二度と男を信用しないと決意した美女に俺は惚れてしまった
春風秋雄
これが八重の桜か
見事な桜だ。俺は夢中でシャッターを切る。今年の桜は鶴ケ城にして正解だった。鶴ケ城は会津若松城の別名だ。地元では鶴ケ城と呼ばれることが多いとのことだ。俺は毎年この時季になると、桜の名所を訪ねて桜の写真を撮っている。もともとNHKの大河ドラマ「八重の桜」を見て以来、鶴ケ城には来てみたいと思っていた。しかし、なかなか来られなかった。そして大河ドラマから10年も経つと、その気持ちも薄れかけていた。ところが2ヶ月ほど前に、ある雑誌に鶴ケ城の桜の写真が掲載されているのを見て、今年の桜の写真は鶴ケ城にしようと早々に決めたのだった。
様々な角度から写真を撮ろうと、公園内を歩き回っていたら、一人の女性がこちらを見ているのに気づいた。綺麗な女性だが、どこか悲しそうな暗い顔をしている。本格的なカメラを持って撮影しているので、俺のことをプロのカメラマンだと思って興味を引いたのかもしれない。しばらく俺を見ていた女性が近寄ってきた。
「失礼ですけど、プロのカメラマンの方ですか?」
「いや、プロではないです。若い頃はプロを目指していましたが、才能がないのでプロはあきらめて、今は趣味程度に撮影をして、それをネットに掲載してお小遣い程度を稼いでいる、しがない写真家です」
「お願いがあるのですけど」
「なんでしょうか?」
「私の写真を撮ってもらえませんか?」
「今ですか?」
「はい」
綺麗な女性なので写真を撮ってみたいとは思うが、あまりにも暗い顔をしているので、今の姿を撮るのは躊躇われた。
「今のあなたは体調が優れないようですので、今日はやめておきましょう」
「違うんです。今の私を撮ってほしいのです」
「でも・・・」
「徳川家康の“しかみ像”をご存知ですか?」
「家康が三方ケ原の戦いで敗れて、自分の慢心を戒めるために描かせたという絵ですよね?」
「そうです。私も、今の自分を忘れないために写真を残しておきたいのです」
何があったのかは知らないが、この顔を見る限り相当なことがあったのだろう。“しかみ像”という言葉に興味を覚え、俺はその女性にカメラを向けてシャッターを切り出した。
俺の名前は魚谷克夫。36歳の独身だ。学生時代からカメラが好きで、本気でプロのカメラマンを目指していた。大学を卒業してからは就職もせず、アルバイトで食いつなぎながらプロへの道を模索していた。様々なフォトコンテストや写真展にも応募したが、注目を浴びることはなかった。28歳のときに、自分の才能に見切りをつけて定職につく決心をした。しかし、その年での就職は難しかった。写真以外にやりたい仕事もなかったし、そんな気持ちが面接官にも伝わったのかもしれない。そんなときに声をかけてくれたのが大学時代の友人の大野健史だった。大野はホームページ製作などのWEBデザインの会社を経営しており、仕事を手伝ってくれと言われた。ホームページに使う写真を撮る仕事だと期待したのだが、たまにお店の宣伝のための店内風景を撮る程度で、必要な写真のほとんどはネットで売られているものを使用するということだった。わざわざ写真を撮りに行く手間と経費を考えれば明らかに効率的だ。そこで俺は思った。俺が撮った写真もこうやってネットで販売すれば多少はお金になるかもしれない。俺は撮りためていた写真をネットで販売することにした。すると食べていけるほどではないが、毎月お小遣い程度のお金が入るようになった。自己満足と言われればそれまでだが、少しだけ報われたような気がした。それから俺は休みの日を利用して各地へ写真を撮りに行くようになった。春には桜の名所へ行き、秋には紅葉が綺麗なところへ行く。ただ、ネットで写真を購入する人のほとんどは商用で利用するので、肖像権などの問題が発生するため人物が写っている写真は売れない。それに社名が入った看板などもそぐわないことがわかった。必然的に風景写真がほとんどになった。そうやって風景写真を撮り始めて、もう8年近くになる。最初の頃は全国的に有名な場所から行くので、どうしても桜の名所としてはマイナーな場所は後回しになり、ようやく会津に来られたというわけだ。
女性の写真を10枚ほど撮って、その女性に話しかけた。
「じゃあ、この写真は東京へ帰ってからプリントして送ります。送り先を教えてくれますか?」
「東京から来られていたのですか?」
「そうです」
「てっきり地元の方だと思っていました」
