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それからのことはほとんど覚えていない。電話口で所長が絶句していたこと、残りの荷物を引き取りに来た同僚が目を合わせてくれなかったこと、聴取に来た警察官の制服の胸ポケットにボールペンが二本挿してあったこと――……断片的な記憶だけが、ノイズのように脳裏にこびり付いている。
気が付けば、亮二は営業所で所長に頭を下げていた。所長が何と言ったのか、言葉はまったく耳に入らなかった。
事故について、以後の処理は本社の法務部に任されることになった。亮二はこの件についてもう何もするなと命じられた。被害者との示談も、警察とのやり取りも、何もかも。
タクシーで自宅に帰り、一睡もできずに夜を明かした次の日の朝。
亮二は会社に退職願を出した。
所長も、同僚も、誰も引き止めなかった。おそらく、自分から言い出さなくても、結局は辞めさせられることになっていたからだろう。ただ、今後事故の件について何かあった場合には必ず連絡に応じるようにと、それだけを念押されただけだった。
営業所からの帰り道。慣れた道を歩きながら、亮二は風に吹かれてよろめいた。足が縺れて真っ直ぐに歩けない。地面の僅かな凹凸があまりに大きく感じられた。
十八で入社してから、誠心誠意勤めた会社だった。時間に追われる厳しい仕事ではあったけれど、体力には自信があったし、一つずつ自分の力でこなしていく日々の業務の達成感が好きだった。やりがいだって感じていた。真面目でひたむきな亮二の勤務態度は評価され、顧客にも愛されている自覚があった。
それが、すべて失われてしまった。
たった一度の事故で、全部。
喪失感が胸を満たした途端、瞼の裏が熱くなった。じわりと視界が滲み、涙の堰が決壊する。
ちゃんと確認したはずだったのに。運転には殊更注意していた。運送業たるもの、絶対に交通事故だけは起こしてはならないと、厳しく自分を戒めていたはずなのに。遣る瀬無さが込み上げ、涙となって止めどなく溢れていく。
亮二はそのままどこに行くともなく歩き続けたが、交差点で立ち止まった時、人目に気付いて涙を拭った。
いけない。いい大人の男が道端で泣くなんて、不審に思われてしまう。
前を向かなければ。
信号が青に変わると同時に、亮二は顔を上げた。角のスーパーに入り、贈答用の菓子を買う。手提げ袋に入れてもらって店を出た。
向かったのは事故現場――ではなく、その隣の美ヶ原事務所だった。
事務所への階段を上る道すがら、否が応でも事故現場が視界に入ってしまう。そこはまるで何事もなかったかのように、放置された自転車や、弁当のゴミや空き缶が散らばっている。その日常的な風景が、むしろ胸に痛かった。
いつものようにインターホンを押し、事務所の扉を押し開けると、あの女性職員が小走りで出迎えてくれた。
「はい……あらっ」
彼女の視線が亮二の顔を、それから手にした菓子折りの袋へと下りていく。亮二は言った。
「あの、昨日はお世話になりました。大変なご迷惑を掛けてしまって……よければこちらの所長さん?にご挨拶させていただきたいのですが……」
女性は「ああ」と呟くと、すぐに応接室を抜けた奥の部屋へ声を掛けに行った。
「タケヒトさん、昨日の方が」
あの男性は「タケヒト」というのか。亮二が促されるまま応接室のソファーに落ち着くと、間もなく例の強面の男性が現れた。
昨日の事故直後、呆然とする亮二に代わり、すべての手配をしてくれたのは彼だった。警察に通報し、また救急車も呼んでくれたのだろう。亮二は救急車の音を聞いた覚えがないが、轢いてしまった相手はいつの間にか現場から消えていた。
亮二が営業所への電話を済ませ、自身がしでかしたことの大きさに慄いている間に、この男性の手によって何もかもが終えられていたのだ。今日はその礼を言うために訪れたのである。
タケヒトは亮二の目の前に座ると、両手の指を合わせてにっこりと微笑んだ。その笑みによって元々の目つきの悪さが際立っている。黒い髪は無造作に掻き上げられていて、剥き出しの額は傷ひとつなく滑らかだった。身に着けているのは黒いハイネックにジャケットで、この神楽耶町に事務所を構えるくらいだし、どうしてもその筋の人間にも見えてしまう。
「わざわざ来てくれたんだ。ええと、タンバラくん」
亮二は一瞬誰のことかと思ったが、昨日名前を訊かれてそう答えたことを思い出した。
「昨日はありがとうございました。本当に、何から何まで助けていただいてしまって」
亮二が深く頭を下げると、タケヒトは笑いながら掌を見せた。
「気にすることはないよ。困った時はお互い様だと言うしね」
「すみません……これ、つまらないものですが、よかったら」
