第2話

 少しして、私は実技の対策をするために、予備校に通い始めた。何を描くにしても、まずは技術を身に着けなければならない。姿勢以前の段階だ。

 周りにいる受験生も、私と同じように美大への入学を目指してその技術を磨いていた。

 実技のために対策をして、審査員の目に留まるための絵を描く。それは当然しなければならないことで、しなければスタート地点にすら立てないのだから。

 彼はウケ狙いで絵を描くなと言ってはいたが、受験のときは別だと言っていた。だから私は指導されるまま腕を磨き、人一倍だと言えるほどの努力をした。

 入学したあとは、彼の言うように絵を描けばいい。まずはスタートラインに立って、その後に自分の姿勢を考えればいい。

 

 それを胸に試験を受け、無事に入学を果たした。

 

 周りは私と同じく、絵を描く仕事に携わりたいという夢を持った人たちばかりだ。そこはやはり競争社会で、誰が上手いとか、誰が入賞するとか、あいつは教授に目をかけられているとか、人に見られてどう捉えられるかが重要視されていた。それもそのはずで、趣味ではなく生活の手段として芸術を選んだ人が集まるところなのだから、他者から認めてもらわないことには描き続けることは叶わない。

 ゴッホやモディリアーニがいるではないかと言われても、そこまで人生を投げ打てる人は少ない。いや、何百年に数人いるかというレベルの話なのだから。


 私はそんな彼らと馴染めず、一定の距離を置いていた。それは彼の言葉があったからではなく、早々に自分には絵の才能がないことを自覚したからだった。絵を描きたいと思ったのも、自宅に当たり前のように絵画があったからだし、祖父からの影響は、描くほうではなく見るほうへ働いていたようで、入学してすぐに、学芸員キュレーターを目指そうと志を変えた。


 彼に会いたかった。美大に入学できたこと、そしてキュレーターを目指し始めたことを伝えたい。

 彼は私が絵を描いていたことを、なぜか歓迎していないようだったから、画家は諦めたけど、それに携わりたいという意識は持ち続けていると、そのことを話したかった。

 

 しかし彼が次に訪れたのは、訪れなくなって一年も経ったあとだった。

「へえ、キュレーターか。いいね」

 彼の笑顔は、心底ホッとしたように見え、これまで見た中で一番晴れやかな表情だった。

「難関だけど、莉子ちゃんなら大丈夫。宗方さん譲りの審美眼があるし、優秀なキュレーターになれるよ」

 私が画家を諦めたことも、キュレーターを目指し始めたことも、彼はなぜとは聞かなかった。

 

 翌週に祖父が帰国する予定だったため、それを彼に伝えた。

「そうなんだ。久しぶりに宗方さんに会えるな」

 そう言ったとき、祖父のことを思い出すかのように目を細めた。

 

 祖父は彼が来なくなった一年の間に、二度帰国していた。祖父は連絡をしているのになぁと、彼から返事がないことを不思議がりながらも、忙しいやつだからとも言っていた。私は彼が現在どんな仕事をしているのかは知らない。レストランのバイトを続けながら絵を描いているのだろうかとも思ったけど、祖父と会っていないのであれば違うのだろう。

 しかし、絵を描いているときの彼は真剣で、訪れるとお茶にすら手を出さずに描き続けているから、聞くことはできなかった。彼から話題を持ちかけてくるか、挨拶を交わすだけだ。そのついでに聞こうと思ったっきり、その機会は訪れなかった。


 彼が何の仕事をしているのかがわかったのは、その3日後だった。


 彼が一年ぶりにやってきたのは、その初日だった。いつもなら夕方までいるのに、その日はお昼を過ぎて帰って行ったのも、もしかしたら気づかれて咎められるのを恐れたからかもしれない。

 彼が来たその日から、近代美術館で大々的な展覧会が行われていた。数年ほど前から売れ始め、世界的には新進気鋭の画家として有名になってはいたが、日本ではまだ認知度が低く、今回で一躍名を知らしめようと企画されたものらしい。テレビでもネットでも宣伝され、あまりそういったものに出向かない父が、会社でチケットをもらったからと、珍しく母と私を誘ってきた。


 そこで私たちは見慣れた絵画を目にした。

「これ、玄関にあるのと似てない?」

 母の言葉に父も同意した。

「似てるってより、まんまじゃないか」

「つまりどういうこと?」

 母は困惑した声をあげた。

 それは現代アートで、ミシェル・ブランシェールという名の画家の絵だった。

「ちょっと違うよ」

 私が言うと、父母もじっと目を凝らすように絵画を覗き込んだ。

「ああ、この女の子が違うな」

 真ん中の少女を指で差す。

「確かに。うちのはもう少し大人の女性ね」

 でもそれはここ一年半のことだった。彼が手直しをする以前は、寸分変わらないと言っていいほどそっくりだった。

 この絵に励まされ、毎日記憶に焼き付けるほど眺めていたから忘れるはずがない。

 彼はいつも真ん中の少女に筆を入れていた。まるで彼女が成長していくかのように。


 数日して、祖父が三カ月ぶりに帰国した。

 早速父は祖父を連れていき、その絵を見せた。

 私は再び目にしても未だに信じられなかった。彼が贋作を描くような人だとは思えなかったからだ。彼から聞いたアドバイスは、贋作を描くのとは正反対の思想だ。

 いや、違う。人の目を気にすると地獄の苦しみになると言われただけだ。彼がどういう決意で絵に向かっているのかは聞いていなかった。

 

