8.

あの笑顔を見た途端、黒く蠢く記憶が舞い降りてきた。

眩しくて、見るだけで心臓がきゅうとなって、手が痺れるような笑顔が、全てを思い出させたの。

この子は、浅倉日々姫は、あたしの人生の中での救世主だった。友人と笑う君の笑顔に惚れてしまった。照れ臭くて、話しかけるなんて、もっての他。

この笑顔だけ見れたら、良かったの。

その笑顔と、声と、存在だけが、生きがいだったんだ。

だからあたしは、あんな家でも死なずに済んだ。

あたしのお母さんは、物心がつく前に、男を作って出て行ったらしい。だからあたしを育てたのはお父さんだった。毎晩酒に溺れ、瓶を投げつけて、あたしにバスタオルを噛ませ、監禁するような父親。

何度も死のうかと思ったよ。

何回も腕にカッターを当てては、引き裂いた。それでもやっぱり死ぬのは怖くて、死にきれなかった。

毎日父親が帰ってくるのが、億劫だった。

いつかは殺されるんだろうなってぼんやりと思っていた。

けれど、お父さんが殺したのは、あたしじゃなかったの。

どこかの親子三人だった。

帰宅したお父さんのシャツは、ベタベタした赤い液体に覆われていた。何かが憑いたような瞳に慄いた。

そしてお父さんはあたしを見るなり目の色を変えて、手に持っていたナイフをあたしに握らせた。


「いいか。お前は父親に苛立って、ぶつかってきた子供と、その親を殺したんだ」


頬を高揚させて、捲し立てた。

そこからはもう覚えていない。

絶望なのか、恐怖なのか。気がつけばお父さんの言いなりになって、あたしが殺したかのような文章まで書いていた。

覚えているのは、交番へと歩いていた時、日々姫ちゃんを見つけたこと。

泣きながら「お母さん、お父さん、悠樹」と叫んでいた。あたしの大好きな笑顔は、どこにもなかった。

その時、あたしは気がついた。

お父さんが殺したのは、日々姫ちゃんの家族だって。

そこでようやく決心がついたの。

死のうって。

でも死にきれなかったんだね。こんな姿になってまで、私あたしは日々姫ちゃんに付き纏っていた。

馬乗りになって、大粒の涙を流す日々姫は、あたしの大好きな笑顔ではなかった。あたしが、その笑顔を奪ってしまったんだよね。

体に衝撃が走り、どんどん視界が鈍っていく。

辛そうに歪むその目を見て、自分の愚かさを激しく痛感した。最期に、日々姫に言いたいのは、たった一つだけ。


「ごめんなさい」


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夏の果て 早坂 椛 @hayasaka_tsuzuri

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