災難

八雲景一

災難

 どこか遠くで何かが鳴っている。俺はそれが目覚まし時計の音だと気づくまで、しばらく時間がかかった。目覚まし時計があると思われる場所に手を伸ばすが、見当たらない。不思議に思いながら探っていると、冷たいプラスチックの感触に触れた。

さっきから鳴り止まない音を止めた。時計の方を見やる。


「やばい、遅刻だ」


 掛け布団をはねのけ、洗面所へ向かう。さっと顔を洗い、スーツを着る。ここ三日ほど着ているやつだ。袖に鼻を近づける。


「まあ、大丈夫だろう」


 それから何か食べようと冷蔵庫を開ける。覗き込んでみたが、食べられそうなものは何もない。(くそ、会社の近くのコンビニで買おう)そう思い、冷蔵庫を閉めて玄関に向かう。急いで外に出ると、誰かとぶつかった。


「ぎゃ!」


 という声が聞こえた。


「ちょっと、アンタ何してんだい」「す、すみません」


 反射的に謝る。周りを見ると、ゴミ袋が破れたらしく、中身が散乱している。片付けてやりたいところだが、今はそんな時間がない。


「ちょっと、急いでいるんで」


そ う言って立ち去ろうとした瞬間、腕を引っ張られた。


「逃げようたって無駄だよ」

「ちょ、ちょっと離してください」

「さあ、どうしてくれるんだい」

「いや、そう言われましても……」


 腕時計を見る。(マジで遅れる!)


「何やってんだい」

「会社に遅れそうなんです」

「そんなこと知ったこっちゃないよ。こっちはゴミ収集時間に遅れそうなんだ」


 俺の住む地区では、ゴミの収集は週一回と決まっている。時間に遅れると大変なことになるのだ。しかも、収集車は時間に正確だ。遅れてはならない。

 俺は部屋に戻り、新しいゴミ袋を持ってきて、散乱したゴミを入れて相手に手渡した。


「これでいいですか?」


「ふん」と言って相手はさっさと去ってしまった。

(礼ぐらい言えよ)と思ったが、文句を言っている時間はない。エレベーターへダッシュする。

 しかし、「故障中」と書かれた貼り紙がある。

十階から駆け下りた俺は息が苦しかったが、さらにバス停まで走った。不幸が続くというのはこういうことを言うのだろう。目の前のバスが走り出すのを見送るハメになった。追いかけたくても足が動かない。

 しかたがない、次のバスを待つことにしよう。もう完全に遅刻だ。

 こちらに走ってくるバスを見て、やれやれと肩を落とす。もう一人の自分がいたら、間抜け面をした俺を見て笑っただろう。


「満員じゃないか……」


 思わず声が漏れた。同じバス停にいた何人かに振り向かれる。昇降口のドアが開くと、体格の大きな男性が入り口を塞いでいた。肩が外にはみ出している。気分は最悪だが、無理やり乗り込む。


「痛い、痛い!」


 男性が悲鳴を上げたが、気にしている余裕はない。当然、ドアが閉まるとその男性がドアに挟まれる形になった。バスが揺れるたびにドアが嫌な音を立てる。


(まあ、落ちるときは道連れだな)


 幸いそうはならなかった。降りる客が多く、ようやく車内へ移動できた。そのとき、急にバスが揺れた。

 とっさに吊り革を掴もうとした瞬間、横にいた女性が悲鳴を上げた。


「きゃ、痴漢!」


 どこだと思い周りを見回すと、周囲の乗客が俺を見ている。女性の方を見ると、なぜか俺を指さしていた。


「え?」


 俺は自分に人差し指を向ける。女性は力強くうなずいた。


「はあー?」


 思わず声を上げる。


「ち、痴漢です! この人!」


 女性が叫ぶと、近くにいた強面の男性に羽交い締めにされた。逃れようとしたが、がっちりとホールドされている。


「いや、誤解です! やっていません!」


 振りほどこうとするが、耳元で強面がささやいた。


「やってしまったことは仕方ねぇ。おとなしく罪を償いなせぇ」


(アンタ、どこの時代の人だよ……)


 などと思ってしまった。俺は頭をブンブン振った。

 んで、今は警察署だ。連絡がいったらしく、上司と両親がやってきた。


 俺の顔を見るなり、


「うちにこんな社員はいません」

「こんな子うちにはいません」


 刑事に向かってほとんど同時に言った。

 刑事はなぜか悲しそうな顔をして俺を見てきた。そして、俺の肩を叩く。

 くそ、どいつもこいつも知らん顔しやがって。

 やれやれ、どうしてこうなった。


(了)

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災難 八雲景一 @KeichiYakumo

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