神々の運び屋
祇光瞭咲
第1話 図々しい乗客
1-1
亮二は通行人がないことを確認して運転席から降り、トラックの後ろに回った。荷台の扉を開き、目的の荷物を引き寄せる。ハザードランプに照らされながら端末を操作した。
亮二は民間の運送会社で働いている。毎日仕分けられた荷物をトラック一杯に積み込んで、担当区域に届けて回る。ここ、都内某所にある神楽耶町もそのひとつだった。
今向かおうとしているのは「美ヶ原事務所」という表札を提げた個人の事業所で、週に三、四回は配達している。対応してくれるのは幸の薄そうな若い女性か、強面の男性のどちらかだ。男性の方はいかにもその筋の人間らしい顔をしているけれど、運ぶ物の詳細なんていちいち確認しないので、いつもそんなに何を宅配しているのか、亮二も知らない。
亮二は段ボール箱を胸に抱え、事務所の入口へ通じる階段を上った。一階は車庫になっていて、大抵は白いバンが停まっている。インターホンを押すと、すぐに駆け寄ってくる足音が聞こえた。
玄関扉が開かれる。亮二は相手の顔を見るよりも早く、元気な笑顔で口を開いた。
「こんばんは! 宅配です」
「あっ、はい。ご苦労さまです」
幸の薄そうな女性職員が、亮二を見上げて印鑑の蓋を外す。
彼女はいつも通りの姿だった。グレーのボックススカートにゆったりとした茶色のカーディガン。もとが小柄なので、カーディガンのせいで一層小さく、子供のようにすら見える。前髪以外の髪はすべて後ろで纏めており、味気ない縁なし眼鏡を掛けていた。
「それでは、こちらに判子を――」
言いかけたところで、視界に黒い影が割り込んで来た。「きゃっ」と小さな悲鳴が左の方へ消えていく。亮二が驚いて顔を上げると、目の前に立つのが女性から強面の男性に替わっていた。
鼻梁越しに、黒々とした吊り目がこちらを見ている。歳の頃は三十も後半か、もう四十代に入っているだろうか。それなりに整ってはいるけれど、随分と刺々しさや荒々しさを感じさせる容貌だ。
「はい、判子」
男性は女性職員から判子を取り上げると、何食わぬ様子で印鑑を捺した。呆気に取られる亮二には何も言わず、彼は笑顔で箱に向かって手を伸ばしてくる。
「あ、ありがとうございます。では」
亮二は彼に箱を預けて立ち去ろうとした。が、できなかった。男性は箱に手を添えているものの、一向にそれを受け取ろうとしないのである。
「あの、手、離しますよ? いいですか?」
亮二は困惑しながらそろそろと手を引こうとする。ところが、相手はにこやかに亮二の顔を見つめたまま。
「君、いつもうちに来てくれるね。宅配便屋で働いて長いのかい」
「え? ええ、まあ……」
まさか、お喋りがしたいのだろうか。ご老人などで時々あることではあるが、こうやって話し掛けられてトラブルに巻き込まれることもあるからと、社員研修では顧客と不用意に関わらないよう念を押されている。もちろん、このあと夜の分の配達もあるし、時間は貴重だった。
「名前は何ていうの?」
「……タンバラです」
亮二は口の中で答えてから、急いで付け加えた。
「あの、本当にすみません。この後の配達が詰まってまして」
男性は相変わらずニコニコと、整った顔に笑顔を浮かべて言った。
「ああ、すまないね。配達ありがとう」
彼がようやく荷物を受け取ってくれたので、亮二はホッと胸を撫で下ろす。一礼してその場を後にした。
速足で階段を駆け下りて、振り返る。扉は既に閉ざされており、窓には煌々と電気が点いていた。そこから人影がこちらを見下ろしていた、なんていうこともなかった。
亮二はトラックに乗り込んでまた端末を操作すると、次の目的地を頭の中で確かめた。同じ町内で再配達を頼まれている家がある。そこへ向かおう。
サイドブレーキを上げ、左右のミラーを確認する。この道は大通りより一本入ったところにあるので、人通りは少ないものの、道幅が狭くて見通しが悪い。電信柱や放置自転車といった障害物が多いため、夜間は特に気を付けなければならなかった。
大丈夫。車も通行人もいない。
再三しっかり確認したところで、亮二はゆっくりと車を発進させた。
その直後だった。
視界を何かが横切ったような気がした。
ドンッ、という鈍い音と共に、大きな衝撃が車体の前から後ろへ突き抜けた。反射的にブレーキを踏む。本当に一瞬の出来事で、世界は再び静まり返った。
フロントガラスに切り取られた路地の光景は、ヘッドライトによって白っぽく浮き上がっている。そこに動くものはなかった。
息が上がっていた。耳の中で聞こえる自身の吐息が、鼓動が、酷く耳障りだった。指先が冷え切っている。震えが、止まらない。
今のは間違いなく人間だった。ひょろりと背の高い人影を、やや猫背気味に歩くその輪郭を、亮二は確かに目にしていた。
硬直した思考の中で、救命を急がなければならないという理性と、もしかすると見間違いかもしれないという希望が、亮二のことを立ち上がらせた。ハザードランプを点灯させて車から降りる。恐る恐る前に回った。
何もない、と思ったのは束の間のこと。込み上げた希望は次の一瞬で絶望に変わった。進行方向の少し先、電信柱の麓に、丸まるようにして倒れ込んだ男性の姿があったのである。
「……あ」
言葉はそれしかでなかった。
震える足で歩み寄り、震える手を差し伸べる。黒いレザージャケットを着た男性は、ピクリとも動かなかった。
「嘘……そんな」
「救急車」
突然耳元でした声に、亮二は文字通り跳び上がった。悲鳴を上げて振り返ると、すぐ目の前に見知った顔がある。つい今しがた届け先で見た、あの強面の男性だ。
「救急車、必要でしょ? 呼んでおいてあげるから、君は会社に連絡を入れなさい」
呆然と目を見張る亮二の手に、スマートフォンが握らされる。それは男性が亮二のポケットから抜き出したものだ。亮二はその手の中の感触によって我に返り、履歴を辿って電話を掛けた。
「あの、もしもし……所長いますか……」
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