「これは贋作ではない。……だろ?」

 祖父は絵を見ても笑みを崩さなかった。

「これはオマージュだ」

 父はその祖父の言葉に困惑しながらも、「確かに」と答えた。

「──確かに、うちにあるのは少女じゃないから」

「でもそれ以外は色も構図もタッチもそっくりよ」母が言う。

 そうだな、と祖父は答えながら「せっかく来たんだ。他のも見ていこう」と言って、その絵の前から離れて歩き出した。


 私は祖父たちについていかず、帰ろうと言われるまでその絵の前から動かなかった。

 そして帰りに画集を買い、高価たかかったがレプリカも買った。

 帰宅してすぐ自宅の贋作と並べて掛けて、二つを見比べた。

 私は感嘆した。


 そっくりだったが、何時間もかけてよく見ると、記憶の中の贋作と真作には微妙に違いがあった。少女以外の部分である。だから並べて見るためにレプリカを買ったのだ。

 彼があの日に筆を入れたのは、おそらく実物が近くに来て、それを目で見たからだろう。より本物に近づいていた。いや、少女の部分を除けば、たかが美大生の私にはその真偽の見分けがつかないほどだった。

 

 少女に手を加えた時点で、それは贋作としては不完全なものになる。それならばなぜ真作を見てより近づけるような真似をしたのだろうか。

 

 私は一人で考えてもわからなかったから、また海外へ行くという祖父を捕まえて、それを聞いた。

「じいちゃんもわからないよ」

「でも、あれがどんな絵かはわかってて買ったんでしょ?」

 祖父は笑顔のまま押し黙った。表情から内心は読み取れない。

「贋作だって、わかって買ったんでしょ?」私はさらに問いかけた。「手を加える前はそっくりだった。細かいところに多少の不完全さはあったけど、それは最後の日に直されていたから、実物を見るまでは三宅さんもわからなかった部分なんだと思う」

 祖父は「うむ」と言った。

「よく見てるな」そう言って、書斎から廊下へ出て玄関のほうへ向かった。

 絵の前に来て、「なぜレプリカを並べた?」と聞かれた。

「それは……」言いかけて迷い、言い淀んだ。すると祖父が先を続けてくれた。

「それは、比較したかったからだけじゃないだろう」

 そう。

「真偽を見比べるという意味ではない」祖父はさらに続ける。「確かめたかったんだろう?」

 そのとおりだ。

 私の心を感動させたのは、ミシェル・ブランシェールのほうではなく、間違いなく彼の絵のほうだった。贋作かもしれないが、私を励ましてくれたのは確実に彼の絵なのだ。


 しかし、それとは別にわからないことがある。

 それまで少女にしか入れていなかった筆が、最後の日は他の部分にまで及んでいた。それは、真作に近づけるためだろう。それ以外には考えられない。しかし、ならばなぜ少女は成長させたままで、戻さなかったのだろう。

「人間は老いるからだろう」

「それが理由? だって、それさえなければ真作と言っていいくらいの完成度だよ? そもそもなんで手を加えたりしたんだろう」

「彼の気持ちはわからないよ」

 それは誰にもわからない。わかるはずがない。

 でも知りたい。

「莉子はなんでそこまでこだわるんだ? 別にいいじゃないか。彼の勝手だ」

「でもこの絵はおじいちゃんのでしょう? 彼が手を加えなければ立派なレプリカになったじゃない」

 祖父は笑った。

「いやいや」とおかしげな顔のまま続けて言った。「じいちゃんは、贋作だと知っていたけど、だから買ったわけじゃない。まあ、真作だと騙されたわけじゃないから、模写と言っていいだろう。でも模写としても買ったわけじゃない。じいちゃんにとってこの絵は真作なんだ」

 私はその言葉の意味を上手く飲み込めず、眉根をひそめた。

「ミシェル・ブランシェールの絵を元に描いてはいるけど、これは三宅一也の作品なんだ」

 だから条件を交わした。と付け加えた。

 好きなときに来て、絵に手を加えてもいいという条件。

「三宅くんの絵だから、手を加えるのは当然だ。絵は完成されているようで、完成していないものなんだ。死ぬまで手を加え続ける画家もいるくらいだ。だからじいちゃんは画家の意思を尊重したい」

 


 数年して、近代美術館でゴッホ展が行われた。祖父と二人で観に行った。

 そしてある一枚を前にして、気がついた。

 それは彼の手によるものだと。

 その頃にはキュレーター見習いとして、小さな博物館で働くようになってはいたものの、ゴッホの真贋を見極めるほどの技能はない。ただ感覚的に、この絵の向こうに彼がいる気がしたのだ。

 絵を見たときに、彼の言葉が聞こえた気がした。

 

 最後に会った日に聞いた言葉が。

「描きたいものを描くんじゃなくて、見たいものを描くんだ」

 それが彼からもらった最後のアドバイスだった。

 

 彼は自らの描いたゴッホを見たかった。だから描いたに違いない。そうであると願いたい。

 いや、そのはずだ。私はそう信じることにした。

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ガンサク 海野幻創 @umino-genso

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