冬蜂の微光

夏迫杏

冬蜂の微光

 瞼がひらくことを朝と呼ぶのならおれはいつまでも真夜中にいて、深海に似た闇のなかをもがくこともせず、ただ溺れて、腐敗していく。

 こんこんこん、と机の隅を人差し指で叩く微かな音と振動にぼうっと顔をあげる。紫色のセーターに黒いロングスカートの、現代文の祝山先生の後ろ姿がすぐ近くにあった。通りすがりに注意がてら起こされたらしい。教室のどこかにいるクラスメイトがもにょもにょと音読をしている声が句点でふっと途切れる。

「じゃあ次、瀬川さん」

「はい。〈Kは真宗寺に生れた男でした〉……」

 音読をしはじめると、みんなふだん喋っているときよりも声が低く小さく、頼りなくなっていく。はじめて立った異国の地で、その国の言語をうろ覚えのまま口にするときみたいに。眼球の裏に貼りついている眠気がざらざらとざわめいて、とじようという意思もなく瞼はするんととじていった。粘膜の赤色と毛細血管の青色のサイケデリックが透けだして夢の景色がみえそうになったり、また戻ったりを繰り返しながら、まどろみの時間を過ごす。

「じゃあ次は福峰さん」

「はい」

 どき、とじぶんの名字が呼ばれたわけでもないのに身体に緊張がはしった。廊下がわの席に目を向ける。銀縁の眼鏡のブリッジを、くい、とあげたのが見えた。くせ毛でふわふわとしたポニーテールが揺れる。

「〈こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです〉」

 高すぎることも低すぎることもない、透明感を纏わせた芯のある声が、夏目漱石の『こころ』を迷いなく読みあげていく。

 ――リスナーさん、きょうもゆっくり聴いていってくださいね。

 記憶のなかの甘やかな口調が、福峰の声にかぶさって煌めいた。

「〈しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした〉」

「さすが放送部、上手ねえ。次、木村さん」

「はい。えっと、せ、〈精神的に〉……」

 またたどたどしい音読がはじまって瞼が一気に重たくなってくる。いちいち引っかかりながら文章を読むごにょごにょとした声が呪文となって強い眠気を呼び寄せてきて、透明な毛布をかぶせられているかのように全身を包みこんでいく。意識が無意識へと白んでいこうとする。呼吸が寝息になっていき、生物の最低限の生きかたで現代文の授業の時間が消えていく。寝る子は育つというのは嘘じゃないはずなのに、眠れば眠るほど、正しさから遠ざかっていくような気がした。



 國森、という表札がかかっている家の前で足をとめる。先月引っ越してきたばかりの真新しい一軒家はみいちゃんがすきな淡いピンク色をしていて、おれの家で間違いがない。リュックサックを肩からおろし、小さな前ポケットに手を差し入れてキーホルダーの硬さを探りだす。ショッピングモールのガチャガチャで引いた、白い犬のキャラクター。ほんとうはみいちゃんが可愛いと言っていた『おしゃれキャット』のマリーちゃんが出たらいいなとおもっていたけれど、百円玉を四枚入れてつまみを回して出てきたのはゼロという名前の幽霊犬で、オラフやベイマックスなら知っていたのによりにもよってまったく知らないキャラクターを引いてしまった。ゼロとボールチェーンで繋がっている家の鍵を鍵穴に挿しこみ、回そうとして、あれ、とおもう。そのまま鍵を抜いてドアノブを引っ張る。がちゃ、と扉が開いた。夜にならなくてもこの家にはひとがいるということを、おれはまだうまく覚えられずにいる。ただいま、とこころのなかで言う。上がり框に座ってエアジョーダンを慎重に脱ぎ、土間の隅に揃えて置いた。

 リビングに入るとみいちゃんがこたつでうたた寝をしていた。ベージュのオフショルダーのニットから骨ばった細い肩がのぞいている。女のひとはからだを冷やしてはいけないといったことをよく耳にするけれど、みいちゃんは季節を問わず肩が出ていたり脚が出ていたりするような、そういう服を好んで着る。おれが物心ついたときからずっとそうだ。そして参観日にクラスメイトのおかあさんたちに混じって派手な服装のみいちゃんが教室の後ろに立っていると、飛び抜けた若さが際立って、あれ誰のおねえちゃん? とひそひそ話が飛び交うのがなんだか誇らしかった。