「福島県は仕事で郡山市に一度来たことがあるだけで、会津若松市は初めて来ました」
「そうだったのですか。それで、写真代はおいくらでしょうか?」
女性はそういって財布を取り出した。俺は趣味に毛の生えた写真なので必要ないと謝礼を固辞したが女性は聞き入れなかった。
「じゃあ、代わりに“わっぱめし”の美味しい店を教えてもらえますか?」
「“わっぱめし”ですか・・・」
女性はしばらく考えてから時計を見た。11時半を回ったところだ。
「じゃあ、一緒に行きましょうか。写真のお礼に“わっぱめし”をご馳走させてください」
そう言って公園出口へ向かおうとする。俺もそれについていこうとしたとき、ふと思って「ちょっとすみません」と声をかけた。すると女性は立ち止まりこちらを振り向いた。その瞬間にシャッターを切る。やはりそうだ。俺がカメラを構えているのを見て表情が変わったが、しかめ像の写真を撮って、俺と話したことで少し気持ちが落ちついたのだろう。振り向いたその一瞬、先ほどと違って良い顔をしていた。そしてその顔は、とても美しかった。
“わっぱめし”を注文して待っている間に、写真の送付先を女性に書いてもらった。女性の名前は棚橋朱莉(たなはし あかり)と書いてあった。俺も改めて自己紹介をした。様々な地をめぐり写真を撮っていることなどを話し、名刺を渡しておいた。
「こんなこと聞くのはどうかとは思うのですが、しかみ像を残しておこうと思ったのはどうしてですか?」
棚橋さんは口を閉ざした。言いたくないのだろう。気にはなるが無理やり聞くことではないので、俺もそれ以上は追及しないことにした。
“わっぱめし”が運ばれてきた。美味しそうだ。
「じゃあ、ご馳走になります」
俺はそう言って箸をつける。美味しい。
二口目を口に放り込んだところで、棚橋さんが話し出した。
「また男に騙されたのです」
騙された?結婚詐欺にでもあったのか?
「私は真剣に結婚を考えていたんです。ところが、あいつ、結婚していたのです」
「それを知らずに付き合ったのですか?」
「全然知りませんでした。と言っても、独身だと思い込んでいたから聞こうともしなかったのですが」
「付き合って長かったのですか?」
「2年くらい付き合いました」
「どうやって知り合ったのですか?」
「仕事の関係で参加したセミナーです。向こうから声をかけてきて、意気投合して一緒に食事へ行ったのです。それから月に何回か一緒に食事をするようになって、3ヶ月くらいした頃に男女の関係になってしまいました」
「どうして独身だと思ったのですか?」
「初めて会ったとき、私は26歳だったのですが、相手は私より2歳年下で、まだ24歳だったのです。社会人2年目と言っていたので、まさか結婚しているとは思いませんでした」
「今の話を聞いている限り、独身だと勘違いしただけで、騙されたというわけではなさそうですけど」
「付き合っている間に、何度か結婚について聞いてみたのです。するとその男は、先のことはちゃんと考えているからと答えていたのです」
「なるほど。そりゃあ勘違いしますね。どういうつもりで言っていたのでしょう?」
「既婚者だとわかって、私もそのことを問いただしたのです。どういうつもりであんなことを言ったのかと。すると、時期がきたら、朱莉の結婚相手にふさわしい男を紹介しようと考えていたと言いました」
「最低ですね」
「本当、最低の男です」
「それで、しかみ像を残そうと思ったのは、もうそんな男には捕まらないようにという戒めですか?」
「いいえ、このことを教訓に、もう男は絶対に信用しないと決めたのです。何を言われても絶対に嘘だと思うことにしたのです。その決意を忘れないようにするためです」
「それは極端な決意ですね」
「男に騙されたのは2回目なんです」
「そういえば“また騙された”と言っていましたね」
「その前に付き合っていた男も、結婚の約束をしていたのに急に私の前から消えました。マンションも引っ越して携帯も番号を変えてしまって。仕事もやめていました。そんなことがあった1年後にさっき話した男に出会ったのです」
なるほど、男性不信に陥っても不思議ではない経験をしている。
「だから思ったのです。男を信用してはダメだと。最初から男の言うことを信用しなければ傷つくこともないんだって」
世の中の男性が皆信用できないわけではない。たまたまそういう男に続けて出会ってしまっただけだ。それなのに本当にそれで良いのだろうかと思うが、今日会ったばかりの人にあれこれ言うのもどうかと思い、俺は何も言わなかった。
