カナヅチ

水科若葉

カナヅチ

 洗面台の前に立ち、鏡に映る『自分』と対峙する。

 深呼吸を一つ。僕は自身の瞳を見据え、呪文のように自らのプロフィールをおさらいしていく。

「……六沢秋。

「人間。

「十七歳の高校生。

「一人っ子。

「二年三組。

「映像研究部所属。

「得意科目は国語。

「で、苦手科目が数学。

「好きな食べ物はおおよそあらゆる料理全般。

「というか、食べること自体が好き。

「趣味は読書。

……よし」

大丈夫、覚えてる。

 きっと六沢秋を演じ切れるはず。

二度頬を叩いて、僕は僕から目を逸らす。

 鞄を背負い、僕は玄関へと向かった。


「誰だお前」

 部室に入るや否や別人と見抜かれ、僕は頭を抱えた。

「一卵性双生児の片割れか? 何でもいいが、火遊びは程々にな」

 そこまで言って、少年は興味を失ったように課題に戻った。

 映像研の部室にいる少年ということは……多分、鮫野くんだ。

 鮫野くん――鮫野静海。

 映像研の部長にして、六沢秋の親友。

 椅子に座り、粛々とペンを動かす鮫野くんに「そんなに分かりやすい……?」と聞いてみる。いくら中身が違うといっても、容姿が同じ……というか六沢秋そのままである以上、一目見ただけで分かるはずが無いと思うのだけれど……実際、放課後までは一切指摘されなかったし。

「まさかお前、本気で騙そうとしていたのか……?」ハ、とさぞかし愉快そうに鼻で笑われる。「お馬鹿さんだな、そこらの有象無象ならともかく、その程度の猿芝居で映像研を騙せるはずが無いだろう。アキの演技としてあまりに未熟且つ面白みが虚無。本来ならば零点を突き付けるところだが……どれ、ガワを寄せた程度で騙せると思っていた厚顔さに免じて、二十点をくれてやろう」

 言いたい放題だった。

 二十点……どう考えても落第点だけれど、僕だって今の状態は決してふざけているわけじゃない。

 長机の向かい側、鮫野くんと正面で向かい合う場所に座る。話は終わりだと思っていたのか、意外そうな視線を向ける鮫野くんに、僕は「これには事情があって……」と、半ば一方的に話し出した。


 少し遅れたけれど、自己紹介をば。

 僕の名前はロック。

 天使だ。

 ……いや、比喩とか驕りじゃなくて、本当に。

「ふうん……」頬杖を突く。「気付けばアキの中に入っていたと」

 そう、僕は普段通り天使としての業務を行っていたはずが、いつの間にか六沢くんとして目覚めていたのだ。理由も経緯も分からず、加えてどうすれば元に戻せるのか……本来の六沢秋はどこへ行ってしまったのか、全くの不明。とは言え自身に何らかの非があり、僕のせいで六沢くんに多大なる迷惑をかけている可能性が存在する以上、彼の人生をこのままダメにしてしまうわけにもいかず、こうして彼として振舞っているのだ。正直、単なるシステムとして生きてきた自分には荷が勝ちすぎる話なのだけれど、そこはそれ、なんとかなると信じて頑張るしかない。

「本来なら、僕たちの仕事上、こんなことはあり得ないはずなんだけど……あ、天使の仕事っていうのはね、」

「それ以上はいい」

 野良犬を追い払うように手を振られ、僕は慌てて口を閉じる。急に全てを語っても混乱するだけだろう、という僕の後悔をよそに、鮫野くんはため息を吐いた。

「『天使などこの世に存在しない』という点に目を瞑れば筋の通った説明だった。お前が容姿だけはそっくりで中身が別人である点にも理解がいく、即ちつまらん」

「つ、つまらん……」

「お前……ロックだったか。ロックが六沢秋の記憶を有していて、あいつとして振舞うというなら、俺はそれで何の問題も無い。お前にはアキの代わりに映画へ出演してもらおう。明日は千田が映画の台本を持ってくる手筈になっている。放課後になり次第、部室へ来るように」

「…………」

 再び課題に戻る鮫野くんを唖然と眺める。

 記憶上でも癖のある人物とされていたけれど、ここまでとは……まさか、僕が天使であることを信じるでも疑うでもなく、どうでもいい事として一蹴するとは思っていなかった。

 映画……映画、か。

 果たして僕に六沢くんの代理が務まるのだろうかという不安と、元の役割に戻るためにはどうすれば良いかの疑念が心を重くする。

 ひとまず、今日はこれ以上出来ることは無さそうだと、僕は席を立ち、鮫野くんに別れの言葉を告げた。

 鮫野くんは無言だった。


 翌日。言われた通りに部室へ行き、相変わらずの鮫野くんに倣って課題を進めていると、こんこんと扉を叩く音が聞こえた。

「……失礼します」

 やがて一人の少女、千田鳳仙花さんが紙束を抱えて入室する。

「おー千田、作家が時間通りに入稿とはいい度胸だな。余力を持って完成させた作品なんぞ駄作の気配しかしないが、見せてみろよ」

「……相変わらずのご挨拶。〆切に間に合っても間に合わなくても文句を言う姿勢はどうかと思うし、あなたは直すべきところが多すぎる。具体的に言うと死ぬべき」

 目を合わせて早々にばちばちとやり合う二人。確か千田さんは映像研ではなく文芸部員で、映像研には映画の台本を提供する立場のはずだ。学生の部活動である以上二人の関係は金銭や打算が絡んだものではなく、あくまで対等な関係のはずだ。

