第2話 答え合わせ


 病院の廊下に白が多い理由は、汚れが見つけやすいかららしい。

 そう聞いた時、汚れの一つも許さない医学の躊躇のなさに、藤川楓は感心した。


 楓は病理診断科に祐を残して、廊下で人を待っていた。

 目の前を通る人たちは全て病人か医療関係者。

 入院着か白衣を身にまとった人間だけがいる場所は一種独特の雰囲気を保っている。

 右、左、右と目だけを動かして、人を探す。

 と、手術着の上によれた白衣を着た男性が近づいてくるのが見えた。オールバックにしている髪の毛には数本の白髪が混ざり始めている。

 楓は、その男性に気軽に声をかけた。


「あ、ねぇねぇ」

「げ、藤川」


 楓の存在に気づいた瞬間に、男性ドクターは顔をしかめた。

 酷い反応だなぁと楓は肩を竦める。ただ声をかけただけだというのに、これではいじめっ子のようだ。

 大学頃から同期の矢作隆。学生の時から、外科に命を燃やしている男だ。

 性格は絵に描いたような熱血で、楓とは性格が合わない。

 とはいえ、楓が苦手としているというより、一方的に嫌われているに近い状況だった。

 足を止めたことを後悔しているかのように、矢作は楓の顔を見て苦虫を嚙み潰したような顔をする。それを見て、楓はわざとにっこりと笑ってあげた。

 まるで存在を無視するように歩き出した矢作に並んで話し出す。


「この間の脳出血の検死、変でしょ」

「……何がだ?」


 単刀直入に、話し出す。

 祐に見せられた標本と診断結果。そこに医学的に見て間違いは一つもなかった。

 標本も綺麗だったし、診断結果も理路整然と表記されていた。

 あの病理診断所に文句をつけれる人間は少ないだろう。

 外科であぶれていた祐を拾えたのは、本当に僥倖だった。だからこそ、祐に変な混ぜ物はしないで欲しいと楓は思っていた。

 矢作は楓の言葉に、一拍置いた後、表情を変えずに首を傾げる。


「あの年齢で、たった二剤の抗凝固薬の服用。栄養不足も肝機能低下もない。なのに、転倒して外傷性くも膜下出血で死亡? あり得ないと思うんだけど?」

「あれは……そうとしか、判断できないだろう」

「二剤でくも膜下になるほど凝固系が伸びるんなら、薬剤の調整が必要でしょ」


 楓はただ矢作の顔をじっと見つめる。

 抗凝固薬は、個人差が大きいことで知られる。栄養状態や食生活でも効果が変わってくる。

 そのため、服用している人間は定期的な血液検査をすることがほどんどだ。

 優秀な外科医である矢作が、見逃すわけがない。

 通常、二種類程度であれば、抗凝固作用がそこまで強く出ることはなく、下手に血栓をつくるくらいなら少し伸びたままにする医者も多い。

 だからこそ、楓は祐の判断を間違っていないと伝えていた。

 間違ってはいない間違いが、医療には隠されているのだ。


「服薬はきちんと確認していた。飲み間違いまで止めるのは医者には不可能だ」

「そうだよねー。それは分かるよ。でも、検査値を見れば、そうじゃないのも一発でしょ?」


 矢作の答えは四角四面。確かに、飲み間違いを止めるのは医者には難しいところだろう。

 まるでコバエを払うように、楓に向かい手の甲を振る矢作の仕草を、楓は少しだけ目を細めて見つめた。

 矢作隆は優秀な医者だ。外科として必要な手の器用さ、ちょっとした異変に気付く勘の良さを持っている。

 だからこそ、この見逃しが腑に落ちなかったし、何よりわざわざ楓のいない時に持ってきた。直接連絡があるのが常なのに。 


「少しの伸びだ」


 頑なに言い張る矢作に、楓は足を止めた。

 矢作は止まらない。まるで何かから逃げるような背中に、楓は、はぁと大きく息を吐く。


「……大体にしてさ、医者が飲み間違うわけ無いでしょ」


 楓の言葉に矢作が足を止め、大きく振り返った。

 その顔には図星と書いてある。

 分かりやすい男だ。

 楓は肩を竦めた。


「なに?」

「あれ、あなたのお父さんでしょ?」

「……」


 沈黙は肯定だ。

 人は認められないとき、沈黙を選ぶ。