東京に戻って、棚橋さんの写真をプリントアウトしていると、横から大野が覗いてきた。
「会津若松で撮った写真か?綺麗な人だな」
「偶然出会って、写真を撮ってくれと頼まれたんだ」
「でも何か暗い顔をしてないか?」
「そうなんだ。色々あって、今の自分を忘れないために“しかめ像”を残しておきたかったと言うんだ」
最後に撮った振り向いた姿の写真を見て大野が言った。
「お!この写真はいいな。こうやって見ると、本当に綺麗な人だな。魚谷、この人に惚れたんじゃないのか?」
「短い時間会っていただけだから」
大野は何も言わずニヤニヤしながら自分のデスクに戻った。俺は最後に撮った写真をもう一度眺めた。東京に住んでいる人だったら惚れていたかもしれないなと思った。
棚橋さんに写真を送付した翌々日、棚橋さんから電話があった。名刺しか渡していないので、かかってきたのは仕事場の電話だった。
「どうもありがとうございました。さすがにプロを目指されていただけあって、どれも良く撮れていますね。特に最後に撮ってもらった写真、驚きました。魚谷さんに撮ってもらうと、私なんかでも、こんなに綺麗に見えるんだって」
「いや、棚橋さんは写真なんかより、実物の方がずっと綺麗ですよ」
もう会うこともない人だと思うと、こんなことも言えるのかと、自分で驚いた。しかし、男の言うことはもう信用しないと言っていたので、この言葉も社交辞令としか受け取らないかもしれない。
「お礼に会津名物を送っておきましたので、ご笑納ください」
棚橋さんはそう言って電話を切った。
会津名物?なんだろう?お酒かな?
後日送られてきたのは、会津名物の“あかべこ”だった。確かに笑って納めるしかない。健康・幸運・魔除のお守りとして、俺はデスクの上に置くことにした。
日々の仕事に追われ、月日は流れていくが、デスクの上の“あかべこ”を見るたびに棚橋さんを思い出す。大野がいない時には、引き出しを開け、そっと写真を取り出す。こうやって写真を眺めているだけで満足しなければいけない。東京と会津では付き合うのは難しい。それより何より、棚橋さんは“しかみ像”の写真を撮って、もう男の言うことは信用しないと決意している。会津と東京で離れていては、俺が何を言っても信用されないだろう。
9月に入ったというのに、真夏のような暑さが続く。外回りから事務所に帰ると、大野が棚橋さんという方から電話があったと、相手の電話番号のメモを渡してくれた。棚橋さんには名刺しか渡してないので、俺に連絡したいときは会社に電話するしかない。俺は一瞬迷ったが、携帯から電話をかけた。
「ご無沙汰しております。魚谷です」
「ああ良かった。知らない番号からかかってきたから出ようかどうしようか迷ったの。ひょっとしたら魚谷さんかなと思って出て正解だった」
「そうですね。携帯の番号は伝えてなかったですものね。それで、どうしました?」
「魚谷さんは、お祭りの写真とかも撮られるのですか?」
「お祭りの写真は今まで撮ったことないですけど、そうですね、これからはお祭りの写真もいいかもしれませんね」
「だったら、今月の会津祭り、来ませんか?あの大河ドラマの女優さんも特別ゲストで来るのですよ」
「あの女優さんが来るんですか?」
「ええ、会津藩公行列(あいづはんこう ぎょうれつ)にドラマの時の衣装で参加するんですよ」
「行きます!いつあるんですか?」
会津若松に来るのは半年ぶりだ。駅の改札を出ると棚橋さんが待っていてくれた。
「ご無沙汰しています。また会えるとは思っていませんでした」
「遠いところをようこそ」
駅を出ると曇り空だった。
「あまり天気は良くないですね」
「明日が会津藩公行列ですので、雨が降らなければいいのですけど」
先にホテルにチェックインをして、カメラだけ持って夕食に出かける。
せっかくなので郷土料理が食べたいと棚橋さんにいうと、様々な郷土料理を食べられる店に連れて行ってくれた。
鯉のあらい、馬刺し、ニシンの山椒漬け、どれも美味しい。棚橋さんは郷土料理以外の揚げ物や焼き鳥などを注文して食べている。
「郷土料理は嫌いなのですか?」
「嫌いじゃないけど、私はこっちの方が好きです」
料理が美味しく、お酒が進む。最後に棚橋さんのお勧めで“こづゆ”を食べた。郷土料理には欠かせないものらしい。
「ホテルは明日の朝出られるときにチェックアウトなさるのですよね?」
「ええ、そのつもりです」
「じゃあ、お荷物は私の部屋で預かりましょうか?」
