第3話 先輩の答えとわたしの答え


 扉の開く音に、わたしはのぞき込んでいた顕微鏡から顔を上げた。

 来ている白衣だけが、先輩が医者であることを証明している。

 いつもと変わらぬ愛想のよい顔で、わたしの過去問が目の前に積んであるソファに座った。


「先輩、どこ行ってたんですか? めっちゃ、依頼来てましたよっ」

「んー、散歩。標本は作ったの?」


 つまらなそうに過去問をぱらぱらとめくっている。

 わたしは先輩がいない間に来た依頼を渡した。すでにリストアップしてある。

 この先輩、優秀だから依頼だけはひっきりなしにくるのだ。

 その中から、わたしでも大丈夫そうなものを渡される。


「いつも通り、作ってます。あとは先輩が見るだけです」

「お、上出来上出来……やっぱ試験なんて余裕じゃない?」

「それとこれとは別です」


 先輩が機嫌よさそうに笑った。

 リストにざっと目を通す。

 依頼は後からできても、標本づくりは一刻を争う。

 迅速検体なら、すぐさま標本にしないといけないし、永久標本なら適切な処理が必要。

 わたしは働かない先輩に代わり、その作業を請け負っていた。

 言うだけ言って、動かない先輩に、わたしは首を傾げる。


「先輩はなんで病理の専門医になろうと思ったんですか?」

「祐ちゃんは、なんでなろうと思ったの?」

「わたしは、元々外科志望でしたし……って、先輩だってそこらへん分かってますよね」


 オウム返しで返ってきた質問に、嫌な記憶が蘇る。

 わたしは元々病理診断をしたくて医者になったわけじゃない。

 だからこそ、最初から病理学を選んだ先輩の理由を知りたかった。


「わかってるよー、もちろん。外科に向いてない子が外科してるなぁって思ったもの」


 けらけらと笑った先輩は、手を振りながらそんなことを言う。

 いつの間にそんな風に見られていたのか。

 わたしの記憶の中で先輩を見かけた覚えはない。だって、この先輩はふらふらしていることで有名だったのだから。


「なんですか、それ!」

「前も言ったでしょ」

「はい?」

「医療に正解はないから」


 先輩の口癖。

 病理を学び始めてから、診断をするようになって、よく聞かされる言葉だ。だが、その意味まで理解できたことはない。

 先輩は綺麗な顔面を思い切り生かしたクールな顔をした。

 そういう表情をされると、先輩の美人さが際立って、何も言えなくなる。

 わたしは胸の内で、深呼吸してから先輩に答える。


「……個人差が大きいって意味ですか?」


 先輩の瞳が瞬いた。その瞳の中に星を見た気がして、なんだか落ち着かない。


「同じ病気でも、人によって進行も違えば、きつい部分も違う。患者と触れ合う診療科は、そこらへん柔軟に対応しないといけないでしょ」

「そうですね。患者さんに寄り添うことが第一です」


 わたしが外科を志望したのも、その部分が大きい。

 病気の人を一番助けられるのが外科だと思ったし、実際に感謝されれば嬉しい。

 退院していく人を見ることができれば、やりがいを感じる。

 だが、病理診断科にはそれがない。

 先輩はすべて分かっているような顔で言葉をつづけた。


「でも医学は違う。医学は学問だから、正解がある……国家試験問題が作れるくらいにはね」


 医療に正解はなくても、医学には、少なくとも病理には正解がある。

 細胞の形、並び、核の大きさ、場所、そういったものから、その標本が何かを診断する。

 それがわたしたちの仕事だから。

 絶対はなくても、正解は確かに存在するのだ。

 だけど、わたしは少しだけ眉を押し上げた。


「医学に正解があるなら、医療にも正解があるんじゃないですか?」

「祐ちゃんは、そこらへん、外科医に向いてないよねー」

「うぐっ」

「だから、上の人とぶつかっちゃうんだよ」


 ばっさりと切り捨てられた気分。

 わたしは医療の曖昧さが苦手な人間だった。

 同じ治療をしても治る人もいれば、治らない人もいる。治らない人を「残念でした」と諦めることが、わたしにはできない。

 それが外科医として必要な能力だとしても。


「先輩は間違いのない正解が欲しいんですか?」


 先輩もそう思っているのか。わたしは確認するように尋ねた。

 だけど、先輩はただ微笑んで首を傾げるだけ。


「どうだろうねぇ。間違いのない正解なんて、怖いだけな気もするけど」

「……よく、わかりません」

「いいの、いいの。祐ちゃんはそのままで」


 またけらけらと笑う。

 医者らしさを全く含まない、軽妙な笑みだ。

 だけど、その視線の暖かさにわたしはきっとまだ医者として生きていけている。


「だから、一緒に寝よ?」

「寝ませんてばっ」


 フランクにサボりを提案してくる先輩に、わたしは唇を尖らせた。


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不眠の先輩と新人のわたし 藤之恵 @teiritu

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