残念だけれど、諦めて大人しくイルミネーションを眺めた。

「あ」

「シリウス」

 それはほとんど独り言に近い呟きだった。人ごみの中、この至近距離だったからこそ聞き取れた。あなたの視線を辿った先には、確かに星が見えた。おおいぬ座、冬の大三角の、一角。地球から見える最も明るい星は、イルミネーションに埋もれていた。あれが、シリウスだと、あなた以外の誰も気づいていなかった。

 私を見つけてくれたときのように、あなたはいつもより少しだけ優しい、柔らかな目をしていた。あなたが私よりもずっと、明るい星を見つけたならその時は、潔く身を引くつもりだった。数多のイルミネーションの一部に、いつでも戻るつもりでいた。

「綺麗だったね」

 あの中からシリウスを見つけ出すあなたの目は、まだ私を見ていてくれている。その事実に安堵する私がいる。でも、この幸せは永遠ではないと言い聞かせて、ここから転がり落ちた時、できるだけ傷つかないように準備をする。

 私は平凡で、ありきたりで、

 あなたが見出してくれたような価値なんてない、

 三等星にも及ばない明るさしか持ち合わせてない、

 ただの、よくある、一般人。

 だけど、もし、わがままを言っても良いのなら。

 シリウス一等星、もう少しだけ、勘違いしててもいいかな。

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シリウス チヌ @sassa0726

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