亮二は紙袋から取り出した菓子折りを差し出した。タケヒトが女性職員に手渡し、彼女が給湯室に運んでいく。
「いやいや。君に怪我がなくてよかった。しかし、大丈夫なの? 運送業で交通事故なんて」
タケヒトが訊ねる。亮二は胸の奥がじくりと痛んだ。
「……はい。なのであの、会社は辞めることにしました」
タケヒトが僅かに目を見開く。だが、彼にも事を騒ぎ立てない優しさがあるようだった。
「そうなの。大変だね」
束の間、気まずい沈黙が腰を下ろした。タケヒトがじっとこちらを見つめる、その視線がつらい。
亮二はこれ以上話すこともないと、再度礼を述べて席を立とうとしたけれど、運悪くそのタイミングで女性職員がお茶を運んできてしまった。湯呑から立ち昇る湯気を見下ろし、亮二は居心地悪く手を握り合わせる。
「それじゃあ、今は無職なわけだ」
タケヒトが口を開く。
「これからどうするかは決まっているの」
「あ、いえ……」
亮二はなぜそんなことを彼に訊かれなければならないのだろうと思いつつ、答えた。
「昨日の今日なので、まだ何も」
「そうなんだ」
タケヒトの相槌はなぜか場違いに明るく聞こえた。思わず不快感を顔に出す亮二に、彼は何も気に留めない様子でにこやかに歯を見せる。
「それはちょうどいい。うちで働いてくれないか」
「……え?」
「人出が足りなくてね。ぜひとも頼むよ」
亮二は話の展開に付いて行けず、ただ目を見開いた。
「えっ、そんな、急に」
「急でもないさ。俺はもともと君に目を付けていたからね」
タケヒトは湯呑を上から掴み上げ、茶を啜った。
「実は、うちも運送業をやっていてね。君は経験者だし、仕事ぶりも申し分なかった。何より守られている。これ以上ない適任だと思うんだ」
亮二は戸惑いを隠せないまま、急いで言った。
「すみません。お気持ちは嬉しいんですが、自分は事故を起こした身ですし……そこまで迷惑は掛けられません」
「え? 断るの?」
途端にタケヒトの声音が変わる。顔だけは相変わらず愛想のよい笑みを浮かべているが、黒い目は明らかに笑っていない。亮二はぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
「い、いや……断るというか……」
「困るなぁ。それなら、昨日の事故のことは公表させてもらおうかな」
「え?」
タケヒトの目が光る。彼は再び歯を見せた。
「実はね、昨日君が轢いたのは、うちの社員だったんだ。君の会社からは大事にしてほしくないと示談を持ちかけられているんだが……君が俺の誘いを断るというのなら、示談を断ってマスコミに事故のことを垂れ流してもいいかなと思ってね」
亮二は全身から血の気が引いていくのを感じた。
マスコミへのリークがどれほど事を大きくしてしまうかなんて、考えなくてもわかることだ。ましてや運送会社である。会社に大きな損失を与えてしまうことは目に見えていた。
そのうえ、自分はただでさえ曰く付きの身なのだ。それを知りながら何年も会社に置いておいてくれた人たちに、これ以上恩を仇で返すことはできない。
タケヒトは笑って続けた。
「うちで働きなよ、タンバラくん。言っただろ? 人出が足りないって。何しろ、君が轢いてしまったからさあ」
その言葉で亮二は悟る。
これは親切な申し出などではない。これは、脅しだ。
目の前の男は会社を人質にとり、亮二に社員を事故に遭わせた責任を取れと脅しているのだ。
亮二はきつく目を瞑る。確かに事故の非は亮二にあるのだ。どう足掻いたって、タケヒトの提案を断ることはできなかった。
「……わかり、ました」
拳を握り、辛うじてそれだけを吐き出す。
就職先が決まるのは喜ばしいことだけれど、タケヒトの態度を見るに、きっと酷い雇用条件なのだろう。ここは本当にその筋の事務所だったのかもしれない。亮二は苦しさに息を詰まらせながら、先のことを覚悟した。
そんな亮二を見て、タケヒトはパッと表情を明るくする。目は満足そうに笑っていた。
「よかった。うちは運送会社の中でもかなり特殊だからさぁ。タンバラくんのように真面目で信頼できる人じゃないと任せられないんだよね」
やり口は酷かったが、タケヒトは随分と自分のことを買ってくれているらしい。その理由に心当たりがない亮二は、「はぁ」と気のない相槌を打った。
「特殊って……危険物でも運んでいるんですか?」
「ああ、うん。危険も危険。超特級の危険物よ」
タケヒトは両手を広げると、告げることを面白がる様子で言った。
「何しろうちが運ぶものは――神様だからね」
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神々の運び屋 祇光瞭咲 @zzzzZz
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