 にやにやと笑う鮫野くんに対し冷徹な視線を向けていた千田さんは、やがてこちらへ視線を向ける。六沢くんと彼女はそれなりに仲が良かったはず、と、僕はぺこり、頭を下げる。

「……秋、あなた、天使になったんだってね」

 話が伝わっていたらしい。疑念の籠った眼差しに、僕は曖昧に頷く。天使になった、という言い方は適当ではないけれど、決して間違っているわけでもない。

 ちらりと鮫野くんを伺うと、サムズアップを返された。どうやら、彼なりの厚意で話しておいてくれていたようだ。

「……元に戻るの?」

「えっと……分からない。努力は惜しまないつもり、だけど」

「……そう」

 眼を伏せられる。その仕草から何らかの感情を見出すためには、僕にはまだ、情緒が足りない。

「……取り敢えず、これが台本、と、プロット。小説として書き上げたものもあるけど、多分、こっちの方が見やすい」

 長机に紙の束が置かれる。『エレキサイン』と銘打たれたそれには、物語の展開や構成する要素、設定が事細かに記されているようだった。

「んじゃま、お手並み拝見といこうか」

 鮫野くんはそう言って席を立ち、僕の肩に腕を回す。

「おいロック、読んでみようぜ。しっかり熟読し、正当な読者としての利権を確保した上で千田をこき下ろしてやろう」

「う、うん……?」

 ひとまず読めばいいのだろうか。僕は鮫野くんに促されるままに、二人で台本へと目を通していった。


 僕の名前はロック。

 天使だ。

 天使とは文字通り天の使いで、生物よりは上位で神様よりは下位にあたる存在だ。横並びの存在には『悪魔』や『時間』等々が居るけれど……まあ、それは置いておいて。

 天使に課せられた仕事を一言で表すとするなら、感情の回収屋、という表現が適当だろうか。回収といっても僕たちが自発的に何かをするわけじゃなくて、人間が不要と棄てた感情を自動的に受け入れ、これを無限に貯蔵する。そうして感情が地上で溢れないように手助けするのが、僕たちの仕事となる。

 亡くなった人が全員幽霊になっていたら、今頃地上は幽霊だらけになるんじゃないか……なんて想像をしたことは無いかな。それの感情版だと思ってもらえると話が早い。

 この世の全てに質量はある――魂にも、感情にも。どれほど僅かで、不可視であったとしても。

 要するに、社会を円滑に回す仕組みの一つだと思ってもらえれば大丈夫。戸籍や福祉と同じように、実感しにくいけれど、歯車として僕たちは機能しているのだ。

 ……で。

 なんでこんな話を、こまごましたかと言えば。

「ふむふむ、電脳世界で突如自我を持ったNPCが、人として生きるために奮闘する話か……おい女子高生、最近遊んだゲームのタイトルを言ってみろ。俺はパクリに厳しいぞ」

「……し、しらない。仮に類似した内容の作品があったとて、私はインスパイアを受けたに過ぎない。諫めるべきは名作の持つ影響力であって、私は悪くない……そう、これっぽっちも!」

 ……この通り、二人が全く興味を持ってくれないからだ。友人の中身が突如として別人になってしまったのに、それをいったん横に置けてしまう胆力は人間なら誰でも持っているものなのか、はたまたこの二人が特殊なだけなのか。このままでは身体を奪ってしまった六沢くんに面目が立たない気がして、せめてもの説明を挟ませていただきました。

「お話はとても面白いと思ったけど、これ、映像で表現するの難しいよね。中身が……えっと、NPC? でも、見た目は普通の人と変わらないわけだし……」

 こうなっては、僕としても映画作りに集中する他ない。台本を読み返しながら、僕は思ったことを口にした。

「いい着眼点だロック。電脳世界などという激ウマな舞台を用いておきながら画的に地味な内容の連続で観客を飽きさせない為の工夫が微塵も感じられない、千田の内面のように地味で陰湿な内容だと、そう言いたいんだな?」

「え……? いや、何もそこまでは……」

「……びぇ」

「高校生の編集力だと誤魔化せる部分も知れてるからな。撮り始める前に、最低限映像化に耐えうる内容までブラッシュアップさせる必要がある。このままじゃ尺にも収まらんし、馬鹿に詰められた設定の数々も大胆にクラッシュ&ドロップ、だ!」

 涙目の千田さんを他所に、今後の課題を滔々と語っていく鮫野くん。「だが、運のいい事に、NPCという設定に関して俺たちにはキラーカードがある」と言葉を続け、不敵に笑った。

