ガンサク
海野幻創
第1話
その絵は贋作だった。
祖父が生涯かけてこつこつと集めた絵画の中で、私のお気に入りの一枚だった。
確か中学三年の頃だと思う。
絵画の収集で海外を飛び回っていた祖父が帰国したときに、今回の収穫だと言って、この絵を玄関を入ってすぐ目の前の壁に飾った。
それは風景画で、真ん中に小指サイズの少女の姿がある。夜の草原に満天の星空が広がっていて、少女のオレンジ色のワンピースが鮮やかに映えていた。
題材としてはシンプルだし、どこにでもありそうなものであったが、空の色が異質だった。何十という色に変化し、ゴッホの描く空のように渦を巻いている。しかし不穏さはなく幻想的で、見ていると不思議と落ち着く。目覚めたくないと願う夢の中にいるような気分になり、不思議と懐かしい気持ちもして、高校受験で苛々とする日々の癒しになっていた。
その2年後、その絵の作者だという人物が自宅を訪ねてきた。
祖父はその頃も海外を飛び回っていたため不在で、父母も仕事でいなかった。私は高校に入学したばかりで、まだ友達とも遊びに出かけるほど親しくはなっていなかったため、一人で留守番をしていた。
彼は
「宗方さんにこちらの絵画をお譲りするときに、一つ交換条件をしましてね、そのために訪問したのですが、ご不在でしたか」
そう言って切り出して、交換条件とは?と説明を促すと、間違いなく作者たる言葉が返ってきた。
「ええ、好きなときに来て、この絵に手を加えさせてもらうという条件です」
念書もなく、領収書もない。それを証明できるものはないから、祖父が帰国するときにまた来ますと言って辞去していった。
それから、三宅氏は月に一度訪ねてくるようになった。
二度目のときは父母もいたから、リビングでコーヒーを出し、祖父との出会いから絵画を譲り渡した話などを聞くことができた。
「海外ではありません。私は近くのアパートで一人暮らしをしています」
祖父とは、大学時代に生活費のためにしていたバイト先で声をかけられたと言う。
「服に油絵具がついていましてね、レストランでしたから、それを見咎められて不潔だと叱られるのかと思いました」
しかし祖父は「絵を描いているのか?」と興味津々で、バイトが終わったら飲みに行こうと誘ってきたらしい。
「バイト先のレストランは、星がつくほどではありませんが、わりとお高めのところなので、その店に常連のように来られる宗方さんはお金持ちだろうと察しました。ですから、バイトをしなければ生活費を賄えないような貧乏学生と何を話すことがあるのかと、最初は警戒しましたね」
そう言って語り始めた祖父の人物像は、父母も私もよく知る祖父そのもので、彼の言葉に嘘はないことが伺い知れた。
祖父に確認のメールを送ると、三宅一也という人物は確かに友人で、絵の話も事実だという旨の返信が届いたこともあり、私たちは彼の話を信じることにした。
「絵に手を加えても構わないが、持ち出されるのは困る。だから手直しをするならこの邸の中で」
父がつけた条件に否とも言わず礼を述べ、翌月画材道具を一式持って再び訪れた。
三人家族にしては異様に広い我が家は、祖父のコレクションを飾るために必要な広さだったとばかりに、空き部屋の多くに所狭しと絵画が飾られている。
その中の日当たりのいい一室を、彼のアトリエ用にとあてがった。
私は祖父の影響か、大学は美術系の学部に進学したいと考えていたので、見せてもらえないかと頼み込んだ。邪魔はせず、視界に入らないところから見るだけだからと、頼むと快諾してくれ、部屋の隅に椅子を置いて見学させてもらえることになった。
「莉子ちゃんは、絵を描いてる?」
「はい。来年受験なので」
「ああ、美大に行くんだっけ?」
「はい」
半年ほどして、最初の頃は挨拶程度だった会話も少しづつ増えてきた。筆が乗ると陽気になり、彼から話しかけてくるのだ。
「ウケ狙いで描くのは、受験のときだけにしな」
「え?」
「入学するためにだけ。それ以降は審査員の目を気にしちゃだめだ」
冗談ではなく本気のようで、珍しくキャンバスから目を離して、こちらへ振り返った。
じっと、私を射るように視線を注いでいる。
そう、見ているのではなく、目でも訴えかけているように思えた。
私はなんと返すべきかわからず、言葉に詰まった。
すると彼はふっと口元を緩ませ、「まあ、卒業のときも好き勝手にはできないか」と言って、くるりとキャンバスに向き直った。
「絵はね」と、彼は言った。どうやら会話は終わりではなく、これからのようだ。
「魂の叫びとか、心にあるものを映し出すとか言うけど、そうじゃない。それで傑作になる人は一握りなんだ。だから、多くは見る人の求めるものを描く」
もちろん依頼されたものは別だけどね、と言いながらちらっとこちらを見た。その顔には微笑が浮かんでいた。
「そうじゃない場合、つまり自らの作品として描く場合は己を表現しようとするだろ?」
「はい」
よくわからない。今は題材があり、モデルがあり、それを決められた技法で描き写すことばかりで、ゼロからというものは未だに挑戦していない。
「絵を描くことを選んだんだから、己を表現するのは言葉でも行動でもなく、絵だ」
それはわかる。絵を描くこととはつまり、自己表現の一つということだ。
「だから本来ならばそれぞれまったく別のものができるはずだ。描いている自分も違うものをと思って描いている。心から溢れ出るものを描き留めていると思ってる。でも違うんだ。なぜなら認められたいから」
今日は饒舌だ。筆が乗っているどころか、その手を止めている。
「認められずに描き続ける人は稀だ。それこそ趣味でもね。一度人に褒められたらもうダメ。同じ人数か、もっと多くの人に認めてもらえないと。だって、魂の叫びだの心象を映し出したなどと言っても、それを自己満足で終わらせられないだろ? 見て欲しいと思うはずだ」
「確かに」
私は思わず相槌を打った。
「うん」彼は私の相槌に、深く賛同したように頷き返した。
「見てもらうためなら何でもするようになるんだ」
そう言って彼は笑ったようだった。見えないが、ふっと笑ったように息を吐いた音がした。
「だから、なぜ自分が絵を描きたいのかを最初に考えておくほうがいい。ずっとウケ狙いでいきたいならそれでもいいが、その気持でモチベーションを保ち続けるのは地獄の苦しみだし、自由に描くと決めた場合もそうだけど、途中でブレるのが一番ダメだ」
「……ダメなんですか?」
思わず聞いた。絵に対する姿勢なんて、今から決められない。それこそ一生のことだ。描き続ける限り変化していくものではないのだろうか。
「ダメというのは違うな」彼は俯いて首をかしげた。「自分のことが嫌になる」
莉子ちゃんは大丈夫かもしれないけどね、と続けて言って笑ったあと、何も喋らなくなった。
私に話しかけているというよりも、自分に言い聞かせているようだった。
そんな姿を見たのは初めてで、そして彼はそれを最後にしばらく来なくなった。
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