「あうっ」

 すぐ傍に置かれているベビーベッドから乳児の声があがる。するとみいちゃんははっと目をさまし、迷子になったときのようにこわごわと周囲を見渡して、こたつの近くで突っ立っていたおれと目があうとすこしのけぞった。

「おおっ、れんか、びっくりしたー。おかえり」

「ただいま」

「え、いま何時?」みいちゃんが手もとにあったアイフォンの画面をつける。「五時半!? やば、夕飯まだつくってない!!」

 慌てふためくみいちゃんをよそに、がちゃ、と玄関の開く音がした。ほどなくして、ただいまー、と國森さんの低い声が聞こえてくる。わわっ、はるくんまで帰ってきた、とみいちゃんは言うとこたつからひょいっと立ちあがって玄関まですっ飛んでいった。

「あうあっ」

 涙の気配を含む幼い呻きに、おれはぎょっとしてベビーベッドに目を向ける。余計な音をたてないように歩み寄り、ベビーベッドの中を覗きこんだ。水っぽい揺らぎを浮かべた大きな黒目が不安げにこちらの顔を見つめてくる。

 やばい、とおもったときにはもう、口がへの字になっていた。

「うああっ、うああああああああああああああああああうっ!」

「あ、ちょ、えっ」

 この世に生まれて間もないひとがこの世の終わりみたいに泣きだして、おれは伸ばしかけた両手をおろおろと彷徨わせる。ととととと、と靴下でフローリングを走る音が迫ってきて、らんちゃーん、とみいちゃんが娘の名前を呼びながらリビングに戻り、泣きじゃくる乳幼児を抱きあげる。後からやってきた國森さんが、夕飯ぼくがつくるから美衣子みいこは藍を見てて、とキッチンに向かい、ワイシャツの上から青いエプロンを手早く身につけた。

 映画を観るような遠さに、みいちゃんと國森さんとその子どもの生活がある。

 おれはリビングからそっと出た。



 自室のベッドに腰かけて、アイフォン用の白い有線のイヤホンを両耳に挿しこんだ。スポティファイを起動するとポッドキャスト「ラジオ喫茶・愛の花」の新着エピソードが更新されていて、再生ボタンを迷わずタップする。喫茶店でかかっているような、どこにでもあるなんの歌でもないBGMが流れだした。十秒が経過したあたりでBGMの音量が絞られていき、息を吸う音がかすかに入る。

『ラジオ喫茶・愛の花にようこそ』

 首の後ろがそわそわと震えるような感覚がして、そのひと声であたまのなかが愉悦でいっぱいになった。

『こんばんは、マスターのアイカです。リスナーのみなさん、きょうものんびり聴いていってくださいね』

 高すぎることも低すぎることもない、透明感を纏わせた芯のある声。語尾にかけて吐息が多くなってほとんど囁いているみたいになる話しかたが、こそばゆくて、すこし照れくさいけれど、ずっと聴いていたくてたまらなくなる。制服のままベッドに寝転がる。天井は真っ白でしみがひとつもない。みいちゃんとついこのあいだまで暮らしていた貸家の天井は元が何色だったのかわからなくなるくらい壁紙が黄ばんでいて、零した液体が乾いたあとにできるような輪っか状の茶色いしみが日毎に増えていっていた。

 一年半前、はじめて買ってもらったアイフォンに浮かれながら、みいちゃんに彼氏ができたのだとも勘づいていた。古い貸家の壁はあってないようなもので、アイフォンは子どものおれの目と耳を塞ぐには丁度いい。これまでもゲーム機や音楽プレイヤーをプレゼントされたときには必ず男の影があった。でも、みいちゃんの恋愛はもって半年だから、買い与えられた機器におれが飽きるころには仕事終わりのみいちゃんと真夜中に遊んだり外出したりする日々が戻ってきた。