「唐突に日常へ放り込まれた人でなし、という点で主人公とロックは境遇が近しい。そこなエセ天使の演技次第ではこのテーマ、完璧に映し切ることも不可能じゃないぞ?」

 ……どうやら、僕個人に興味は無いばかりか、好機として有効活用しようとしているらしい。

 別にそれは構わないのだけれど……エセ天使て。

「そうと決まれば意見を出し合うぞ。何せ文化祭は一月後に迫ってるからな……一日だって無駄にできないぞぅ! ひゅー、この焦燥感、たまんないぜ!」

 勝手に話を纏め、ひとりでにテンションを上げている鮫野くんへ、これだけは伝えなくちゃ、と、僕は期限が残り一か月ではなく二週間である旨を話す。

「十五日後には僕、死んじゃうからね」


 製作開始から三日目、部室。

「……鬱です」

「そんな小池さんみたいな言い方……」

「密デス」

「うわ似てる!」

 僕たちは行き詰っていた。

 正確には僕と千田さんが、だ。

 昨日までは鮫野くんも台本の推敲に参加していたのだけれど、文化祭のための書類作成とそれに纏わるゴタゴタの影響で、本日泣く泣く欠席。「どうせ撮影中に何度も書き直すハメになるから、ある程度は適当でいい。その代わり、何としても今日中に形にしてくれ」とのこと。

 映画の尺は最大二十分。ギッシリ詰まったプロットから様々な要素を引き算した結果として、時間内に収める要件に関してはクリアしたと言って良さそうだ。

 主観世界と電脳世界という二つの視点が交わる構成だの、地球から物理学が消失していたことが判明する展開だの、面白そうな設定を切り取るのはどうにも勿体ない気がしてならなかったけれど、こればっかりは仕方がないらしい。

 僕の『記録』……つまり、六沢くんの記憶にも、単発作品のコツは引き算を恐れないこと、という知識がある。引き算と言っても説明不足であってはならず、十を説明して十一を観客に想像させるような作品が名作なのだそう。

「ま、それが出来たら苦労しないんだけどね」と六沢くんが苦笑し、「そりゃそうだ」と鮫野くんに笑われていた『記録』が、僕の中に在る。

尺の問題が解消された今、問題となるのはより本質的な部分……つまり、内容だ。この三日間で、文芸作品を映像作品にするための修正の、その大半は済んだのだけれど、最後の問題点だけが、一向に解決案を思いつけない。

最後……即ち、オチをどうするか、という部分。

「うーん……やっぱり千田さんの書いた、主人公がありふれた人生を営んでいく結末が秀逸すぎて、そのままでいい気がするなぁ……こう、人間じゃなかった主人公が、普通の人間に成れた、って感じがしてさ」

 個人的に感情移入も出来るし。

 けれど千田さんは「……何度も言うけど、それはダメ」と自らの作品にペケを出す。

「……小説と違って、映画には地の文が無いから、短い尺だと主人公の心情変化を伝え切るのは難しい。映像としての派手さも無いから、観客に単なる製作不足……つまり、打ち切りと受け取られかねない。その多大な懸念点を考慮してまでオチをそのままにしてしまったら、それは、ただの私の自己満足」

「自己満足……それは、悪いこと?」

「……悪いこと、とは、言わない」視線を落とす。「……創作は自己表現。だから、自分を満足させるのは、大切なこと。私だって、そのために小説を書いてる……でも、自分だけのために作るなら、それは公開するべきじゃない……決して世に公開してはならない」

「ふうん……そっか」

 正直、六沢くんではない……人間ですらない僕にとって、千田さんの意見は難しく、正しいのかどうかさえ、よく分からなかったけれど……少なくとも、創作への真摯さは読み取れた。

「えっと……じゃあ、こういうのは?」

 その真っすぐな気持ちにあてられたからなのか、僕はふわりと頭に浮かんだ案を口に出す。

「NPCが真の意味で人間に成るためには、一度死ななきゃいけない、って設定を足すんだ。そうすれば、映像的には主人公の死っていう壮絶なものになるし、その後の人生を観客に想像させることだって出来る……ような気が、する」

「……主人公の死は、私も考えた」

 千田さんは難しそうな顔を此こちらへ向ける。

「……人外が主人公の作品では定番の終わり方。けど、それを映像で表現しようとしたら、編集能力もメイク力も足りない私たちだと、『死んだ』と伝えるのは困難……屋上から飛び降りるくらいの直接的なことをしなきゃいけないし、そんなことをしたら、当然だけど、演じる人も死ぬ」

「ん……それなら大丈夫」自分より先に思いついていた千田さんを流石と思いつつ、僕は続ける。「どうせあと二週間弱で僕死ぬし、命に使い道があるなら使っちゃおう。まあ、一発撮りにはなっちゃうけど……屋上から飛び降りるシーン、撮れるよ」

