第4話
スピーチ当日の朝、いつもより早く目が覚めた。というか、結局ほとんど寝られなかった。
制服に袖を通しながら、自分に言い聞かせるように「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、何度も小さく呟く。
家を出ると、冷たい朝の空気が肌に刺さる。学校に向かう足取りは重く、心臓が背中から跳ね出しそうなほどバクバクしているのに、体の動きはまるで鉛のように鈍い。
足元をじっと見つめながら歩くたび、スピーチ原稿が中に入っている鞄の重みが、ズシリと肩にのしかかる。
「…………やっぱり無理かも」
思わず小さな声で呟く。家を出る前だって、布団に潜り込みながらお母さんに「休みたい」って言いたい衝動を何十回も堪えた。
けど、言えなかった。颯の「自分を嫌いになるような選択だけはしないで」という言葉が浮かんだから。大好きなお母さんを傷つけるような自分にだけは、絶対なりたくないから。
実際のところ、今の私は颯の言葉に縛られてるのか、支えられてるのか、自分でもよく分からない。ただ、今はその言葉を
学校の門をくぐると、ざわざわした昇降口の音が耳に届く。足が止まりそうになるのを無理やり動かし、ソワソワと下駄箱で靴を履き替える。
教室の扉を開けると、いつもの朝のざわめきが広がっていた。クラスメイトはちらほらと席について、机を囲みながら話している。
私が入ると一瞬だけ視線がこちらを向いたけど、すぐに逸れた。何も言われなくてホッとしたような、無視されたような複雑な気分になる。
しかし安心したのも束の間。席に座ると、いつものように後ろから野村くんたちの声が飛んできた。
「おい、豚ちゃん。ちゃんとスピーチ練習した?」
ちらりと振り返ると、野村くん率いる男子たちが、ニヤニヤしながらこちらを見ている。
「てかお前さ、英語話せんの?そもそも人間のコトバ、分かりますぅ?」
「ブヒブヒ言って終わらせんなよ、申し訳ないけど俺ら豚語は分かんねえからな〜」
教室のあちらこちらから視線を感じ、心臓がドクンと跳ねた。何も返せない。視線は机の上のノートに固定されたまま動かない。
「まあ、豚はせいぜい豚なりに頑張れ!楽しみにしてるよ!」
野村くんたちはそう言って笑い声を上げながら、席に戻っていった。その笑い声が耳に刺さる。頭の中で繰り返される。
――分かってた。このくらいのことは言われるだろうって、最初から分かってた。
でも。
震える手で、鞄から原稿を取り出して、そっと握りしめた。
「逃げないって決めたんだから……」
声にならない言葉を、自分の胸の中でつぶやく。涙が出そうになるけど、深呼吸をして押し込んだ。鏡の前で何度も練習した。何度も声を出したんだ。
朝の会も終わり、時計の針が少しずつ進んでいくのを見つめる。教科書の薄い汚れを指でこすったりしてなるべく気を紛らわせようとするけど、気づけば教室の隅で、村井先生が準備をしているのが見えた。
あと5分。心の中でカウントダウンを始めると、どんどん息が苦しくなった。いやだ。やりたくない。逃げたい。やっぱり逃げようか。今ならまだ間に合う。
そんなことを考えているうちに、ついに授業開始のチャイムが鳴ってしまった。先生は教壇に立って「今日は号令はいいから、もう早速スピーチを始めようか」と告げた。
さあ、いよいよスピーチが始まる。心臓の音がますます大きくなる。逃げ出したい。けど、机の下で固く握った拳を見て、自分に言い聞かせた。
「大丈夫、きっと大丈夫」
着々と、自分の出番が近づいてくる。みんな難しい英文を書いてペラペラ読んで本当にすごい。そんな風に思いながらも、人の発表を聞く余裕はほとんどなくて、発表後の拍手をする手すらブルブルと震えている。
「じゃあ次、望月」
「は、っ、はい………」
そして、いよいよ私の番がやって来た。
教壇に向かう足音が、自分の耳にだけやけに大きく響いている気がした。クラス中の視線が一斉に私に集まる。足が震えているのが分かる。
手の中に握りしめていたスピーチ原稿は、すっかり汗でしわしわになっていた。
どうせ失敗する、みんなに笑われる。――そんな声が、頭の中で響く。
これまでずっと聞き続けてきた、誰かの暴言と自分自身の弱い心の声。
でも、私には分かっている。このまま何もしないで終わったら、私はきっと自分をもっと嫌いになってしまう。
教壇の前に立つと、息が苦しくなった。教室の窓から差し込む光が眩しいのに、目の前がどんどん暗くなるようだった。
視界の端で、野村くんたちがこそこそ話しながら私を見て笑っているのが見える。
耳が熱くなって、顔が赤くなるのが分かった。
私は、息を深く吸い込んで、原稿を見る。
自分を嫌いになる選択だけはしたくない。そのために、私は今ここに立っている。
少しずつ、胸の中に小さな火が灯るようだった。その火は弱々しくて、すぐに消えそうだったけど、でもたしかに、そこにあった。
「『My dream』
先生の顔を伺いながら、恐る恐るタイトルと自分の名前を読み上げる。とてもじゃないけど、怖すぎて前を向くことができない。
「My dream is to like myself.(私の夢は、自分を好きになることです。)」
震える声で最初の文を読み上げた。教室は静まり返っている。
自分の声がこんなに教室中に響くなんて思わなかった。喉が乾いて、声が上ずりそうになる。それでも何とか言葉を続けた。
「Now, I don’t like myself. When I look in the mirror, or when I can’t do something, I feel I am bad. I also compare myself to others.(今、私は自分が嫌いです。鏡を見るたび、できないことがあるたび、他の人と比べて、私はダメだと思ってしまいます。)」
少し息を吸い込む。その間、誰も笑わなかった。野村くんたちでさえ黙っているのが分かる。
でもその静けさが、逆に怖かった。心臓がバクバクして、手元の原稿も震えている。
「But one day, someone’s words changed me. I decided I don’t want to hate myself. (でも、ある時、ある人の言葉がきっかけで、自分を嫌いになるような選択をしたくないと思うようになりました。)」
少しずつ、声が安定してきた。
「So, I started with small things. This speech is one of them.(だから、私は小さなことから始めることにしました。今日、このスピーチでこの話をすることも、その1つです。)」
相変わらず手が震えてるけど、絶対に声は止めない。私自身の言葉が、少しずつ心に響いてくるようだった。
「In the future, I want to like myself more. I will try my best.(未来の私は、もう少しだけ自分を好きでいたいです。そうなれるように、頑張ります。)」
最後の言葉を言い終えると、頭が真っ白になった。その瞬間、教室が静かだったのか、それともざわついていたのか、よく分からない。
震える足で教壇を降りると、席に戻るまでの数歩がとても長く感じた。
野村くんたちに笑われる、と思っていたけど、なぜだかびっくりするくらい教室が静まり返っている。
ガクガクしながら何とか席に戻ると、少しずつ周りの音が聞こえてきた。何人かが小さく拍手をしてくれているのが目に入る。
涙が出そうになったけど、ギュッと拳を握りしめて耐えた。
自分の中の何かが、ほんの少し変わったような気がした。
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