 煉とみいは、ずっと仲良しでいようね。

 ともだちみたいな家族でいたいなあ。

 男と別れたあとほど、みいちゃんは十七しか歳が離れていない息子のおれを背中から抱きしめながらそんなことを言った。祈りのようでもあり、懺悔のようでもあった。

 しかし、今度ばかりは違った。みいちゃんの恋愛は半年では終わらず、國森さんと結婚して、あっという間に妊娠して、出産にあわせて長らく暮らしてきた貸家を出ることになった。

 寝返りをうち、足もとでだんごになっていた掛け布団をかぶる。暖房がついていない部屋にずっと置いてあった掛け布団の冷たさに皮膚が粟立った。イヤホンをつけている耳を枕に押しつける。アイカの声が鼓膜に大きく迫ってくる。

『じゃあ、まずはわたしの近況から。最近はあしたの大会に向けてとにかく練習って日々でした。発声と滑舌と、朗読の読み練習ですね。山本弘さんの『アイの物語』を読むんですけど、〈あるのだ〉とか〈不安だったからだ〉とか、〝だ〟が安定しないんですよね。あるのら、ってなっちゃったり、だったからだっ、ってうまく下がりきらなかったり。本番は上手にできるかなあ、えへへ、ちょっと不安ですけど頑張ります』

 アイカの近況報告はほとんどが放送部のことで、違う世界のはなしを聴いているような感覚がする。「ラジオ喫茶・愛の花」はスポティファイをつけたまま眠りこけてしまったときに自動再生されていたのを耳にして見つけた。そのときは夏の大会で朗読したという太宰治の『津軽』を読みあげていて、あまり興味がなくて途中で聴くのをやめてしまったのだけれど、乳幼児の夜泣きで眠れなくなった日になんとなく再生ボタンを押してみたら、はじめて聴いたときよりも声がすきだとおもった。それからは二、三日に一度くらいの頻度で更新されるアイカのポッドキャストを欠かさずに聴いている。

『あとは、そうですね……ちょっと愚痴っぽくなっちゃうんですけど。お昼の放送のリクエストボックスに変なお便りがくるようになっちゃって。なんていうか、ちょっと……あれな台詞を言ってください、みたいな』

 え、とおもう。アイカが綺麗な声で苦笑しながら、ああ、放送禁止用語ってほどでもないんですけどね、と付け加えた。

『副部長ちゃん宛てとかだったらリクエストボックスなんて、ね、ポイしちゃえばいいんですけどね、いまのところわたし宛てにしかきてないし、わたしのせいでリクエスト受けつけられなくなるのも嫌だから、早くおさまってくれるといいなあ』

 なんて、ふふふ、すみません、変なはなしして。アイカの声が耳のなかを擦り抜けていく。気温の極端な季節の過ごしにくさを癒す風のように。けれど、時の移ろう淋しさのようなものも連れて。銀縁の眼鏡をかけて、くせ毛をひとつくくにした福峰が教科書の音読をしている姿が脳裏に浮かんでいた。

「煉くんごはんできたよー」

 イヤホンの外から國森さんの呼ぶ声がかすかに聞こえる。ベッドから起きあがり、はーい、と返事をしてポッドキャストの停止ボタンをタップした。



 リュックサックを背負い、ブレザーのポケットに入れていた白いイヤホンを装着する。海に潜っていくかのように放課後のざわめきが遠くなり、アイカの声だけがまっすぐに鼓膜を震わせてくる。

『じゃあ近況報告です、ふふふ。土曜日に大会があったんですけど、朗読部門で入賞しました!』

 おお、凄いな、と我が身のことのように嬉しくなりながら教室を出る。廊下の人波は昇降口に向かう流れがほとんどで、部活動やなにかしらの用事に行こうとしているひとたちがときどき逆行していく。おれは人波に混じって二階に降りる。階段の正面に伸びている廊下沿いには放送室があり、その前に男子生徒が立っていた。細身で、前下がりのマッシュヘア、遠目でも格好良さがわかる外見。去年おなじクラスだった健太郎だ。

『そう、読む順番が七番で、どうしよう一桁台引いちゃったー! ってすっごく焦ったんですけど、無事に決勝に進めたし、上位入賞できたのでめでたしめでたしでした。えへへ』