「…………」

 目をぱちくりさせる千田さんを見て、僕は無神経なことを言ってしまったことに気付き、慌てて「も、もちろん六沢くんの命を使うって意味じゃないよ?」とフォローを入れる。

「六沢くんに身体を返した後も、僕は撮影に協力する。見た目を六沢くんそっくりにも出来る……と、思うからさ。天使が死ぬときは血とかも出ないし……あ、もし、身体を返す方法が見つからなかったら……えっと」

「……そっちじゃない。命を使う、という効率的な思考に私は驚いた……あなた、一人の友人と百人の他人のどちらかしか救えない時に、迷わず百人を助けるタイプ?」

「え……? まあ、そりゃあ……百ひく一、だし」

 困惑しながら質問に答えると、千田さんは「……良い。逆に新しい」と独り言を呟き、優しい微笑みを見せた。

「……気に入った。その案、採用。秋に戻る方法が見つからなくても気にしないで……多分だけど、秋が天使になったのは、ロックじゃなくて秋に責任があるから。だから、戻れなかったら、その時はそのまま潔く飛び降りて」

「う、うん……?」

 いいのだろうか、と思いつつ頷く。

「……あなたの性格を知って、アタリがついた。秋は底抜けの聖人……どうせ、良からぬことに善意で首突っ込んで、しっぺ返しを受けたに決まってる」

「底抜けの聖人……」

「……うん。私と、あの馬鹿部長の友達をやれるくらい、聖人」

「へ、へえ……」

 僕は六沢くんについて、彼による主観的な情報しか持たないから、人物像についてはよく分かっていないのだけれど……聖人と、そう称される程のひとだったのか。

 ……今度、詳しく彼の話を聞いてみよう。

 そう思いつつ、僕はようやく台本が完成したことに安堵した。

 明日からは、クランクインだ。


 二〇二六年、地球は電脳病に感染した――

 それが本作『エレキサイン』の始まりだ。数多の病気に感染し、これを撃退してきた人類は、けれど彼等の依存する地球そのものが床に臥すという事態に成す術を持たず、ものの数ヶ月で地球全土は物理法則ではなく電子情報が支配する世界、即ち電脳世界へと変貌を遂げた。

 地球を生物として捉える着眼点にまず舌を巻いた僕だけれど、千田さん曰く、生物だから感染したのではなく、正確には病気に感染して初めて、地球は生物に成ったらしい。

 ……あまり深く理解しようとしなくても大丈夫だと思う。多分。

 そして本編の舞台となるのは、感染から一〇〇年後の日本。電脳世界へ変化してからぽつぽつと増え続け、やがて日常に当たり前に存在するようになったNPCの一人であった主人公の白井道久くん、通称シロは、ある朝自分が自我に目覚めていることに気付く。

 さあ、ビデオカメラが回ったぞ。

 慌てふためけ、僕っ……!

「わ、ぁ……なん、だこれわー」

「カット。地獄に落ちろ」

 正当な罵声だった。

 記録上の六沢くんが、演技でこんな風に罵声を浴びせられているシーンは無かったので、どうやら中身が僕になったことで、演技力が大幅に低下してしまったらしい。

「最初の五分までは、観客も我慢して見ようとするものだ。俺たちはその五分で観客の心を奪いつつ、最低限の設定を開示しなければならない……つまり、この五分だけは何があっても妥協せずに撮影するからな。例え〆切に間に合わなくなろうとも、だ!」

 監督兼カメラマンの鮫野くんからの熱い意思表示を聞き届け、僕は二人からアドバイスを受け取ってからテイクツーに入る。

 本作における最初の五分とは、シロが慌てふためいた後に友人である柳美沙、通称ミサに相談を持ち掛け、シロがこれまでNPCとして見ていた世界を初めて知り、感じ、苦労するまでとなる。以降は物語の真相を紐解く、いわゆる作品のトロとなる部分であるため、鮫野くんの言う通り、この五分で観客を飽きさせ、白けさせてしまうことは何としても避けなくちゃいけない。

 というわけでテイク二七八。夜も更け、今日はお開きとなった。

「いいぞ、素体が秋なだけあって、ロックは磨けば……いや、叩けば光るタイプだ! この調子なら明日にはミサを登場させられるぞ、がんばがんば!」

「うん……が、頑張る。ぼく……僕、頑張る、よ」

「……しどろもうどろどろ、といった様子。お疲れ様」

 ――それからの一週間は、壮絶だった。

 演じてリテイク、演じてリテイクの繰り返し。それは確かに大変で、時々泣きたくなったけれど、同時に的確なアドバイスをくれる鮫野くんと辛抱強く付き合ってくれる千田さん、何より演じることそのものが持つ楽しさのお陰で、とても充実していた。

「その……自我、とかは、まだ、よく分かっていないけど……私に相談してくれたことが……私を信じてくれたことが、とても嬉しいです。可能な限り、力になりたい……力に、なってみせますね」

