夕涼み
両国橋の上は、涼を求める人々で賑わっていた。提灯の明かりが川面に揺れ、夏の夜風が心地よい。
「いやあ、しばらくは騒がしい日々でしたな」
得之助は欄干に肘をつきながら、その日の夕刊を手に持っていた。大きな見出しには「偽金一味、検分役人の陰謀露わに」の文字。そこには上野の火事や、種族間の協力で事態を収束させた顛末も書かれている。
「三日と経たぬうちに、町はすっかり元の賑わいを取り戻しましたね」
シルワンは、珍しく浴衣姿で歩いていた。エルフの長身に似合う上品な縞柄である。普段は決して着ない服装だが、これも時代の変化なのかもしれない。
「そうそう」近くで立ち話をしていた町人が声を上げる。「昨日な、うちの商売に困ってたところへ、エルフの旦那が知恵を貸してくれたんだ」
「ほう?」
「これまでは、予知だの占いだのと気にしてたが、あの火事を見てからは、縁起よりも知恵と心意気だと思い直してな」
「ああ、わしらもドワーフの親方に相談するようになったよ。商売道具の修理から、店の改装まで、何から何まで頼りになる」
得之助は会話に耳を傾けながら、満足げに頷く。事件後、種族間の垣根は確実に低くなっていた。
川上から、涼やかな笛の音が聞こえてくる。振り返ると、エルフの楽師とドワーフの太鼓打ちが、まったく新しい音楽を奏でている。
「なかなかの音色じゃないですか」お糸が現れ、扇子を仰ぐ。「芸者衆の間でも、エルフの歌い方を習う者が増えてきましてね」
橋の上に、笛と太鼓の音が心地よく響く。
「おや、グランツ親分」得之助が声をかける。「工房の様子は?」
「ああ」ドワーフの親方が、弟子たちを連れて現れた。「深川の地下街、ずいぶん様子が変わったぜ。エルフの医師も、人間の商人も、毎日のように顔を出す」
「共同の工房、盛況の様子」
シルワンが嬉しそうに言う。火事の後、グランツの工房の一角に、エルフの医術と、ドワーフの技術を組み合わせた新しい施設が設けられたのだ。
「ところでよ」グランツが得意げに懐から小さな器具を取り出す。「これ、シルワンさんと考えた新作でな」
「ほう」得意好きの得之助が身を乗り出す。「どんな品で?」
「エルフの医術を使いやすくする道具さ。まだ試作じゃが…」
「まあ」お糸が目を細める。「種族それぞれの得意を活かした品なんですね」
得之助は、ふと川下に目をやった。水面に、不思議な光が揺らめいているように見える。
「あれは…」シルワンが首を傾げる。「予知では、あの光は…」
「何か面白いことでも?」お糸が身を乗り出す。
得之助はにやりと笑う。
「さあ、商売人の勘ですが」
彼は懐から、あの特殊な粉の残りが入った小袋を取り出していた。月明かりに照らされ、粉がかすかに青く光る。
「また何か、おもしろいことが始まりそうですな」
夏の夜風に、笛と太鼓の音が軽やかに響いていた。
江戸亜人草紙―深川騒動記― 風見 悠馬 @kazami_yuuma
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