 ふっと足をとめる。健太郎は放送室のすぐ横にある消火器ボックスの上に置かれている箱を覗きこんで、それから、箱の傍らに置かれていたらしい紙を一枚取った。

「健太郎?」

 おれが呼びかけると、健太郎は紙を後ろ手に隠しておずおずと顔をあげた。まるで万引きをしているところでも目撃されたかのような焦燥が見てとれて、おもわず眉をひそめる。健太郎が覗きこんでいた箱をちらと確認すると、〈リクエスト募集中☆★〉とボールペンと蛍光ペンでてきとうに書かれていた。その傍にはプリントの裏紙でつくられた小さなリクエスト用紙が置かれている。

「なにしてんの?」

『そんな感じで秋の大会も終わったので、いまは来年の夏の大会にむけてラジオドラマの脚本を書いてます。最初は王道な告白シーンではじまるんですけど、ヒロインが実は死神で主人公の魂を狩るためにずっと傍にいた、みたいな』

「い、いや、リクエスト、してみよっかなーって」

「誰に?」

「だれ、に、って……」

 健太郎は明らかに言い淀みながら先ほど取ったリクエスト用紙を確認する。おれはブレザーのポケットに手をつっこみ、ポッドキャストをとめる。背後の階段や廊下で繰り広げられている話し声が一気に耳に入りこんできてうるさかった。

「サヅカワに送る、けど」

「さづかわ?」

 誰だそれは、とおもう。

「あー、えっと、DJさっちゃん」

「ああ」その名前ならお昼の放送で聞いたことがある。「あの早口でよく喋るひとか。先週滅茶苦茶やってたな」

 ははは、と健太郎は苦々しく笑った。DJさっちゃんを名乗るその放送部員は先週、おきもち表明だとまくしたてて昭和の未練がましい恋愛ソングとマカロニえんぴつの《ブルーベリー・ナイツ》を流していた。そのときはこのひと失恋したのだろうなくらいにしかおもっていなかったけれど、もしかしてその相手は健太郎だったのだろうか。それで、DJさっちゃん宛てに謝罪文かなにか書くために健太郎はここまで来たということなのかもしれない。あくまでも推測でしかないけれど、辻褄は合っているように感じた。

「……ま、ちゃんとしたの書けよな」

「え?」

 困ったな、とおもう。前のクラスのともだちが犯人ではなさそうなのはいいことだけれど、出会い頭に疑ってかかっただけに撤退の仕方がわからない。

「最近いたずら多くて困ってるって、なんか言ってたし」

「へえ……」

 んじゃ、と健太郎のもとから立ち去ってみる。不自然ではなかっただろうかと気になったけれど確かめる術もなく、おれはポッドキャストの再生ボタンをタップしてふたたびアイカの声を聴きはじめた。



 玄関を開けるとエプロンを身に着けた國森さんが掃除機をかけていて、きょうは水曜日なのだとおもいだす。不動産関連の仕事をしている國森さんは土曜日に出勤する代わりに水曜日が休みで、育児以外のことがままならないみいちゃんの代わりにさまざまな家事をこなしている。仕事がある日もなるべく早く帰宅できるように融通をきかせてもらっているらしい。だから新しい家は引っ越してきた当初のまま、いつまで経っても綺麗だった。

 掃除機の音がやみ、背を向けていた國森さんが振り返った。

「煉くん。おかえり」

「……ただいま、です」

 ずっと泳いでいた海から砂浜にあがるようにふらふらと、土間を進み、上がり框に腰をおろしてエアジョーダンの紐をほどく。

「ああ、靴、どう? ちゃんと履けてる?」

「はい。格好いいし、気に入ってます」

「そう、それならよかった」

 靴の踵を持ち、足を引き抜く。十七歳の誕生日にと國森さんが買ってくれたエアジョーダンは、体育の授業のときは別の下履きに履き替えるようにしているのもあって、汚れもなく綺麗に保つことができている。ほんとうはふだんから気軽に履いてもいいような靴ではないような気もしつつ、けれど國森さんが喜んでくれるのであれば積極的に履いたほうがいいのだろうともおもっている。それでみいちゃんが平和に暮らせるのなら、なおさら。