 千田さん演じるミサは、圧巻の一言だった。トゲを持った彼女からは想像がつかない程、柔らかく、温かく、そしてどこか消えてしまいそうなくらいに、儚い。柳美沙というキャラクターの魅力をこれでもかと引き出した、最高の演技だ。

「千田は女優志望だったからな、演技力に関してはおおよそ文句なしだ。まあ、性格と性格と性格で差し引きマイナス二兆だが」

「……上等、立ちなさい鮫野静海。どっちかが死ぬまで殴り合いましょう」

 とまあ、これは部室で休憩中の際の会話で、実際に千田さんの演技力に高い評価を下している鮫野くんだけれど、指示に関しては一切躊躇せず、また遊び無く平等だった。

「このシーンは緊張感が肝だ。ロックはもっと肩に力を入れるくらいで丁度いい、その上で声のトーンは気安いものを心掛けてくれ。千田は今後の展開を踏まえれば更にあざとくていいな、不自然な程に完璧な笑顔を見せてみろ」

「りょ、りょうかい!」

「……やってみる」

 演じる、リテイク。演じる、リテイク。生まれて初めての苦労という経験に、僕は人生の重さを知った。

 途中、映画に使用するということで、部室の掃除もしたり。

「窓のガンコな汚れも、丸めた朝日新聞をお湯につけ、拭いてあげればこの通り! やっぱり朝日新聞は最高だぜ!」

「まさかただでさえ素敵な記事を書く朝日新聞さんに、こんな使い道があっただなんて……! しかも月額4900円、これは契約するしかないね!」

「……ばか男子」

 ……この辺りから、全員に疲れが見え始めた。

 演じる、リテイク。演じる、リテイク。演じる、リテイク、演じる、リテイク。その連続はまるで螺旋のようで、僕たちは昨日と明日の区別が曖昧になっていく。いつも通りの会話、普段通りの僕たち、けれど僕はちゃんと笑えているのだろうか。ああ、それとも、

 ――だから殺しました。

「っ……!」

 そもそも。

感情を棄てるなんて言うけど、実際には、そのハードルは思いのほか高い。嬉しいや楽しいといったプラスの感情は勿論、悔しいや妬ましいといったマイナスの感情も、強く感じている以上、人は無意識に執着している、ということだ。

 人間は忘れることで前に進める生き物だ。けれど、忘れたい記憶だけを作為的に忘れられる人間なんて、この世には一人だって存在しない。実際に忘れるもの……棄てるものといえば、一週間前の晩御飯の思い出とか、二時間前に見ていた動画の内容とか、そういったどうでもいいもの……思い出そうとすらしないものが殆どだ。例え脳が老化しようとも、大切な感情はいつまでも残っているもの。手の届かない程、奥に追いやられてしまっただけで。

 そうして大切にされた感情は墓の下で遺骨と一緒に眠り続けたり、或いは土に溶けて自然の養分になったりする。僕たちが回収するのは単なる出涸らしで、大切なものなんて、ごく僅かの筈だ。

 ……ならば、この『記録』は何処からやってきたのか。

 僕と六沢秋の魂が入れ替わった? 確かに、そういうこともあるかもしれない。けれど肉体と魂は別物だ。鍵と錠前のように、相互にリンクしない限りは、決して僕は六沢秋の記憶を知り得ない筈なんだ。

 何故、と頭脳が悲鳴を上げる。

 どうして僕は六沢秋の感情を、『記録』と形容できる程、大量に所持している?

 どうして……どうして、六沢秋の全てが、棄てられている?

「あ……? アキがどんな奴だったか知りたい、だと?」

 休憩時間、撮影した映像を見直している鮫野くんに、僕は前々から聞きたかったことを雑談ついでに聞いてみた。

「前に千田さんからは、『聖人だった』って聞いたんだけれど」

 僕の言葉に、「そんな風に説明しやがったのか……」と、鮫野くんは苦虫を嚙み潰した表情を見せ、千田さんの方を伺う。千田さんは「……間違ってないでしょ」と視線を逸らした。

 ――聖人。

 一般的には誉め言葉として用いられる名詞だけれど、どうやら、二人にとって、それは負の意味も併せ持つようだ。

「聖人。ハ、確かにその通りだよ」嫌そうに髪を掻く。「ただしそこには、『壊れた』っつー言葉が頭に付く。誰かを助けているときにしか呼吸が出来ないような、善行を酸素に生き永らえる溺れた魚のような、そういう生物だ。正しいからと理由だけで正しきを成す、正義の奴隷だよ」

「…………」

「アキ、物心つく前に母を死なせちゃったらしくてな。階段の上から押しちゃったとか何とかで。言うまでもなく事故だし、秋が悪いわけじゃないが、それを切っ掛けに父はノイローゼになるわ双子の姉貴は引きこもるわで……だからアキは、記憶の底に根付いたその罪を償うために必死になっているんじゃないか、って、アキの父から聞いたよ……本人には言わないでやって欲しい、きっと覚えていないだろうから、って釘を刺されつつ、な」

 先の通り、僕の『記録』は主観的なもので、彼の記憶に、自らの生き方を辛いとか、苦しいとか、そんな風にマイナスに思った感情は存在していない。だから彼が人助けをするのは、彼にとって指を動かすことと同じくらいに自然な、身体に染み付いたことで……

 ――待って、待って欲しい。

 知らないことばかりで脳が混乱しているけれど、彼の話の中には、僕が知っていなければおかしい情報が紛れていた気がする。

 ……双子の、姉貴?

