第2話

 放課後。私は家に帰ると、いつものように自分の部屋にこもった。


 カバンを床に放り投げ、そのまま布団の上に倒れ込む。

 天井を見上げると、学校での嫌なことが頭の中で何度もぐるぐると繰り返されるようだった。


 全部が鮮明で、何も考えたくないのに、どうしても浮かんでくる。


「もう、スピーチテストなんて休んじゃおうかな……」


 ぽつりと声に出してみた。テスト当日だけでも学校を休めば、やらなくて済む。誰の前で恥をかくこともない。

 ……いやでも、結局次の授業で1人だけ発表させられるかもしれない。そうなったら、それこそ地獄すぎる。


 もういっそ、お母さんに全部話してしまえばいいのかも。野村くんたちに何をされてるのか、今どれだけ辛いのかを。


「そしたら不登校になれる……かな」


 今まで何度も、頭によぎっては必死にかき消していた選択肢。

 

 お母さんに相談して、学校に行かなくていいようにしてもらえたら。

 それで全部解決したらどれだけ楽だろう。毎日怯えながら教室にいる必要もなくなるし、野村くんたちの顔を見ることもなくなる。


 でも、もし学校に行かなくなったら、みんな私のことをどう思うんだろう。近所の人や親戚の叔母さんたちに、どんな噂話をされるだろう。

 

 「望月さんちの娘さんねえ」「なんだか最近学校行ってないみたいよ」「これだから最近の若者は……」なんて、話題に飢えた近所のおばさんたちの恰好の餌になる未来が見える。

 

 それでも、私が悪く言われるだけならいい。

 弱い子だって、情けない子だって、私が思われるだけならまだいい。

 

 もしも、お母さんのことまで悪く言われたら?

 女手一つで苦労しながら私を育ててくれたお母さんに、「親の顔が見てみたいわね」なんて近所のおばさんたちから言われたら、お母さんはどれだけ傷つくことになるだろう。


 何より、もし学校に行かなくなったら、私はこの先どうなるんだろう。

 高校にも行けなくなって、家にずっと閉じこもる生活になるのかな。そんなことをしたら、今よりもっと「何もできない子」になっちゃう気がする。


 私は膝を抱えて、布団の上で小さく丸まった。どうしたらいいのかわからない。

 現状から逃げたいけど、逃げたらもっと苦しくなる気がする。


 だけど、これ以上野村くんたちに何を言われても平気でいられるほど、私は強くなんてない。


「もう、どうにかして消えられないかな……」


 ぽつりとまた呟いた。言葉が宙に消えていくと、部屋の中はまた静かになった。


 ふと、スマホを手に取る。画面を見ると、時間は夜の8時を少し過ぎたところだった。

 ああ、颯のラジオがもうすぐ始まる時間だ。


 私はイヤホンを耳に差し込んで、ラジオアプリを開いた。画面に表示された颯の顔写真が、暗い部屋の中でぼんやり光る。


「こんばんは、L-Channelにようこそ。今日は僕、鹿島颯かしまそうがパーソナリティを担当します」


 スマホから聞こえてきた颯の声は、いつも通り優しくて穏やかで、私をふわりと現実から引き離してくれる。


「今日のテーマは『誰にも言えないココだけの悩み』!リスナーのみんなの悩みもたくさん届いてるみたいです、ありがとう!これから読んでいくね〜」


 5分くらいのオープニングトークの後、そうは早速リスナーのメールを読み上げ始めた。

 思わずクスッと笑ってしまうような軽めの悩みから、ちょっと重めの人生相談にまで、颯は突っ込んだり寄り添ったり、そのメールに合った温度感のコメントを残していく。


 私も何か送ればよかったな〜なんて思いながら聞いていると、あるリスナーのメールを読んだ颯の声色が、ほんの少し変わったような気がした。

 

「颯くんが大好きな小学生女子です。私は今、クラスでいじめられています。逃げたいけど、逃げるのも怖いです。颯くんだったらどうしますか?」


 そのメールは、とても他人事とは思えない内容だった。

 

 颯はそのメールを読み終えると、自分の話を語り始めた。


「実はね、俺も昔、いじめられてた時期があったんだ」


 その言葉に息を飲んだ。思わずスマホを握りしめて、耳を澄ます。

 颯が、いじめられてた? いつもあんなに広いステージで、たくさんのファンに囲まれて、キラキラ歌ってる颯が?


「学校に居場所がないって思ってたし、何をしても誰にも認められない気がしてた。周りに相談する勇気もなかったし、正直、逃げ出したいって何度も思った。でも……」


 颯はそこで一瞬、息を吐くような間を置いた。


「でも、もしそこで逃げたら、俺は自分をもっと嫌いになっちゃう気がしたんだ。だから、辛いのを我慢して……いや、我慢っていうより、必死に踏ん張ってた感じかな」


 耳元に響く颯の声が、胸の奥に深く染み込んでいく。


「その時は本当にしんどかったけど、そんな俺を気にかけてくれる人が少しずつ現れたんだよね。小さな声で『大丈夫?』って聞いてくれる子とか、廊下ですれ違うときに軽く笑いかけてくれる子とか。そういうのが少しずつ積み重なって、『もしかしたら、俺のことを見てくれてる人がいるのかもしれない』って思えるようになった」


 颯はそこまで話すと、少し声を柔らかくした。


「だから、もしこのラジオを聴いている人の中に、今同じような思いをしてる人がいたら、ひとつだけ言わせてほしい。俺は無責任なことは言えないし、もちろん逃げるのも立派な選択だと思う。でも、どうか、自分のことを嫌いになるような選択だけはしないでね」


 気づけば、スマホを両手で胸に当てながら聞き入っていた。なんだかまるで、私に向けて話しているみたいに感じてならなかった。


「大丈夫。自分のことさえ嫌いにならなければ、何があってもいつか必ず大丈夫になるから」


 涙が、いつの間にかぽろぽろと頬を伝っていた。颯の言葉が、胸の奥に溜まっていた何かを押し流していく。


 野村くんたちに言われた言葉。

 自分が嫌いで仕方ない気持ち。

 逃げ出したいけど逃げられない現実。


 全部がごちゃごちゃになってた心が、少しだけほぐれた気がした。


「ありがとう、颯……」


 小さく呟くと、ふと胸の中にひとつ思いが浮かんだ。


 ――せめて、一度だけでいい。何かをやり切ってみたい。

 どんなに小さなことだとしても。私は、颯みたいにはなれないかもしれないけど。

 

 これ以上、自分を嫌いにならないために。


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逃げぬも時には道開く @natsu_no_yoru

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