 リビングには寄らずに二階へつづく階段をのぼり、自室に引きこもる。リュックサックをおろしてベッドに倒れこんだ。急に身体の中身がなくなってしまったかのようにぽかんとして、そこに疲労感が棲みついて眠気が湧き起こってくる。布団からは汗臭いような酸っぱいような苦いような、じぶんのにおいがした。

 國森さんはなんであんなにいいひとなんだろう。

 なんて、本心を聞こえがよくなるように裏返して考えてしまうじぶんが嫌だった。



 校内放送でラブリーサマーちゃんの《あなたは煙草 私はシャボン》が流れはじめる。十秒ほど経過すると音楽の音量が絞られていく。

『みなさん、こんにちは! 十一月二十日水曜日、お昼の放送の時間です』

 ポッドキャストのときよりもはきはきとした口調で、けれどあの綺麗な声が最初の挨拶をする。お弁当から顔をあげて黒板の上に設置されている四角いスピーカーに視線を向ける。そこに本人がいるというわけではないのに声がするほうをつい見てしまうのはどうしてなのだろう。

『きょうはDJハナエが最近はまっている曲をお送りします。一曲目はこちらです。新しい学校のリーダーズで《オトナブルー》、どうぞ』

 楽曲コールで音楽が《オトナブルー》に切り替わる。イントロの怪しげなメロディが頭上で鳴りだした。すこし前にもポッドキャストでこの曲にいまさらはまったと言っていたのをぼんやりとおもいだす。ふだんはsyrup16gやmol-75を好んで聴いていて、たまにスポティファイのシャッフル再生で新しい曲を開拓しているらしい。

「福峰って声可愛いよなあ」

 どこかから聞こえた男子の声にはっとして教室じゅうを見渡す。

「可愛いっていうかえろくない?」

「それな。おれ声だけだったら付き合えるわ」

「あー、声だけな、めっちゃわかる。目、瞑ったらいける」

 ははははは、と内々のはなしをするときに立てる小さく低い嘲笑が教室の中央あたりからあがった。本田と須藤。《オトナブルー》はサビにさしかかり、首振りダンスをおもいうかべながらふたりを監視する。しかしそれ以上福峰の話題は出ず、出たところでどうすることもできなかった。おれは「ラジオ喫茶・愛の花」のリスナーでしかないし、福峰自身ともきちんと話したことがない。ポッドキャストを聴いているせいで本人についていろいろと知ってはいるものの、ただの他人でしかなかった。

『続きまして、二曲目はこちらの曲をお送りします。ずっと真夜中でいいのに。で《正しくなれない》、どうぞ』

 ACAねのハイトーンボイスが題名のとおりに歌いだす。教室にいる女子たちが伸びきらない裏声でそこだけ歌って、あとは知らないといったふうに黙る。なにかのタイアップソングだったと記憶しているのに、それがなんだったかぱっとおもいだせなかった。



『ラジオ喫茶・愛の花にようこそ。こんばんは、マスターのアイカです。リスナーさん、きょうもゆっくり聴いていってくださいね。えっと……』

 あれ、とおもってアイフォンの画面に視線を落とす。ポッドキャストはきちんと再生されていて一秒ずつ時間が進んでいる。音量のプラスボタンを押すと微かに流れていた無名のBGMがはっきりと聞こえるようになり、そこに、ずず、と鼻をすする音がかぶさった。

『きょうは、お知らせなんですけど』

 挨拶の台詞のときはいつもどおりだったのに、綺麗なはずの声が涙に絡みつかれてぐらついていた。

『ポッドキャストの更新をしばらくお休みしようとおもってます。すみません、なんていうか……えっと、前にちょっとおはなししたとおもうんですけど。お昼の放送の、いたずらのお便りがきてるってはなし。あれ、副部長ちゃんがすっごい心配してくれて、リクエストボックスを撤去したんです。それで、リクエストは部員に直接お願いしますってことにしたんですけど、そしたら、じぶんの教室の、わたしの机の中にいっぱい入ってて、ちょっと、怖くなっちゃって……』