 一人っ子じゃなくて?

「……鮫野くん、その話は秋くんに限らず他言無用と言われていたはず。せっかく話してくれたお父さんの信頼を裏切るの?」

 私は自分が嫌いでした。

 十年以上も歩き出せないでいる自分。

 大切な弟を、どうしても憎み続けてしまう自分。

「俺は、ロックがこれを知る権利を持つと感じただけだ。権利のあるやつが行使を申請してきた。なら、俺はそれに応えるよ」

 私は知っていました。

 弟が善い人であることを。

 弟は、きっと断らないことを。

 ――だから殺しました。

「あの馬鹿が居てくれたから、今の俺は夢を追えてる。ビデオカメラ一本でも、腐らずにいられてる。あいつは善行を積むことに必死になっていたが……ふん、アキがアキであるだけで救われる人がいたことに、あいつは気付くべきだった。居なくなって初めて、そんな下らないことを考えたな」

 ……混ざっている。

 ラベルが似すぎていて分からなかったけれど、六沢くんの感情に紛れて、別のひと……六沢くんのお姉さんの感情が、確かに在る。

 ……端的に言えば、それは後悔と殺意。

 あまりにどす黒く煮詰まった、とても棄てられないような感情。

「……秋の生き方は、自分を代償にしたものだった。私は、ロックが現れて……なんとなく、納得した。何があったのかは、知らないけど……多分、もう秋は、この世に」

 すべてが棄てられていると思い込んでいた六沢くんの感情は、けれど姉に関するものだけは、棄てられていなかった。

 それが彼の執着。自分の感情も、友達との思い出も、命も。大切なものを全て捧げることで、六沢秋は、姉の人生に報いた。

 そうしてお姉さんは、やっと後悔と殺意を捨てることが出来て。

 ――おぞましい、と、そう思った。

 僕は……僕は、六沢くんのために何をすればいい?

 どうすれば、彼の人生に報いられる?

「……うし、休憩終わり。撮影に戻るぞ、気を引き締めろよ」

 毅然とした声で、鮫野くんは言った。


 それから、ようやく魔の一週間を終えて。

「やっぱりそうだ……! 電脳病に感染してから二年後、二〇二八年時点で地球は死んでいる……具体的には四月一日! 今の俺たちは、三月三十一日までの情報を基に再現……シミュレートされたに過ぎない存在なんだ……!」

 物語中盤の山場、シロとミサはこれまで得た情報から、物語の真相を考察していく。ここまで何度もリテイクを重ねた甲斐あってか、シロを演じる場合に限り僕にも最低限の演技力が生まれたようで、思いのほか順調に撮影は進行した。

「そんな……じゃあ……じゃあ、シロは……私は、もう生きてはいない……と、とっくの昔に死んじゃってた、って……そういう、ことですか……?」

 涙ながらに、詰まった声で千田さんは台詞を発する。

 僕が短期間で、付け焼刃ながら演技を形に出来た理由の一つに、千田さんの演技がどこまでも本気だったことが挙げられる。彼女の真剣さのおかげで、僕ものめり込むことが出来た。

「いや……そうとも言えない、かも。胡蝶の夢って知ってる? 俺たちは今、それに近い状態にあるんだと思う」

 ……だから。

「胡蝶の夢とは、夢と現実の境界が曖昧になる様を指します。中国の古典『荘子・斉物論』の逸話が基とされ、人生の儚さを表現する意図でも用いられます……つまり……それは、まだ、死んじゃったかどうかは分からない、って……です、よね?」

 だから、僕は演技でなく、本心から恐怖した。

 これが中盤の山場。感情のスイッチを見せつけられ、ずっと人間の友人だと思っていたミサが、ふとしたきっかけでNPCに過ぎないことが露呈するシーン。胡蝶の夢という言葉を知らないミサというキャラクターは、円滑な会話のためにインターネットから知識を参照し、そのまま引用。そのあまりの無機質さにシロはぎょっとして、そしてようやく、彼女の瞳が人間のソレでないことに気付く。

 まあ、シロがNPCだった時代からの友人なんだから、ミサもNPCなのは道理なんだけど……この辺りの、観客に視線を逸らさせる手腕は見事というか、作り手の熱量を感じるというか。

 以降、シロはミサに上手く接することが出来なくなるとともに、自分とただのNPCの違いに悩み苦しむこととなる。

「…………」

 六沢くんのお父さんである荒道さんと話をした。荒道さんは多忙で、帰宅しても全くと言っていいほど顔を合わせる機会が無かったから、置き手紙を残して、何とか会話の時間を作ってもらった。