「棚橋さんは実家住まいではないのですか?」
いきなり男性の荷物を預かったら親御さんが驚くのではないかと心配した。
「私の実家は喜多方市なんです。高校を卒業して就職でこっちに出てきました。ですからマンション住まいなんです」
棚橋さんは朝8時半にホテルに迎えに来てくれることになった。
翌日はあいにくの小雨日和だった。ホテルを出ると棚橋さんはすでにホテルの前に車をつけて待っていてくれた。
「あいにくの雨ですね」
「ええ、でも会津藩公行列は行われるそうです」
荷物を後部座席に置いて、助手席に乗り込む。
「棚橋さんのマンションはここから近いのですか?」
「鶴ヶ城のそばなんです」
10分もしないうちに棚橋さんのマンションに着いた。荷物を部屋に置き、車は置いて歩いて会場へ向かう。会津藩公行列は鶴ヶ城本丸で出陣式が行われる。特設ステージには小雨が降る中、大勢の人が集まっていた。しばらく待つと、あの女優が登場した。
「雨が降っているけど、さすけねぇか?」
ドラマの時のように会津弁で挨拶をしてくれた。「さすけねぇか?」とは会津弁で「大丈夫か?問題ないか?」という意味だと棚橋さんが教えてくれた。
行列が始まると俺はカメラを構え様々な角度からシャッターを切った。人物が写るケースでは後ろ姿から撮るようにした。
お祭りは楽しかった。写真もたくさん撮った。
夕食を食べたあと、そろそろ帰らなければならないなと、時計を見る。
「切符はとってあるの?」
棚橋さんが聞いてきた。
「いや、取ってない。県外から来ている人も多いみたいだし、取っておけば良かったかな」
「じゃあ、荷物を取りに行きましょうか」
二人並んで棚橋さんのマンションへ向かう。俺は会津まつりの感想をあれこれ話すが、棚橋さんは曖昧に相槌をうつだけだった。
マンションに着き、部屋にあがり荷物を確認する。
「どうもありがとうございました」
俺はそう言って荷物を持って部屋を出ようとした。すると棚橋さんが俺の腕をつかんだ。
「今日は泊っていきませんか?」
その目は思いつめたような目だった。
「いいのですか?」
「私がそうしたいのです。私だって女として寂しいときはあります。もう男の人は信用しないことにした私ですが、魚谷さんのように東京の方であれば、最初から期待することはありませんから」
「私が地元の人間であればそんな気にならなかったということですか」
「もちろん、魚谷さんが私のタイプでなければそんな気はおきません。それに魚谷さんの人柄もよくわかっているつもりです」
「だったら、そういう関係になったらまた会いたいとか、結婚したいという気持ちになるのではないですか?」
「大丈夫です。私には魚谷さんが撮ってくれた“しかみ像”がありますから」
棚橋さんはそう言ってニコッと笑った。
翌朝、棚橋さんは駅まで送ってくれた。
「また会いに来ます」
俺がそう言うと棚橋さんは苦笑いを浮かべた。
「そういうことは言わないでください。そういう言葉は信用しませんから」
「わかりました。じゃあ、約束はしません。その代わり、もしまた会津に来ることがあったら、会ってくれますか?」
「撮影のためのご案内なら、いつでもさせていただきます」
棚橋さんはそう言ってニコッと笑った。
東京に戻ってから、俺は棚橋さんのことばかりを考えていた。どうやら俺は棚橋さんに惚れてしまったようだ。カレンダーを見ながら、今度はいつ会津へ行こうかと考える日々だった。
会津を再び訪れたのは会津まつりから1か月半ほど経った11月の連休だった。事前に棚橋さんに連絡をしておいたら、駅まで迎えに来てくれた。
「ホテルとってないのですけど、泊めてもらえますか?」
棚橋さんは一瞬困った顔をしたが、それでも
「じゃあ、荷物を置きに私のマンションへ行きましょうか」
と言ってくれた。
部屋にあがるなり、俺は棚橋さんを抱きしめた。棚橋さんは抗わない。そっと口づけると、棚橋さんは俺に体を委ねた。
2泊3日の滞在が終わり、駅に送ってくれた棚橋さんに俺は言った。
「いまから言うことは独り言です」
棚橋さんが「え?」という顔をした。
「12月の第二土曜日に、1泊2日の予定で会津に来ようと思っています」
棚橋さんは何かを考えるように俺をジッと見つめた。
「あくまでも、独り言です」
俺はそう言って改札を通った。