 はああ、と涙を落ち着けるようにアイカは息を吐いた。

『声って、なんなんですかね。声を出してるのはわたしだけど、聞いてるひとに届くのは声だけで、わたしじゃなくて。好かれてるのも声だけで、わたしじゃなくて……すみません、なに言ってるんだろわたし。とりあえず、いたずらが落ち着くまでお休みしますというお知らせでした。それではラジオ喫茶・愛の花、本日はこれにて閉店です。お相手はマスターのアイカでした、ではでは』

 BGMの音量が一度大きくなってからフェードアウトして、消えていった。

 うわあう、うああああああっあうう、うあああああああああああ。

 下の階から子どもの夜泣きが聞こえてくる。よーしよしよし、とみいちゃんがあやす声も、大丈夫? と國森さんが問いかけた声も、耳がぜんぶ捉えていた。ポッドキャストのエピソードが自動で次に送られて、前回の配信ぶんが勝手に流れはじめる。湿り気のない、いつものアイカの声が耳に明るく滑りこんでくる。

『ラジオ喫茶・愛の花にようこそ。こんばんは、マスターのアイカです』

 眠すぎる日々のさなか、他人ばかりの家のなかで、その声のまばゆさがおれを救ってくれていた。

 けれど、光るような声を放つアイカのことは、福峰自身のことは、誰が救うんだろう。



 前の席に座っている和嶋の音読の声がやみ、背筋を伸ばした。

「はい、次。天野さん」

「はい……」

 返事をして、和嶋が読んでいた続きの箇所を読みあげていく。

「〈その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ち竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策しまったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがたふるえ出したのです〉」

 はい、次は上本さん、と祝山先生が次の生徒を指名しておれの音読は終わる。机に頬をつけて、廊下がわの席を見つめる。福峰の姿はない。あのポッドキャストが更新されたあとからずっと休んでいて、いつも水曜日に担当していたお昼の放送もDJさっちゃんが代わりにパーソナリティを務めている。不穏なくらい長い欠席についひやひやしてしまうけれど、花瓶に挿した花が飾られるなんて事態にはなっていないから、少なくとも生きているのだろうとはおもう。目をとじた。そこには不滅の夜がある。眼裏の暗がりを通りこして、シーソーのある公園の景色がセピア色に現像されていく。しかし、授業終了のチャイムの音で夢の景色は掻き消され、眠っている最中になにを目撃したのかも、夢をみたことさえも定かではなくなり、日常生活に馴染んでいく。すべてを覚えていては、ひとは失う虚しさや悲しみを知ることができないから。

 帰宅していく生徒たちの流れにのっとって歩きだし、階段で二階までおりてほんのすこしだけ人波からはぐれる。リクエストボックスさえあればすぐに済むのに消火器ボックスの上にはなにもなくて、だから放送室の扉をノックするしかない。はーい、と中から元気のいい返事が聞こえてくると、がらがらがら、と扉が開いて女子生徒が出てきた。きっとこのひとがDJさっちゃんで、ポッドキャストで副部長ちゃんと呼ばれているひとだろう。

「なんでしょう?」

「あの、お昼の放送のリクエストって……」

「あ、伺いますよ。アーティスト名と曲名お願いします」

「えっと」

 その声がなければ光の場所がわからないようなおれにできることは、とくにないのだけれど。

 せめて堕ちていく暗闇が、暖かく、柔らかいところであってくれたら。

「syrup16gの《Reborn》を、その……できたら、福峰さん宛てで」

「あー……」DJさっちゃんはうろたえるような声を出す。「はなちゃん、いつ学校来るかわかんないんですけど、大丈夫ですか?」

「それは、大丈夫です。おれ、おなじクラスなんで、ずっと休んでるの知ってますし」

「なるほどなるほど、そうなんですね。あ、ラジオネームお願いしていいですか?」

「じゃあ……クニモリで」

「クニモリさん。わかりました、リクエスト承りました」

「ありがとうございます」

「いえいえ。ではでは~」

 ぺこ、とあたまを下げながらDJさっちゃんが扉を閉めていく。

 その狭まっていく隙間に、放送室の窓に注がれた冬の陽射しのひと筋がわずかに見えた。

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