 お姉さんは、自首をしたらしい。

 無期懲役ということにはならないだろうけれど……きっと、とても重い刑罰が科される。全ての禊を済ませてから、二度目の人生を歩むつもりなのだそう。

 荒道さんはあまり多くを語らなかった。どうしようもなく憔悴し切った表情で、けれど、どこまでも真摯で。

「話してくれて……いや。会いに来てくれて、ありがとう」

 そんな台詞を、荒道さんは静かに言った。


「……そういえば。鮫野くん、僕と初めて会ったときに、一卵性双生児がどうこうって言ってたよね」

 撮影最終日。僕たちは屋上で最後の休憩時間を取る。何せ一発撮りなので、入念な休憩と準備が必要となるのだ。

「ん……ああ、そんなこと言ったっけか」

 曖昧に頷く鮫野くん。そこに、「……六沢姉弟は二卵性双生児。成り代わりの可能性に行き当たったのは誉めてあげてもいいけど、所詮鮫野くんはその程度のおつむ」と、千田さんが混ざる。

 そっか……あの日から、気付ける予兆もあったのか。

「ハ、おつむでもかたつむりでも何とでも言え。あの時は俺だって必死だったんだ。なんせ、見知った友人が見知らぬ中身を詰めてやってきたんだからな!」

 あの日のつまらん発言は精一杯の強がりだったわけだ。

 鮫野くん、良い人である。

「……秋、本当にもう、どこにもいないんだ」

 顛末は既に話してある。要するに僕は、六沢くんがあまりに多くの自分……一人の人間を形成できるほどの感情を棄ててしまったがために生まれたイレギュラーなのだ。本来天使として生まれ、システムとして生き、一カ月ほどの寿命を経て死ぬはずだった僕は、一人の聖人の手によって、思わぬ人生を体験してしまった。

「……さんざん誰かの為に生きた秋にとっては、バッドエンド……いや……秋が未練無くゴールテープを切るためには、そうするしか無かった、のかな」

 ぺたりと座り、紅く染まり出した空を見上げながら、千田さんはそう呟く。「未練の無い死が素晴らしいとは思わないけどな」とは鮫野くんの言葉。

「人生百年時代とは言うがな、百年程度で満喫し切れるほど世の娯楽は甘くないぜ。寧ろ後悔だらけやり掛けまみれになるくらいに、一秒一瞬を満喫し尽くすのが人生だろ」

「……鮫野くんの考え方は、贅肉が過ぎる」

「うるせー。もっと見せたい映画、いっぱいあったんだよ」

 ひんやりとした風が輪郭をなぞる。心臓の音を、強く感じだ。

「そういう意味では、さ。僕がここに来た意義もちゃんとあったんだね。このままだと六沢くん、どこにいっちゃったのか分からず仕舞いだったかもだし」

「……それは違う」千田さんは優しく、けれどきっぱりと否定する。「……人生に、行動に意義なんて存在しない。どう感じて、どう生きて、どう動くかを自分で決めることは、命に平等に与えられた自由……意義が無ければしちゃいけないなんて、そんなルール、無い」

 だから、と、千田さんは言葉を続ける。

「……あなたがロックとして私たちに会って、私たちの友達になってくれたことが……あなたが今、そこにいてくれることが、私は、ただ嬉しい」

「――うん、ありがとう」

 精一杯の親愛を受け取る。それは、僕の短い人生の中で、最大の報酬だった。

「どうした女子高生、今日はずいぶんと素直だな、へい!」

「……私だって学習する。言うべきことを言えずにお別れするのはもうこりごり……言っとくけど、鮫野くんにかける言葉は今後も罵詈雑言だけだから。誰より深い憎悪、フォーエバー」

「良かったね鮫野くん、特別扱いだよ」

「サーメサメサメ、相変わらず最低だぜ……!」

 三人で笑い合う。鮫野くんは呆れたように、千田さんは意地悪そうに、僕は……きっと、楽しそうに。

「この撮影が終わったら、映画が出来上がるんだよね。で、それを文化祭で放映するわけだ……知らない人の前で」

 その光景を思い描きながらの僕の言葉に「その前に俺は編集デスマーチが待ってるけども、な!」と、鮫野くんが何処か楽しそうに言い、一方の千田さんは身震いして胸を抱く。

「……もし酷評されたらと考えると、今から胃が痛い。白い目とか嘲笑とか、想像するだけで泣きたくなってくる」

「言っても学生の出し物に対する反応なんて、作品の良し悪しに関わらず愛想笑いが精々だけどな。はは、なーに、俺達はただ全力で黒歴史を積み上げればいいんだ。青春ってのはそういうものさ」

