遺言テープ

翡翠

雪小屋

 吹雪の轟音ごうおんが響き、ガラスに叩きつけられる雪粒は鋭く音を立てる。


 田村は無言でストーブに薪を足し、そのてのひらに感じる暖かさが、一抹の不安を呼び起こし、山小屋の中は、寒さを感じることなく温かい筈なのに、心の奥底から冷えが浸み入った。


 標高千メートルを越え、五人は完全に孤立している。数日前から続く猛吹雪が、下山を不可能にし、絶望に似た無力感が段々深まっていく。


 外の世界と絶たれたこの小屋は、まるで切り離されたパラレルワールドであるかのように、静けさと恐怖を同時にはらんでいた。


 救助を呼ぶ手段も、圏外けんがいの今、ただの妄想に過ぎない。



「……俺たち、ここから出られるよな?」



 最年少の良太が震える声で問う。その声は小さな小屋の中で反響し、何も答えられない無空間を余計に孤立させる。



「天気が回復すればな。山の天気は気まぐれだ。焦っても仕方ないだろ」



 冷静に薪を焚べながら口を開いた田村の瞳は疲労と緊張に細められ、心の中で何かがジワジワとほころび始めていることを感じ取れる。


 小屋の奥、長い年月を経て擦り切れた木製のテーブルの上、一際目を引く物が置かれている。


 古びたビデオテープだ。


 それを手に取ったのは、雪山登山には不慣れな綾子だった。彼女は不安な気持ちをまぎらわせようと、落ち着きなく小屋を無意味に歩き回る。


 そんな時に何気なく目に留まったのがそのテープだった。ラベルには、「1993年12月5日 記録」と油性ペンで記されている。



「これ、なんだと思う?」


「誰かがここで撮った記録じゃないか?」



 古びたブラウン管テレビとビデオデッキを指さしながら、年配の辻川はため息混じりに呟く。



「暇だし、再生してみようか」


「やめておけ」


 田村が低い声でその場を制す。その声には、焦りにも似た、警告めいた響きが含まれる。



「余計なことをするな、特に山ではな」



 しかし、その警告を押し切り、辻川はテープをデッキにセットし、重い再生ボタンを押す。


 映像がじわじわと明転めいてんし、雪に覆われた山道が映し出された。揺れるカメラの先には、数人の登山者が見える。暴風に混じり、撮影者であろう男性の声が聞こえた。



「…これが記録に残る最後の場所になるかもしれない。天候が急激に悪化し、進むべきか留まるべきかの判断がつきそうもない、誰かがこれを見つけてくれることを信じて……」



 映像が突然乱れ、モザイクに似た荒いノイズが走る。次の瞬間、画面は筆で塗られたように隙なく真っ白になり、書き込まれた文字がそこに現れた。



「下山を試みるな」



「なんだこれ……」


 辻川が首を傾け、眉を顰める。綾子も良太も、一点を見つめて言葉を失う。そして、再び映像が切り替わると、雪の中で倒れている登山者たちの姿が映し出される。


 凍りついた遺体が横たわり、その周囲には、整然と並んだ足跡が続く。



「これ、フェイクじゃなくて本当に撮られた映像なの?」



 良太が怯える小鳥のような声で指差した。


 田村は画面を一瞥いちべつし、冷徹な口調で言い放つ。



「ただのいたずらだろ、どこにでもあるホラー演出だろう」



 映像の最後には、男性が必死にカメラに語りかける音声が残されている。



「これを見つけた君へ、食料がある限り持ちこたえろ。だが…下山だけは絶対にするな。これは……」



 そして映像は途切れた。その瞬間、小屋の中に訪れた沈黙は、生きる全てが停止したかのような静けさを生む。吹雪の音すら、遠くから聞こえてくるように感じられた。


 夜が更け、再びストーブの周りに全員が集まり、眠ろうとした。しかし、田村だけが眠りにつく事が出来ない。


 あのテープに映し出されていたものがただの作り物ではないと山岳ガイドの経験が告げているからだ。


 そして、夜明け前の静けさ。田村は目を覚ました。ストーブの火はほとんど消えかけており、その温かさは微弱だ。


 立ち上がり、薪を足そうとしたとき、ふと小屋の入り口が僅かに開いていた。



「誰だ……?」 



 田村は懐中電灯を手に取り、扉の隙間を覗く。外には新雪が積もっているはずだが、その雪の上に、昨夜のビデオに映っていたものとそっくりな足跡が続いた。



「おい、誰か出たのか?」



 田村が振り返ると、寝袋の中にいたはずの辻川がいないことに気づく。



「辻川さん?」



 外の足跡を追うと、足跡は雪の中で突然途切れていた。その先には、跡も何もない。


 戻ってきた田村が小屋に入ると、残された二人が怯えた表情で見つめる。



「…何があった?」



 田村がそう尋ねると、綾子がドアに目を向けながら唇を震わせた。



「辻川さん、行かなきゃいけないって言ってたんです、でも……」


「でも?」


「行く前に、僕たちも同じ目に遭うって言ったんです…」



 この小屋で何かが狂い始めている。そう田村は確信していた。それは外の過酷な環境ではなく、この幽閉された空間の中で、人々の心理が徐々に崩壊していく様子だ。


 ストーブの薪は残り僅か、命のゲージがすり減っていく今この時、僕の『心理操作で人を殺す事が出来るのか』という研究は無事検証成立出来そうだ。

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遺言テープ 翡翠 @hisui_may5

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