私の胎は試験管
東妻 蛍
私の胎は試験管
「ドクター、私これがいいわ。これでお願いします」
女はまるでショッピングでもするかのような気軽さで電子パネルに映された一人の男の写真を指さした。画面には男の全裸の写真の他、年齢や出身地、血液型、詳細な経歴や表彰歴などが表示されている。女からドクターと呼ばれた男は画面を一瞥するとニタリと下卑た笑みを浮かべた。
「さすが。お目が高い。この商品はコストパフォーマンスが抜群ですよ。最大の特徴は交配結果にほとんど検体の身体的特徴が遺伝しないことです。真利亜様そっくりのお子さんがきっとできますよ」
「それは素敵ね」
真利亜は目を細めて恍惚な表情を浮かべ、そして手に持っていた試験管をそっと撫でた。
「夫にはおおむね満足しているのだけれど、理想と言えるかと言えば少しだけ、ね」
「そういう方もいらっしゃいますよ。男性原因の不妊だとかがやはり多いですけどね」
「あら、それは大変ね。そんな現実、私だったら耐えられないわ……」
「それで。体外受精や代理母ではなく……?」
「はい。こちらでおねがいします」
真利亜はドクターへ試験管を差し出す。そしてうっとりとした表情で自分とまだ見ぬ子供の姿を思い浮かべた。
「ああ。性別も操作できますよね。女の子がいいのだけれど」
「ええ、できますよ。真利亜様そっくりのお嬢さんが生まれるように精いっぱい努力させていただきます」
「あら、だめよ」
「え?」
真利亜はすっと表情を消すと大真面目な表情で口を開く。
「努力なんかじゃダメ。私そっくりな娘じゃないと何の意味もないわ」
「は、はい。承知しました」
ドクターの返事に満足したようで、真利亜は薄く笑みを浮かべると席を立った。そして「よろしくお願いしますね」と言って部屋から出ていく。ドクターは額に滲んだ冷や汗を拭い、助手に空の試験官と真利亜から採取した卵子が入った試験管を手渡した。
一方、真利亜は満足げな表情で迎えの車の後部座席に乗り込んだ。頬は高揚から紅潮しており、まるで恋する乙女のようにも見える。そんな主をルームミラーで一瞥し、運転手である高田は車を発進させた。運転手も真利亜も何も言わない。しかし真利亜の興奮とは裏腹に、運転手は内心で真利亜の夢想癖に呆れかえっていた。
安藤真利亜はまるで少女漫画の世界で生きているような女である。大手製薬会社の社長令嬢であった母と大病院の院長の父との間に生まれた真利亜は何不自由なく二十六歳まで成長した。幼少期の真利亜は年相応の子供たちと同じく童話や少女漫画に夢中になった。しかし他の大多数の子供たちと違って、真利亜は文字通り「自分の理想の物語の主人公になりたい」という願いというには少し歪な欲を持ったまま成長した子供だった。そして真利亜の両親は真利亜の願いを叶えるには十分なほどの権力を持っていた。
まず、真利亜は自分の望み通り名門である聖徳女学院の幼稚舎に入学した。聖徳女学院を選んだ理由は両親から「お姫様になるような子はみんなそこに通う」と言われたからである。そして聖徳女学院では大学卒業まで通うことになる。その間、ほとんど真利亜の物語における障害は発生しなかった。唯一想定外のことが起きたと言えば、高等部で行われたミス聖徳の選抜審査だっただろう。
ミス聖徳とは聖徳女学院高等部の生徒の中で最も優秀な生徒が各学年から一人ずつ選ばれるというコンテストである。選ばれたからと言って特に何かが変わるわけでもない称号である。しかし娯楽に飢えた女子高生たちは誰が選ばれるだとか何が審査に影響するだとかを話題にして楽しむのだ。
だが真利亜は違った。真利亜にとって「ミス聖徳」という称号は物語のヒロインである自分にこそふさわしい称号であり、欠かせないエッセンスであると直感的に確信した。
「私、絶対にミス聖徳になりたい」
そう宣言した真利亜に周囲は笑みを浮かべて「真利亜なら絶対になれるよ」と言った。真利亜は器量もよく成績も優秀、運動能力も悪くはなく芸術分野でもこれといって欠点はない。出自も学内有数の名家の子であり、周囲から見てもミス聖徳に選ばれて不思議がない生徒だったからである。