 いくら苗字が変わっていても、カルテという個人情報の塊には関係が示される。

 きちんと作られた標本、間違いのない検査結果、そこに個人情報まで加われば、ある程度のことは推測できてしまう。


「介護してたんでしょ? 脳梗塞の後遺症じゃ仕方ないもんね」


 矢作から父親の話を聞いたことはない。女手一つで育てられたと聞いていたから、まさかという想いが強かったのだろう。

 大方、離婚したか、不倫か。どっちかは分からないが、病院から連絡が来る程度の繋がりはあったらしい。

 矢作は先ほどの楓と同じように、一度肩を落とし、大きく息を吐いた。


「どこから知ったか、頼られてしまえば……断るわけにはいかないだろう?」

「そうだね。あなたはそういう人だろうね。だから、さらに不思議だったわけ」


 外科に向いている人間は、基本的に情に厚い。面倒見が良いし、人のつながりを大切にする。

 総じていえば、体育会系の人間の集まりだ。

 頼られれば断るわけにはいかない。

 だから、矢作が父親の介護をしているのに不思議はない。

 不思議なのは、その父親の死をわざわざ楓を避けて祐に見せたことだった。

 楓は矢作の前に回り込む。


「血が止まりづらくなれば、ちょっとしたことが致命傷に繋がる」

「何が言いたい」

「凝固が伸びてる人が日常的に出血するようなことがあれば、いずれは致命傷になるって確率論」


 とん、と指で胸を突く。

 矢作の表情は変わらない。


「大体、アザだって面積によれば死ぬんだからさ」


 人は思ったより簡単に死ぬ。

 その原因が掴めてなくても、ちょっとした手違いが命取りになるのが医療なのだ。

 そして、いくら医療が進んだ今であっても、助けられない命というものは確実に存在する。

 矢作は楓を見る。暗がりが瞳の中に広がっていた。瞳孔が散大している。興奮状態。


「……俺がわざと、そうしたと?」

「そうは言ってないでしょ。凝固の伸びなんて、見逃してる医者も多いんだから」


 わざと伸ばす医者もいる。

 その患者が転んで血が止まらなくても、別に罪に問われることはない。

 なぜなら、検査値的には問題ない値なのだから。

 楓もそんな些細なことに口を出す気はなかった。


「医療に正解はない。けど、医学には明確な答えがある」


 そして、医学の正解が、医療の成果になるとは限らない。

 だから、楓は医者という職業が嫌いだった。

 矢作は髪の毛に指を入れる。少しだけ乱れた毛先が立ち上がった。


「学生のころから言ってたな。だから、病理なんて選んだんだっけ?」

「見分けがつかないものは苦手なの」

「お前にぴったりだよ」

「どうも」


 同級生としての軽口に、楓はうすら笑いを返した。

 集団でいると個人での判断は薄くなる。それが嫌だった。


「もし、そうだとして、藤川はどうしたいんだ?」

「何も。別に、誰が、何の理由で死のうが、あたしには関係ないもん」

「そうか」


 矢作がわざとそうしたのか、なんでそうしたのか。

 楓はそこに興味はない。

 ただ、一つだけ言いたいことがあって、こうやって矢作を訪ねてきたのだ。

 楓は矢作のくたびれた白衣の襟元を掴んで引き寄せた。


「だから、わざわざ祐にあんなの見させないで。今度からは、あたしに直接持ってきてね」


 小声で伝える。

 矢作は楓を見ることもせず、顔を背けていただけだった。


「ああ、わかったよ」

「それだけ。じゃ、またね。矢作先生」


 返事が貰えればそれでよい。

 楓はぱっと白衣から手を離すと、にっこり笑って足早に廊下を戻っていく。

 残された矢作は楓の後姿が見えなくなったのを確認してから、掴まれた白衣の部分を握りしめる。


「悪魔の取引ほど、甘いんだよな」


 藤川楓。

 学年で一番優秀で、一番倫理観に欠けた女。

 素直に楓に最初から持っていけばよかったと、矢作は苦笑いを浮かべた。

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