月に1回のペースで会津へ行くようになり、季節はいつの間にか春を迎えようとしている。最近では朱莉さんも俺が来るのを心待ちにしているようには見えるが、相変わらず約束事は一切しない。一度、朱莉さんに東京へ来ないかと言ってみたが、聞き流されてしまった。俺は正真正銘の独身だし、朱莉さんのことを真剣に考えていると訴えたが、聞く耳を持ってもらえなかった。朱莉さんの“しかみ像”への誓いはかなり固いようだ。何か手はないだろうかと、俺はずっと考えていた。
桜の季節になり、今年はどこへ行こうか考えた。候補地はいくつもある。しかし、どうしても昨年行った鶴ヶ城へ行きたくなった。もう一度あの桜の下で朱莉さんの写真を撮りたくなった。今年も鶴ヶ城で桜の写真を撮ると伝えると朱莉さんは驚いていた。毎年違う場所で撮るのではないの?と心配していたが、去年とは違う角度から撮るから大丈夫だよと伝えると、何も言わなかった。
会津若松の駅に着くと、いつものように朱莉さんが迎えに来てくれていた。マンションへ直行し、俺はカバンから書類を取り出した。
「これを見てください」
「一体何?」
「私の戸籍謄本。これを見てもらえば、私が独身で、生まれてから一度も結婚したことがないということがわかる」
朱莉さんは驚いた顔をして書類を開いた。ゆっくりと俺の戸籍謄本を見ている。
「そして、もう一枚、これを渡しておきます」
俺は用意していた書類を朱莉さんに渡した。
「婚姻届けです。私の欄はすでに埋めてあります。証人2名のうち、1名は私の友人で会社の社長である大野健史が署名してくれています。もう1名は朱莉さんの方で誰かに署名してもらえば良いです。ここまでしているのですから、私は朱莉さんを騙すことはありません。その婚姻届けに署名されるかどうかは朱莉さんにお任せします。東京の部屋も少し広い部屋に移りました。いつでも朱莉さんに来てもらえるようになっています。真剣に私との生活を考えてもらえませんか?」
朱莉さんは何も言わずジッと俺の顔を見ていた。
翌日、鶴ヶ城で桜の写真を撮ったあと、朱莉さんが少し離れた場所の湯川沿いの桜並木に連れて行ってくれた。とても綺麗だ。夢中でシャッターを切る。前を歩く朱莉さんの後ろ姿も撮影した。
「朱莉さん、こっちを向いて」
俺がそう呼びかけると、朱莉さんが振り向いた。俺は何回もシャッターを押す。その顔には笑みが浮かんでいる。とても綺麗だ。
東京に戻ってから、俺は朱莉さんに婚姻届けの返事の催促をすることはしなかった。あくまでも朱莉さんの意思に任せることにしていた。
その日は久しぶりにクライアントの店へ行き、店内撮影を行った。何枚か撮影し、その場でパソコンに写真を映し出し、オーナーに確認してもらう。オーナーは俺の写真に満足してくれた。それからオーナーと写真の話で盛り上がり、小一時間世間話をし、良いホームページを期待していると言われて店を出た。
事務所に着く頃にはすっかり日が暮れていた。
事務所のドアを開けると、大野が俺のところへ寄ってきた。
「お客さんが来ているぞ」
「お客さん?」
「応接に通している。もう1時間近く待っているぞ」
俺はパーテーションで区切っただけの応接に顔を出した。
「遅いなあ、大野さんは15分程度で帰ってくるというから、ここで待っていたのに、結局1時間も待ったじゃない」
驚いた。朱莉さんだった。東京に来るなんて一言も言ってなかったのに。
「あ、ごめん。まさか来ているとは思わなかったから」
「それで、これはどこの役所に出せばいいの?」
朱莉さんが差し出した婚姻届けには、朱莉さんの署名がされており、証人欄も埋まっていた。
「朱莉さん・・・」
「男を信用しないことにするなんて、やっぱり私には無理。私は魚谷さんを信じて、生きていきたい。騙されたら騙された時のこと。先のことなんか考えず、今の幸せを考えることにしたの」
「騙されることはないから、安心してください。必ず幸せにしますから」
「魚谷さんが私を幸せにする必要はないです。あなたは何もしなくても、そばにいてくれるだけで、私は幸せですから」
朱莉さんがそう言った途端に、上からフラッシュが光った。上を見ると、パーテーションの上から大野が俺のカメラを構えていた。
「はーい、お二人さん。証拠写真を撮りましたよ。これからは“しかみ像”の写真の代わりに、今の“誓いの写真”を大切にしましょうね」
俺と朱莉さんは顔を見合わせて笑うしかなかった。
二度と男を信用しないと決意した美女に俺は惚れてしまった 春風秋雄 @hk76617661
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