本人の宣言と周囲の言葉通り、一年生の時は何の困難もなく真利亜はミス聖徳に選ばれた。しかし二年生と三年生の時は少し状況が変わってしまう。マスコミにミス聖徳の存在が明かされて、学外からの注目が大きくなってしまったのだ。特に「ミス聖徳に選ばれた生徒に芸能界が注目している」という噂が広まったのが決定打となって、ミス聖徳に選ばれたいという生徒が急増してしまった。それでも真利亜の地位は揺るがないと思われたが、真利亜は少しばかり不安になった。
「真利亜ちゃんって芸能界には興味ないんでしょ?」
「……ええ。私は、まあ」
アイドルや女優になるというのも魅力的ではあったが、真利亜にとっての理想のヒロインとは少し違った。だからそう答えたのだが、真利亜にそう尋ねた学友は目の色を変えると身を乗り出して真利亜を睨みつけた。
「なら、手を引いてよ。私は絶対に芸能人になりたいの」
二年生の時も三年生の時もそう言った生徒が何人も真利亜の前に現れた。しかし真利亜はその程度で怯むような女ではなかった。むしろ真利亜は興奮すら覚えた。真利亜にとって彼女たちは「真利亜が主人公の物語におけるライバルキャラ」でしかなかったからである。
結局「ライバルキャラ」の彼女たちはミス聖徳に選ばれることはなかった。審査前に偶然男子教師に襲われたり、親がリストラされたりして学院に通い続けられなくなったからだ。そして真利亜は数多の犠牲の上に冠を戴いてにっこりと微笑んだのだった。
しかし真利亜の物語において「ラブストーリー」だけはどうしても達成することはできなかった。両親の強い意向により、大学生の時にお見合いをさせられたからである。お見合い相手は大手医療機器メーカーの社長令息である安藤義男であった。義男は国内最高学府の出身であり、容姿も真利亜の目に適う程度には整っていた。しかし真利亜にとっては少しばかり不満も残った。恋愛という要素を楽しめなかったからだ。そして義男の背が真利亜の理想よりも低かったのも拍車をかけた。しかしどれだけ不満を述べても両親は今回ばかりは折れてくれず、真利亜は義男と結婚することになった。真利亜にとってこれが初めての挫折だったのは言うまでもない。そしてここから真利亜の理想の物語はどんどんと崩れていくことになる。
真利亜は周囲から望まれるがままに義男との子供を身ごもることになる。この妊娠生活が全くうまくいかなかった。悪阻はひどいし、理想としていた体形は崩れる。早く終わりが来てほしい。そう思っていたところ、赤子は五か月目に流れてしまった。これで苦しみがひと段落した。そう安堵した真利亜に向かって、義男は「早くまた子供を作らないとな」とだけ言ってのけた。この言葉は真利亜にとって決して許せるものではなかった。夫は自分のことしか考えていない。私の苦しみも何もかも全然分かっていない。この男との子供は、私の理想の子供になんてなるわけがない!
真利亜は大声を上げて病室から義男を追い出すとベッドサイドのスマートフォンを掴んだ。真利亜は義男との子供は絶対に孕みたくないが、どうしても子供は欲しかった。子供は両親からも望まれていたし、真利亜の理想の物語にも必要不可欠な要素だった。色々な文字を打ち込んで検索した結果、ついに真利亜は「遺伝子バンク」に行きついたのだった。そして同時に「試験管ベビー」という存在も知ることになる。
車窓を流れる景色を見ながら真利亜は優しく微笑んだ。大丈夫。全部うまくいく。だってこの世界は物語の主人公である私のために回っているんだから。
「……この出金はなんのためのものだ?」
「あら、その口座は私のものよ。あなた、なんでわざわざ出金記録なんて調べたの」
義男がこうして時々する粗探しのような詮索癖も真利亜の悩みの種だった。苛立ちながら答えると義男は目を見開いて机を思いっきり叩いた。真利亜は甘やかされて生きてきた女である。突然の暴力的な動きに対応できず固まった真利亜の胸倉を義男は容赦なく掴み上げた。
「こんな大金が動けば銀行からも連絡が来るんだよ。で、あんな怪しげな研究所で一体何を頼んできたって言うんだ!」
真利亜はカタカタと震えながら自分の世話係である高田に縋るような目を向けた。しかし高田は目の前の暴挙を見ても微動だにせずただまっすぐ前を見据えている。室内には自分を助けてくれるものはいないらしいと気が付いた真利亜は助けを呼ぼうと大声を出した。しかし誰も駆けつけてくるものはいなかった。
