町人たちの知恵

真夏の夕立が去った後の路地は、水蒸気が立ち昇っていた。古着屋の店先で、得之助はぼんやりと通りを眺めている。いつもなら客が途切れることのない両替商たちの店の前も、今日は閑散としていた。


「相場が読めぬとなれば、商いも細るというもの」


後ろから声をかけたのは、シルワンの師匠にあたる両替商の主人だった。髪に白みの差したエルフは、得之助に目配せし、奥に招き入れる。


「これは大変な事態になってしまいましてな」


座敷に通された得之助の前に、帳面が差し出された。米相場の数字が乱れ、波打つように上下している。


「エルフの予知に頼りきっていた商人たちが、相場を見誤り始めている。もう十軒を超える両替商が店を畳んだ」


得之助は帳面に目を落としたまま、「人間の商人からは、エルフを疑う声も出始めましたかな」と静かに尋ねた。


「ええ。予知能力を悪用しているのではないか、と」


その時、外から物音が聞こえた。


「おい、テメェら!」


「エルフの妖術に騙されてたまるか!」


怒号とともに、石が両替商の格子に投げつけられる音がした。慌てて外に出ると、人間の若者たちが、エルフの商人を取り囲んでいた。


「これはこれは」


得之助は、さも偶然通りかかったように割って入った。


「商い事で言い争いとは、江戸っ子の風上にもおけませんな」


「得之助旦那!」


若者たちは得之助の顔を見て、たじろぐ。彼の評判は、この界隈では知らぬ者がいないほどだった。


「おや、松坂屋の若旦那じゃありませんか。このご時世だ。ひとつ、わたくしの店で一杯」


さりげなく若者の肩を抱き、得之助は場を収める。もう一人の若者は、知り合いの職人だった。


店に連れ込んだ若者たちの愚痴は、夜更けまで続いた。


「畜生、おれたちゃあ騙されてたんだ」


「エルフどもの予知なんて、最初っから嘘だったのかもしれねえ」


松坂屋の若旦那は、得之助の差し出した茶をぐいと飲み干す。


「ところでだ」得之助は、さりげなく話題を変えた。「偽金を掴まされた時の様子を、もう少し詳しく聞かせてはもらえませんかな」


「ああ、あの時は…」


若者の話に耳を傾けながら、得之助は考えを巡らせていた。偽金は、エルフの予知が最も霞むタイミングで受け取ったという。しかし、それは逆に言えば…。


翌朝、深川の地下工房。グランツは、得之助の話に耳を傾けながら、金槌を振るっていた。


「ほう、エルフの予知が霞むのを狙って偽金を流す。そこまでは分かった。だが、その先は?」


「それが分からん」得之助は首を振る。「エルフの予知能力を外すには、相当な手間がかかるはず。そこまでして、なぜ…」


工房の入り口で、シルワンが小さく咳払いをした。


「みなさま、お話中すみません。ですが、分かったことがございます」


得之助とグランツは顔を見合わせた。シルワンが自ら工房に足を運ぶのは珍しい。よほどの事態に違いない。


「実は、予知が霞む時刻には、ある規則性が」


シルワンの話は、お糸の到着で中断された。芸者の着物姿の彼女は、普段の艶めかしさを消し、真剣な表情をしていた。


「松坂屋でまた偽金が。でも今度は、受け取りを断ったそうです」


「ほう?」


「ところが、その後すぐ、ドワーフの鍛冶屋が偽金を…」


「なに?」グランツは金槌を置いた。


「手口が見えてきたな」得之助は、楽しげに目を細める。


真夏の陽射しが、地下工房の入り口から差し込んでいた。小さな光の中で、四人は顔を見合わせる。江戸の町を騒がせる偽金の謎は、思いがけない方向に進み始めていた。


「シルワンさん、その規則性というのは?」


得之助の問いに、シルワンは帳面を広げた。几帳面な文字で書き留められた日時が並んでいる。


「予知が霞むのは、決まって水天宮の祭礼の刻限と同じなのです」


「水天宮?」グランツが眉をひそめる。「あそこは確か…」


「ええ、エルフの医師たちが祈祷を行う社です」お糸が補足する。「最近は、人間のお医者様も大勢参詣なさる」


得之助は腕を組んで考え込んだ。水天宮では、エルフの自然魔法と人間の医術が融合した独特の祈祷が行われている。その影響で予知が霞むというのは、確かにありそうな話だ。


「だが、それだけじゃねえ」グランツが立ち上がる。「俺たちドワーフの技術も関わっている」


がっしりとした指先で、グランツは偽金の表面を示した。


「この細工を見てくれ。確かにドワーフの技じゃねえが、これを作るには、おれたちの工房でしか作れねえ道具が必要なはずよ」


「つまり…」


「ああ。エルフの予知、ドワーフの技術、そして人間の医術。この三つが絡み合った時にしか、こんな偽金は作れねえ」


「しかも」お糸が扇子を畳む。「偽金を最初に受け取ったのは、いつも異なる種族の商人なのです」


得之助は口笛を吹いた。事態は想像以上に入り組んでいる。単なる偽金作りではない。誰かが意図的に、種族間の不信感を煽っているのだ。


「こりゃ一筋縄ではいかなそうだ」


「でも得之助さん」シルワンが心配そうに言う。「町奉行所は動いてくれそうにありません。証拠が…」


「いや」得之助は楽しげに目を細めた。「証拠なら、これから作ればよい」


「はて?」


「商人の商売物は、この目と、この腕っ節」得之助は袖を捲り上げる。「エルフの予知に頼らずとも、ドワーフの技を借りずとも、やれることはある」


「ほう」グランツが興味深そうに身を乗り出す。「どんな手を?」


「それがよ」


得之助は四人の顔を見回してから、声を潜めた。彼の語り出した作戦は、思いもよらない方法で、偽金作りの一味を罠にかけようというものだった。

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