 だろ、とこちらに笑顔を向ける鮫野くんに、僕は「そうだね」と返す。とても彼らしい、ひねくれながらも前向きな物言いに共感しつつ、「けど、」と言葉を続ける。

「絶対、いい映画になるよ――大丈夫、僕が保証する」

 事ここに至り、僕は、二人のために尽くそうと心を決める。

 それがきっと、六沢くんの人生に報いる最良の方法だ。


 夕焼け色に染まった空の下、僕たちは二人見つめ合う。

 視界の端には、いつも通り鮫野くんがビデオカメラを構えている。一発撮りに対して緊張しないのか、と聞いてみたところ、「最高に撮ってやるから覚悟しろよ」とのこと。

 願わくば夢を叶えて欲しいと、そう思う。

「……本当に、飛び降りるんですか?」

 不安げな声で聞くミサに、「うん。この仮説には、賭ける価値がある」と、シロは迷わず返す。

 ミサがNPCで、全ての返答があくまでそれらしい台詞でしかないと知ったシロは、それでもミサと友人であり続けると決めた。自分がNPCであった頃から今まで、自分を支えてくれていたことは間違いが無い、と、そう結論付けたのだ。

 死に場所として屋上を挙げたのは、あくまで僕の例えでしか無かったけれど……千田さん曰く、屋上は全ての物書きにとって聖地らしい。屋上というシチュエーションを千田さんがえらく気に入ってしまったものだから、撮影許可を取るために三人で先生に頭を下げまくったりした。

 千田さんの気持ちが、今、何となくわかった気がする。

 ――そこには、風が吹いていた。

「もし……間違っていたら、死んじゃうかもしれないのに?」

「死んじゃうかもしれないからこそ、だよ。託してくれた地球には申し訳ないけど……俺は、前に進みたい」

 電脳病に感染し、死の淵に立たされた地球は、最期に一つの楔を打った。それがNPCの正体であり、地球最期の一日を延々と繰り返すシステムとして、彼らは存在していた。

 そうして百年が経過し、シロに自我が芽生えた。バグを起こした、という表現の方が適当だけど……シロが今やろうとしているのは、均衡を崩すことで、この夢を終わらせる、という行為だ。時間の経過によって電脳世界に順応した現人類は、地球滅亡後でも何とかなる手段をすでに獲得している、という情報からの賭け。もしかしたらNPCが一人居なくなった程度では均衡は崩れないかもしれない……それでも、セーフティが掛かっていない、自死を選ぶことの出来るNPCはシロだけだからこそ可能な手段。

 カァ、とカラスが鳴く。シロはフェンスを乗り越え、端に立つ。

 ……改めて背徳感。もし天使の死が人間のそれと同じだったなら、明日からこの学校の評判は地に落ちたことだろう。実際には、多分、こう、きらきらと良い感じに死ねると思うけれど。

 明日には荒道さんから学校に連絡が入ることになっている――お姉さんが六沢秋くんを殺してしまったことと、自首したことについて。死亡日から二週間程度のタイムラグについては……まあ、何とかなるだろう。

「ミサ、今までありがとう。君が居てくれてよかった」

 四階分の高さから目を逸らす様に、シロは身体をミサの方へ向ける。ミサはぱくぱくと何か会話しようとして、「……うん。こちらこそ」と、ありふれた言葉を返す。

 この世界のNPCは即ち人類の介護者。誰かのやりたいことを支援する存在である以上、「行かないで」や「嫌だ」といった足を止めさせる言葉は、この場で決して口にしないし、想わない。

 その様子に、シロは満足したように息を吐く。

 ……さて。尺も有限だし、ここは潔く。

「さようなら、素晴らしい世界! 縁があったら、また!」

 満足した夜に、疲れてベッドに沈むみたいに、ふわりと後ろへ倒れ込む。一瞬無重力が全身を支配したかと思えば、強烈な圧力が全身にかかり、シロは……僕は、地上へ堕ち始めた。

 ――視界が紅く染まる直前。僕は、決して泣かない筈のNPCが……このシーンでは泣いてはいけない千田さんが、ぽたぽたと涙を零す様子を、見届けた。


 僕の名前はロック。

 天使だ。

 ロックとは音楽の一種を指す言葉で、同時に、痺れるようなカッコいい生き様を表すときにも用いるらしい。

 だから、そう生きられたらいいな、と、僕は僕に命名した。名前負けしないような生き方が出来たとは言えないかもしれないけれど……少なくとも、僕の人生は良いものだったと胸を張れる。きっとそれで十分なんだと思う。

ああ、空に溺れていく。

空っぽだったはずの身体が、今はこんなにも重い。大切な思い出が次々に頭を過ぎていく。走馬灯という現象があることは知っていたけれど、それがこんなご褒美めいたものだとは、思ってもいなかった。

 六沢くん。鮫野くん。千田さん。荒道さん。お姉さん。

 そして僕。

 無限に感じた一秒は、けれどもう、終わりかけで。

 ――総括。

 天使ロックは、幻のような人生を生き抜いたのでした。

「クランクアップ」

 僕は呟いた。


 ……以上は、短編映画『エレキサイン』の製作風景、及びロックが勝手に録画していた動画を、俺が一つに統合、編集したものだ。

 天国とやらにいるであろう馬鹿な友人二人に、これを捧げる。

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カナヅチ 水科若葉 @mizushina

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