「何をしている。この屋敷は安藤家のものだぞ」
「……え?」
「つまりみんな俺の方につくということだ。お前が何をしに行って何に大金を払ったのかなんて高田から報告を受けている。お前は一体何を馬鹿なことをしているんだ!」
義男は怒りに任せて真利亜の体を乱暴に床にたたきつけた。そして痛みと驚きで呆然とする真利亜を放置したままどこかへ電話をかけ始める。真利亜は高田に引きずられるようにして自室まで運ばれ、そしてそこに閉じ込められた。
真利亜が時間の経過も分からなくなった頃、真利亜の部屋のドアが開いた。真利亜がゆっくりと顔を上げるとそこには義男が冷たい目をして立っていた。
「お前の両親、死んだよ」
「……え?」
義男の言葉の意味が分からずに、真利亜は目を見開いた。しかしそれには目もくれず、義男は淡々と言葉を続ける。
「うちが契約を切ったらすぐに事業が回らなくなって首括ったよ。お前が両親にやってもらってきた悪行もそのうち表に出る」
「な、なにを言って」
「そして、お前はもう安藤家には必要のない人間になった。廃業した家の娘なんてうちにメリットもない。お前はまともに家のこともできないし子供も満足に生めない。そんなお前に価値はない」
それだけ言うと義男は高田に何かを指示した。その光景を真利亜は呆然と見つめることしかできない。もう実家がないとか両親がいないとか、この男は一体何を言っているのか。しかし真利亜が全てを理解するような時間は与えてもらえずに、着の身着のままの姿で真利亜は屋敷から追い出されてしまった。
真利亜がふらつく足でたどり着いた父の経営していた病院は封鎖されており、「差し押さえ」の札があちこちに貼られていた。そしてスプレーのようなもので「ざまあみろ」と書かれているのも見えた。真利亜はまだ夢を見ているような心地のままコテンと首を傾げる。どうして私が主人公なはずなのに、こんな目に遭わなければいけないのか。
そして真利亜はハタと気が付いた。そうか、最近の流行の物語は聖女が追放されたりとかだったような気がする。だから私の物語も流行に合わせなければ。これからきっと王子様が現れて、私のことを助けてくれるんだ。それとも私が自分の能力で成り上がって義男たちに復讐するのか。早く私の物語を修正しないと。そう決心して真利亜はふらふらと歩き出した。目的地は例の遺伝子研究所である。とりあえず私の物語には必要な要素である子供だけは取り戻さないと。必死の思いでたどり着いた研究所は明らかに様子がおかしかった。
「……あれ?」
人の気配が全くしない研究所を見つめて真利亜は呆然と立ち尽くす。なんとか封鎖されたゲートをよじ登って研究所の建物に侵入した真利亜が見たものは空っぽになった棚と破壊され切った機械類。真利亜の子宮として真利亜の娘を育てているはずだった試験管はどこにもない。ついに真利亜は大きな声を上げて泣き始めた。
真利亜が道端で拾った新聞によると、遺伝子研究所は非人道的な研究をしているとして摘発されたらしい。その際押収した証拠品の保管状態が悪く、培養されていた細胞や胚は全てダメになったということまで書かれていたが、真利亜は全文を読むことはなく、ふらふらと街へ消えていった。
もうすっかり世間が一つの大病院と製薬メーカーが倒産したことや遺伝子研究所のことなどを忘れてしまった頃。真利亜は一人明るい表情でゴミ捨て場を見つめていた。そこに捨てられていた真新しいベビーカーを持ち上げ、そして何もないシートに向かって明るい笑みを向ける。
「ここにいたのね。私の可愛いお姫様。さあ、おうちに帰りましょうね」
真利亜は虚ろな目をしたまま、時折ベビーカーに声をかけつつ道を歩く。そしてゴミとビニールシートで作った家とも言えない何かに、真利亜は透明なものを抱き上げて入っていった。時折そのビニールシートハウスからは赤子の鳴き声が聞こえるという噂も立ったが、それは果たして現か幻か。
私の胎は試験管 東妻 蛍 @mattarization
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