決着
真夏の夜の闇が、深川の運河を覆っていた。水面に映る月明かりが、かすかに揺らめいている。
得之助は地下工房の入り口近くで、闇に目を凝らしていた。火事の熱気でまだ肌が火照る。上野の空は、ようやく静けさを取り戻しつつある。
「消火は終わりました」シルワンが静かに近づいてくる。着物は消火活動で水を浴び、髪も乱れている。それでもエルフらしい凛とした佇まいは失われていなかった。「皆、心配してくれて…」
その声には感慨が滲んでいた。火事の最中、人間とドワーフの火消しが、エルフの医師たちと力を合わせる姿は、確かに印象的だった。
「火事は向こうの仕掛けでしたが」得之助は顎を撫でる。「思わぬ結果を招いたようですな」
運河の向こうで、舟の音がする。
「来たか」
得之助は身構えたが、現れたのはお糸だった。艶のある着物の裾が、夜露で濡れている。
「深川中に、噂が広がっています」彼女は声を潜める。「エルフの術とドワーフの技で火事を消し止めたとか。上野の火消しぶりを見た人々が、次々と…」
「それは奴らの計算外でしょうね」シルワンの表情が明るくなる。しかし、すぐに曇りを帯びた。「でも、まだ気になることが」
「ああ」階段を上がってきたグランツが唸る。「地下の水脈が落ち着かねえ。誰かが、まだ術を使っている」
得之助は頷く。火事場泥棒を装った一味が、工房に入り込んでいる。そして水脈の異変は、彼らの仲間が近くにいる証拠だ。
「お糸さん」
「はい」芸者は、既に立ち去ろうとしていた。「町火消しに、合図を」
その時、通りの向こうから人影が現れた。月明かりに照らされた姿は、明らかにエルフのものだった。しかし─
「シルワンさん」得之助は静かに尋ねる。「あの方は?」
「水天宮付きの医師、リューネル様」シルワンの声が震える。「でも、なぜこんな場所に」
エルフの医師は、まるで誰かを待つように立ち止まっていた。その手には、普段は病を治す杖が握られている。
「そうか」得之助は目を細める。「予知を妨げ、水脈を操る。それができるのは、エルフの術者。つまり…」
地下からガラガラと音が響いた。誰かが、重いものを運び出そうとしている。
「いよいよですね」シルワンは帳面を抱きしめる。「予知の力は、まだ完全には戻っていませんが…」
「いいのです」得之助は静かに微笑む。「もう、予知は必要ありません」
火消しの提灯が、遠くで揺れ始めた。
「さて」得之助は印袢天の紐を締め直す。「芝居の幕が上がる」
彼が工房に入ろうとした時、思いがけない声が響いた。
「そこまでだ」
闇の中から、町奉行所の同心たちが姿を現す。得之助は一瞬、動きを止めた。
が、すぐに気付く。同心たちの中に、見覚えのある顔があった。火事の後、密かに北条の密書を受け取った同心だ。
「これはこれは」得之助は平然と言う。「まさにこれを待っておりました」
地下工房から、慌ただしい足音が聞こえ始める。一味は、罠に気付いたのだ。と同時に─
「リューネル様!」シルワンが声を上げる。エルフの医師が、杖を掲げていた。
「無駄ですよ」得之助は静かに告げる。「水脈を操っても、もう」
工房の入り口に、特殊な松明が灯される。青みがかった光が、暗がりを照らし出した。
そして、その光の中で─
偽金作りの道具に触れた者の手に、青い印が浮かび上がり始めた。そして、その印は医師の杖を握る手にも。
「動くな!」
同心たちが一斉に工房に入り込む。松明の光が、驚愕の表情を浮かべる顔々を照らし出した。そこにいたのは、町年寄の配下の役人、両替商、そして─
「ほう」得之助は目を細める。「検分役人の田村殿。まさか、エルフの術者まで買収するとは」
「くっ…」リューネルが歯を噛む。「私の術を見破るとは」
「お姿の見事なことでしたわ」シルワンが悲しげに告げる。「だからこそ、エルフの術とすぐに分かりましたの。人の身では、そこまでの技は使えませんもの」
「まさか、自分の同胞を裏切るとは」グランツが怒りを込めて唸る。
「裏切り?」リューネルが嘲笑う。「私は医術を商売の道具にしただけ。それがどうした」
「そうよ」お糸が扇子を畳みながら前に進み出る。「あなた方の計画は、最初から分かっていた。エルフの予知能力を妨げ、ドワーフの技術を悪用し、種族間の不信感を煽って、その混乱に乗じようと」
その時、工房の奥から新たな足音が。北条が、ゆっくりと階段を下りてくる。
「計算が甘かったな」目付の老人が言う。「種族間の不信を煽れば、必ず争いが起きると思ったか?」
「甘い、甘すぎる」得之助は首を振る。「江戸の町人は、そんなに単純じゃありませんぞ」
「実際、逆効果でしたね」お糸が目を細める。「火事での協力を目の当たりにした人々は、種族の違いなど気にしなくなった」
「それに」グランツが前に出る。「工房を使うなら、職人の誇りってものを知れ。こんな汚れ仕事に、俺たちの道具を使うとは」
田村の表情が歪む。「では、偽金は?」
「ほれ」得之助は懐から一枚の判を取り出す。表面には、微かな光を放つ模様が浮かび上がっている。「これが本物。あなた方が作った偽金には、この模様はない」
「まるで、商売のやり方を知らんな」彼は楽しげに続ける。「金の価値は、信用あってこそ。種族間の信頼を壊して金を溜め込もうたって、その金に何の価値がある?」
北条が大きく頷く。「よかろう。一味の者、裏切りの医師も、残らず捕らえよ」
同心たちが動き出す中、得之助はグランツに向き直った。
「親分、この工房、今後はどうされます?」
「ふん」ドワーフの親方は得意げに笑う。「エルフさんたちと相談してな。医術と鍛冶を組み合わせりゃ、もっと面白いもんが作れそうだ」
シルワンも頷く。「私たちも、ドワーフの技から学ぶことが多そう。それに…」彼女は捕らえられたリューネルを一瞥する。「医術の商売化を防ぐためにも、新しい形の協力が必要かもしれません」
その言葉に、得之助は満足げに目を細めた。一味の目論見は完全な裏目に出た。種族間の軋轢を生むどころか、かえって絆は深まろうとしている。
「これはこれは」得之助は口癖を漏らす。「江戸は、明日からまた少し面白くなりそうだ」
松明の青い光が、闇の中でゆらめいていた。
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