江戸亜人草紙―深川騒動記―

風見 悠馬

異変の予感

「これはまた、おもしろい相場になってきましたな」


両替店の簾越しに眺める通りは、暑気に蒸されて人いきれが漂っていた。古着屋の玉屋得之助は、簾の影で帳面を広げるシルワンの横顔に目をやった。エルフ特有の整った横顔は、いつ見ても絵にかいたような美しさだったが、今日は珍しく眉間に皺を寄せている。


「得之助さん、最近の相場の動き、何か…違和感を覚えますの」


シルワンは帳面から目を上げることなく、細い指で数字を追いながら呟いた。エルフの見習い両替商として働き始めて十年。人間から見れば若々しい姿は変わらないが、相場を読む目は確実に肥えていた。


「ほう? エルフさまの予知で何か見えましたかい?」


「それが…」シルワンは言葉を濁す。「普段なら少しは見えるはずの先行きが、霞がかかったように…」


得之助は店先に腰掛け、団扇で風を煽りながら通りを行き交う人々を眺めた。人間に混じって、時折エルフの長身の姿が目に入る。上野の森に住まうエルフたちの多くは医師や教師として働いているが、シルワンのように商いの道に入る者も増えてきていた。


通りの向こうでは、がっしりとした体躯のドワーフの職人たちが、材木を担いで行く。深川の職人街では、彼らの技術なくしては成り立たない仕事が増える一方だった。


「おや、グランツの親分」


得之助は通りを歩くドワーフの親方に声をかけた。鍛冶職人頭のグランツは、額の汗を拭いながら立ち止まる。


「これぁどうも、得之助旦那」


「こんな暑い日に、どちらへ?」


「ああ、新しい注文でな。変わった品物でさぁ、ちっとばかし気になってな」


グランツは懐から小さな金具を取り出した。得之助は目を細める。見覚えのない技法で作られた金具には、微細な模様が刻まれている。


「へえ、なかなかの細工だ」


「だがよ、どうにも気になる注文でな。こんな細かい模様、普通の細工物じゃ使わねえはずよ」


夕暮れの風が、上野の森から吹き降ろしてくる。シルワンが静かに簾を巻き上げ、三人は沈黙のまましばし風に当たった。


「あら、みなさん、こんなところで」


三味線の音が途絶えたばかりの声が、背後から聞こえる。振り返ると、艶やかな着物姿のお糸が、夕陽を背に立っていた。


「お糸さん、今日は早いお店じまいで?」


「ええ、ちょっとした用事がございましてね」お糸は扇子で口元を隠しながら、「実はみなさまにお耳に入れたいことが…」と声を潜めた。


得之助は、夕暮れの街に漂い始めた異様な気配を感じ取っていた。シルワンの予知が霞むという話。グランツの気になる注文。そしてお糸の持ち込む情報。


「これはこれは、おもしろいことになりそうだ」


得之助は口癖を漏らしながら、財布の紐を確かめるように軽く叩いた。最近、妙に重い感触のする偽金を、立て続けに三枚も見つけていたのだ。


***


深川の地下にあるグランツの工房は、相変わらずの暑さだった。炉の熱気に加え、地下水の湿り気が絡みつく。得之助は額の汗を拭いながら、テーブルに広げられた偽金を見つめていた。


「ほれ、見てくれや。ここの模様がよ…」


グランツは特製の虫眼鏡を得之助に差し出す。覗き込むと、金貨の表面に驚くほど精巧な細工が施されているのが分かった。


「ドワーフの技じゃねえな、これは」


「へえ、そりゃまた」


「ドワーフの鍛冶は、どこまで行っても正直者の技よ。こんな金貨を作るなら、模様は真っ正直に刻むはず。だが、これを見な」


グランツは金貨の縁を指差した。


「ここの模様、見た目は完璧だが、裏を返すと歪んでる。見栄えだけを考えて作られちまってる」


工房の隅で、シルワンが小さく吐息をつく。


「昨日も、三軒の両替商が偽金を掴まされたとの噂が…」


「おや、エルフの旦那方は予知できなかったのかい?」


得之助の問いに、シルワンは苦々しい表情を浮かべた。


「まるで霧の中を歩くよう。それに…」


話の続きは、階段を下りてくる足音で遮られた。


「みなさま、これは大変」


お糸が、普段の艶めかしさを消した表情で現れる。


「米問屋の松坂屋が、大判三十枚の偽金を掴まされたですって」


「なに? 松坂屋が?」


得之助は眉をひそめた。松坂屋の番頭は、目の付け所が確かなことで知られている。その松坂屋が大量の偽金を掴むとは。


「しかも、相場が妙な動き方をしているとか。エルフの旦那方が予知した相場と、実際の動きが食い違ってきているそうで…」


シルワンが立ち上がる。


「それで気付いたのです。予知が霞むのは、誰かが意図的に…」


「おっと」グランツが声を上げる。「地響きがする。誰か来るぜ」


足音が近づく前に、お糸は素早く奥の物置に身を隠した。現れたのは、町奉行所の同心。


「グランツ親方。最近、気になる噂を耳にしましてな」


「へえ、珍しい。同心さんが、わざわざこんな地下まで」


得之助は、テーブルの上の偽金を自然な動作で袂に滑り込ませていた。


「最近、妙に精巧な細工物が出回っているとか。ドワーフの技術は規制があろう?」


「ああ、承知しておりやす」グランツは愛想よく笑う。「うちの細工物は、一品一品、町年寄衆のお墨付きを頂いておりやす」


同心は工房の中を見渡し、何かを言いかけたが、結局は会釈して立ち去った。


足音が消えるのを待って、お糸が物置から姿を現す。


「松坂屋では、エルフのお医者様が往診に来る前に、大判を受け取ったそうですよ」


「ほう…」得之助は袂の偽金を取り出す。「つまり、エルフの予知を、誰かが意図的に外している。そこへこんな偽金ときた」


「規制を破った技術も使われちまってる」グランツが唸る。


「これは、三つの種族に同時に仕掛けられた罠かもしれませんね」シルワンの声には、珍しく緊張が滲んでいた。


夜も更けた頃、得之助は提灯の明かりを頼りに、地上への階段を上っていた。暑気が漂う通りで、彼は月を見上げる。


「さて、どこから手を付けるかな」


懐の偽金が、いつもより重く感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る