不眠の先輩と新人のわたし
藤之恵
第1話 先輩とわたしと不思議な標本
病院は独特の匂いがする。
その中でも、病理診断科は染色液の影響で、まるで資料館のようなにおいが混じっていた。
つまり、とても特殊。
わたし――鳴海祐はまだこの部屋の匂いに慣れない。
働き始めて日が浅いのも影響してるし、もうひとつ別な理由もあった。
「先輩、わたし、そろそろ専門医試験なんです。勉強しないと、ヤバいんです」
ソファの上に座って、机に置かれた過去問集とパソコンと睨めっこする。
なんでソファかと言うと、自分の机は先輩が置かれた資料と、よくわからないお土産で満たされているからだ。
それを引き起こしてくれた先輩は、なぜかわたしの腰に巻き付いている。
「えぇ? そんなの、日常的にちゃんとやってれば大丈夫でしょ。標本も見慣れてるだろうし」
抗議するように言えば、そんな声が返ってきた。
先輩は甘いにおいがする。
先輩は、なんでかわたしを抱きしめてしか寝れないらしい。
先輩の睡眠の代わりに、わたしの睡眠時間が削られているのに。
「そう言えるのは、先輩が奨励賞を取るほど優秀だからですよっ」
奨励賞は専門医試験を受けた中で一番優秀な人がもらえるものだ。
年に一人だけ。この病院からは何年も出ていない。
それを取ったのが先輩なのだ。
「えぇ~……あたしの睡眠時間が削られるの、困るんだけど」
「大体にして、一人で寝れますよね? ちゃんと家に帰って、寝ればいいんですよ!」
「こうやって勉強を見てあげてる先輩に対して、なんて口を……あたしは悲しいよ」
そう言いながら、わたしをソファに祐を引きずり込もうとする先輩。
藤川楓という先輩は優秀だけど、変わり者として有名だった。
少し染めてある髪の毛は医者の中ではかなり目立つ。その上、ふわふわしていて、結っていても目立つほど。
一目で医者だとわかる人間はほぼいないだろう。
そんな人が、なぜかわたしの腰に絡みついているわけで。
「せ、ん、ぱ、いー! 真面目に、落ちちゃいます」
「む~……ほんとに寝ないの?」
「寝ません」
唇を尖らせる先輩の顔は見ない。
目があうと断りにくい殻だ。
断固として拒否するためにも、必要なことと自分に言い聞かせる。
どうにか抵抗していると、やっと諦めたのか、先輩はのっそりと体を起こし、過去問をのぞき込む。
「こんなの、できてるでしょー」
「先輩の元で働いていて、下手な成績取れないんですよ!」
「えー、試験なんて、受かれば何位でも一緒でしょうに」
「首席の人に一番言われたくない台詞ですね……っ」
指を滑らせて、するすると読み込んでいく。
先輩だったら迷わない問題でも、わたしには慣れない部分は多いのだ。
だけど、この先輩の指導のおかげで、大体がわかるのも事実で。それも少し悔しい。
と、この間見た標本を思い出した。
「そういえば、この間、変な標本があったんですよね」
「変な標本?」
「はい、脳出血の患者さんで、検死のスライドだったんですけど」
病理診断科は、外科的に摘出されたものの診断以外に、検死も手伝うことがある。
この間、わたしが当番の時に回ってきた標本が妙に印象に残っていた。
先輩がきょとんとした顔で首を傾げる。
「不審なとこでもあったの?」
「いや、検査値と標本も適切で、問題になるようなものはなかったんですけど……一応、先輩に確認してもらおうと思って。確か、ここら辺に」
席を立つ。
腰に回っていた先輩の手から、やっと解放された。
机の上に置いておいた標本と患者情報を手に取る。
「あ、これです。検査値がちょっとだけおかしくて。まぁ、新薬ができてから抗凝固剤飲んでる人は多いので」
「へぇ。APTTもINRも伸びてるね。心疾患があるなら、変な話でもないしねぇ」
「二種類しか飲んでなかったんですけどね」
死亡原因は脳出血。引き起こした要因としては、凝固系の伸び。
本来なら止まるはずの血が、止まりにくくなっていて、その結果、脳を圧迫した死亡した。
抗凝固薬が出始めてから、稀にあることではある。
先輩は検査結果と標本の写真に目を通す。少しだけ眉間に皴が寄っていた。
「……ふぅん。何歳?」
「まだ、若くて……65くらいでしたね」
先輩に診断結果を見られるのはいつも緊張する。
ミニテストを受けているような気分になるからだ。
とはいえ、この優秀な先輩は頭ごなしに怒ることはなく、むしろ吹雪にさらされているような気分になるのだけれど。
「標本も綺麗に出来てるし、判別も間違いようがないし、検査値とも相違ない……良い判断だったんじゃない」
とん、とん、とん、と先輩の指先が結果を叩いていく。
どうやら合格のようだ。
慌てて作り直さなくて済んで良かった。
わたしは結果を先輩から受け取る。
「そうですかね、ありがとうございます」
「だから、もう寝ようよー」
「まだ、駄目ですって!」
仕事が終わったと判断したのか、書類を戻した瞬間に先輩がじたばたし始める。
わたしはその先輩を片方に押し込めつつ、もう一度過去問に向かい合う。
「医療に正解はないんだから、寝ることも大切」
「せんぱーい」
もっともらしいことを言う先輩とわたしの攻防はしばらく続いた。
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