罠を仕掛ける
深川の地下工房は、夜になっても熱気が籠もったままだった。得之助は、グランツの手元を見つめながら、静かに頷く。
「ここまでの準備、お手数をおかけました」
「なに」ドワーフの親方は、作業台の上で何やら細かな作業を続けている。「工房を偽金作りに使われちまったんじゃ、親方の名が廃る」
作業台の上には、工房で使う道具が並べられていた。槌に鏨、そして特殊な金型まで。グランツは、それぞれの道具に、金粉のような微細な粒子を丁寧に擦り込んでいく。
「正規の仕事に使う道具と、あいつらの道具は別物でな」グランツは得意げに説明する。「偽金作りには、特殊な型と道具が要る。そいつらにだけ、この粉を」
得意の槌を振るう時の豪快さとは違い、その手つきは繊細だった。
「で、この粉はどれくらいで効果が?」
「三日は消えねえ」グランツは確信を持って答える。「一度触れりゃ、この特殊な松明の光に照らせば、手に青い印が浮かび上がる」
階段を下りてくる足音に、二人は振り向いた。シルワンが、帳面を抱えて現れる。
「ただいま戻りました。水天宮周辺の様子、確認して参りました」
得之助は身を乗り出す。「いかがでしたか?」
「怪しい動きが」シルワンは声を潜める。「普段より多くの参拝客の中に、見慣れぬエルフの姿が。そして、彼らは決まって…」
話の途中、地響きのような振動が伝わってきた。グランツが素早く立ち上がる。
「おや、誰か来るか」
シルワンが首を傾げる。「いいえ、これは…地下水脈の流れが変わった振動です」
「何?」グランツが目を見開く。「地下水脈を変えるなんて、よほどの規模の工事か、それとも…」
「エルフの術ですわ」シルワンの表情が曇る。「しかも複数の術者が、水脈を操っている」
得之助は顎を撫でる。「水天宮での不審な動き、地下水脈の操作…何か大きな仕掛けを準備しているな」
その時、工房の入り口に人影が現れた。お糸である。
「みなさま」彼女は普段の色気を消し、真剣な表情。「大判五十枚の取引、相手が乗ってきたようです」
***
「火事だ! 上野が燃えてる!」
突然の叫び声に、得之助は作業台から顔を上げた。
「なに?」
工房を飛び出すと、夜空が赤く染まっている。群衆の声が、通りに響き渡る。
「やはり人間の仕業か!」
「いや、エルフどもの謀略に違いない!」
得之助は息を呑む。火元は三か所。これは明らかな放火だ。
「得之助さん!」シルワンが駆け寄ってくる。「このタイミングでの火事は…」
「ああ」得之助は歯噛みする。「罠を仕掛けていた私たちの方が、嵌められていたというわけか」
上野の森が焼ければ、エルフたちの居住区域が壊滅する。薬草園も灰燼に帰すことになる。
「なんとかせねば」シルワンの表情に焦りが浮かぶ。「でも、あの規模の火事を消すには…」
その時、得之助は先ほどの地響きを思い出した。
「シルワンさん、地下水脈は?」
エルフの目が輝く。「そうです! 水脈が操作されているのは…」
「親分!」得之助はグランツに声をかける。「地下水脈の流れ、分かりますか?」
「ああ」ドワーフの親方が、既に地面に耳を当てていた。「だが、一筋縄じゃいかねえ。水脈の位置を正確に…」
「私たちにお任せを」
振り返ると、エルフの医師たちが集まっていた。彼らの手には、普段は病を治す杖が握られている。
「医術を使って?」得之助が問う。
「ええ」シルワンが頷く。「病を治すのと同じ。ただし今回は、水脈という江戸の血を操る」
ドワーフたちが地下の水脈を探り、エルフたちが術で水を操る。思いもよらない協力が、目の前で始まろうとしていた。
「さあ、親分」得之助がグランツに目配せする。「地下の道筋を!」
「東へ三間!」
「その先を右に!」
エルフたちの術とドワーフたちの声が呼応する。すると、地面から水柱が噴き出した。森に向かって放たれる水流が、炎を少しずつ押し戻していく。
群衆からどよめきが起こる。
「見たかよ、あれが」
「エルフとドワーフが力を合わせりゃ、こんなことまで…」
得之助はふと気づいた。これは思いがけない展開だった。火事は確かに脅威だが、それは種族間の協力を引き出す契機にもなっている。
そして、その時。
「得之助さん」お糸が駆け寄ってきた。「深川で怪しい動きが。工房に、提灯を持った男たちが」
「なに?」得之助の目が鋭くなる。「火事場泥棒を装って…そうか!」
彼は事態を把握した。火事は、偽金を運び出すための陽動だったのだ。
「面白い」得之助は、印袢天の紐を締め直す。「向こうの芝居に、こちらの芝居で応えるとしよう」
夏の夜風が、火事場の熱気を運んでくる。得之助の額に、汗が光っていた。
「お糸さん」得之助は声を潜めた。「町奉行所には?」
「既に密書を」芸者は頷く。「北条様から返信がございました。『遊び半分の火事見物にも、時には目の届かぬことあり』とのこと」
得之助は意味ありげに頷いた。目付の言葉の意味するところは明らかだった。火事場の混乱に紛れて、密かに動け――と。
「シルワンさん、エルフの医師たちは?」
「もう一刻ほどで鎮火の見込み。その後は…」
「分かった」得之助は頷く。「では、工房に戻るとしましょう」
彼は夜空を見上げた。火の手は確実に収まりつつある。そして工房では、別の火種が燻っているはずだ。
「芝居の幕が上がる」
月明かりが、運河の水面に揺らめいていた。
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