最終話
なんとか自分の席へ戻ったのはいいものの、胸の鼓動はまだ速い。間違いなく、今までの人生で一番緊張した時間だった気がする。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいて、制服のスカートでこっそり拭った。
「終わった……」
ようやく息を吐き出すと、体の奥から力が抜けていくようだった。でも、どっと押し寄せる疲労感の中に、ほんの少しの安堵も混ざっていた。
結果はどうあれ、私は途中で逃げ出さなかった。それだけでも、自分を褒めたい気持ちでいっぱいだ。
あとは他の人のスピーチを聞きながら、静かに授業が終わるのを待つのみ。疲労困憊の脳内でそんなことをぼんやりと考えていると、教壇の方から予想だにしない声が聞こえてきた。
「望月、とても良いスピーチだった」
え?
驚いて顔を上げると、村井先生が穏やかに微笑んでいる。
「自分のことをしっかり見つめて、それを言葉にするのは、誰にでもできることじゃない。お前が自分の夢を語る姿は、クラスのみんなにも響いたと思うぞ」
思いもよらない展開に、ただ呆然とすることしかできない。
今までの私は、人前で話すなんて絶対無理だと思っていたし、ましてや英語なんて論外で、最低限をこなせればそれだけで充分だった。
先生から変に思われないように、野村くんたちから笑われないように。そんなことばかり考えていた。
だから、まさかみんなの前でそんな風に褒められるなんてびっくりで、どうしたらいいのか分からない。
それでも何とか、視線を伏せながらも小さく会釈を返し、ふと周りを見渡す。後ろにいる数人の女子が、先生のコメントに小さく頷いてくれているのが見える。
ああ、死ぬ気で頑張って本当によかった。心の底から、そう思った。
♔♔♔
英語の授業が終わるチャイムが鳴った瞬間、私は机に突っ伏した。体中の力が抜けて、まるで砂袋みたいに重く感じる。
久しぶりに緊張しすぎたせいだろうか、頭がぼんやりして、まるで夢の中にいるみたいだ。
「あー……疲れた……」
目を閉じると、周囲の喧騒が少し遠く感じた。今は何も考えたくなかった。
「
不意に名前を呼ばれた気がして、顔を上げる。そこには、クラスメイトのひかりちゃんが立っていた。
ひかりちゃんは、野村くんがクラスを巻き込んで私をからかっているときでも、唯一笑わないでいてくれる子。私の顔を伺いながら、口パクで「大丈夫?」っていつも聞いてくれる。
ちゃんと話したことはないけど、たぶん、根が優しい子なんだろう。
「……あの、突然ごめんね。さっきのスピーチがすっごく良くて。私、感動しちゃった」
「…………え?」
思わず目を瞬かせた。言葉の意味は分かるけど、信じられない気持ちのほうが強かった。
「……みんなの前に立つのもすごく怖かったと思うのに、最後まで頑張ったよね。みんなも感動してたし、あの野村くんたちも、何も言えずに俯いてたよ」
ひかりちゃんは私にしか聞こえない小声でそう言った。私は何も答えられないまま、ただ彼女の顔を見つめる。
「……本当に?」
ようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。ひかりちゃんは笑顔を崩さず、こくりと頷く。
「うん。本当に。めちゃくちゃカッコよかったよ、暖ちゃん」
その言葉は、まるで背中を優しくさすってくれるようだった。ずっと張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
「…………ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。でも、ひかりちゃんは満足そうに微笑んで、「ううん」と首を振る。
「いつも、野村くんたちに酷いこと言われてるとき、助けられなくてごめんね。何かあったら、いつでも言いに来ていいからね」
それだけ言い残して、ひかりちゃんは自分の席に戻っていった。
ひかりちゃんが去ったあとも、なんだか信じられないような、夢心地でその言葉が頭の中で反響していた。
ひかりちゃんにはひかりちゃんの仲良しグループがあるし、いつも私と一緒にいることは難しいだろう。
でもだからこそ、彼女なりに精いっぱい出来ることを考えて、伝えに来てくれた。
私に話しかけたら、野村くんたちから標的にされる可能性もあるのに。きっと、すごく勇気を出して私の席に来てくれたんだ。
その事実が本当に嬉しくて、涙が出そうになるくらい嬉しくて、思わず手で顔を覆う。滅多に動かさない表情筋を抑えるのは、なかなかに大変だった。
♔♔♔
家に帰ってからも、なんだかずっとふわふわした感覚が続いていた。
自分の部屋で布団にくるまりながら、ふと天井を見上げる。明かりは消しているけど、目を閉じる気にはなれなかった。今日起きたことが頭の中でぐるぐる回って、眠れそうになかったからだ。
いくらスピーチを無事に終えられたとはいえ、結局、現実は何も変わっていない。
野村くんたちは明日も明後日もその先もずっと、私が何か行動を起こさない限り、私をいじめ続けるだろう。
今回のことで自分を好きになれたわけでもなければ、英語だって、ちゃんと勉強しない限りはこれからも苦手なままだ。
でも。
もしも、スピーチを諦めて学校を休んでいたら。
もしも、お母さんに野村くんたちのことを話して、学校に行きたくないと打ち明けていたら。
それはそれで、良い選択だったのかもしれない。自分に合わない環境から離れることは、何も悪いことじゃないから。
でも、苦手な英語の授業で、先生が褒めてくれたこと。ひかりちゃんが勇気を出して私に話しかけてくれたこと。
あのときに抱いた感情は、私が逃げなかったからこそ、味わえたものだ。
後悔のない選択をするのは難しいけど、自分を嫌いにならない選択をすることは、私にもできる。
いつか、私が私を好きになれる日が来たら。もしそんな日が来たら、颯のラジオにメールを送ろう。
今はまだ、「大好き」「ありがとう」「応援してる」なんて、月並みな言葉しか出てこないけど。
未来の私は、颯にどんなことを伝えたいと思うのだろう。
まだ見えない未来を思い描きながら、スマホを握りしめて画面に映る颯の顔をじっと眺める。
そんなことをしていると、玄関からドアが開く音が聞こえた。お母さんが仕事から帰ってきたんだ。
布団から出て、玄関に向かう。スマホをスピーチ原稿に持ち替えて、駆け足で階段を降りた。
「お母さん、おかえり!聞いて聞いて、今日ね――――」
逃げぬも時には道開く 夏 @natsu_no_yoru
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