202号室の雨

甲池 幸

第1話 幸せだった。そこに、嘘なんてひとつもない。

 窓の外には雨が降っていた。

 薄暗い部屋の中で男が二人、ダイニングテーブルに向かい合っている。テーブルの上にはマグカップがふたつ。空になったのは随分前のことなのか、ふたつとも飲み干せなかったコーヒーが芸術的なシミになっている。

 ちら、と柔らかな茶髪の男が窓の外に視線を向けた。東向きの窓だ。雨は、まだ降り続いている。

「コーヒー、もう一杯飲む?」

 窓の外を見たまま、茶髪の男は声をあげた。常よりも、少し高い声だった。震えを押し殺そうとして、重苦しい沈黙を少しでも和らげようとして、背伸びをしたのがありありと分かる声だった。

「ほら。まだ、雨、止まないし」

 茶髪の男はへらりと笑って、向かいに座る人を見た。短く切った黒髪のよく似合う、無骨な手の男だ。その両手は今、膝の上で組まれていて茶髪の男からは見えない。

「んや、いいよ」

 俯いて、空になったマグカップを見つめたまま、男が答える。おかわりは、もう三度目だった。昨夜から降り続く雨は、予報通りだとしたら、今夜遅くまで止まない。どうか止んでくれるなと、茶髪の男は祈るように窓に視線を移す。

(雨が、止むまで)

 あと、もう少しだけ。

 まだ、もう少しだけ。

 ギィ、と椅子を引く音がした。いつか、椅子の足につけるカバーを買おうと、二人で散々言っていたのに、結局四年経ってもダイニングの椅子の脚はむき出しのままだ。茶髪の男は窓の方を向いたまま、口元にどうにか笑みを浮かべる。

「雨、止みそうもないから」

 無骨な手の男が告げた。「うん。そうだね」短く答える。ならば、止むまでいればいい。言い訳がましく、コーヒー三杯分も別れを引き延ばしたのだから、そのまま、ずるずると夜明けを待てばいい。心臓が張り裂けるように痛かった。

「傘、持ってく?」

 茶髪の男はようやく窓から視線をそらして、今度はダイニングテーブルの木目を数えた。

「いいよ。俺の、もう送っちゃったあとだし。一階のコンビニで買うから」

「そっか」

「うん」

 無骨な手が、青いマグカップを持ち上げる。歩いて二歩のキッチンから水音がする。沼のような静寂の中で、マンションの屋根を叩く雨音と、食器を洗う音だけが躍るように響く。吐けるような言葉は、もうどこにもなかった。

「じゃあ」

 戻ってきた男は、無骨な手でダイニングテーブルを優しく撫でた。

(あぁ。このひと、本当に出ていくのか)

 四年、二人で住んだ。

 物件を探すのは大変だった。なんせ、こだわりの条件がまるきり違う。あれこれと言い合って、喧嘩をして、一緒にいるために互いに折れた。

『こうやって、生きていこう』

 無骨な手をした男は、似合わない優しい手つきで男の茶色い髪を撫でた。いつもは子供みたいなくせに、こういうとき、どう背伸びをしても届かない、年上の顔をするところが好きで、一番嫌いだった。

『ぶつかって、ぶつかられて。互いの形を、噛み合うように変えていこう。そうやって、俺たちは、二人じゃなくて、ひとつになっていこう』

 幸せな話だと思った。譲るのでも、譲られるのでもなくて、互いに寄り添って生きていく。そういう、話だと思っていた。

 いや、たぶん、きっと、そういう話だった。

 そして、それは、たぶん、随分と上手くいっていた。

 気に食わないときには喧嘩をして、ぶつかって、ぶつかられて、傷ついて、傷つけられて、互いに、自分の形を変えていく。恋をした、あの日から、互いの姿がかけ離れていく。相手のために、自分の、譲れなかった部分が次第に歪んでいく。

 そのことに、先に耐えられなくなったのは、果たしてどちらだったのか。

 喧嘩は次第に減っていった。飲み込む言葉が増えて、引き攣った作り笑いと普通の笑みの見分けがつかなくなったころ、無骨な手で煙草を吸いながら、男が言った。

『終わりにするか、よう

 その言葉を聞いて、ずっと軋んでいた心が確かに緩んだ。緩んだことに、茶髪の男よりも先に、目の前の男が気づいてしまった。

 男は、揺を甘やかすのが世界でいちばん上手かった。

「飯、ちゃんと食えよ」

 男がついに、ダイニングを出ていく。仕方がないから、揺も後を追った。いつも仕事に出かけるときのように、その背は迷いなく、玄関へと向かう。紺色の、見慣れたドア。磁石でつけていた二人の写真は、もうない。顔をあげて、口角を引き上げる。

 せめてもの、強がりだった。

「あんたこそ、徹夜ばっかりだと体壊すよ。もう若くないんだから」

「うるせーよ。年寄扱いすんな」

 無骨な手がいつものように、乱暴に頭を撫でようとして、中途半端な位置で止まる。行き場を失った手は、誤魔化すように頬を掻いた。

「じゃあな」

 笑って、男はドアに向き直った。無骨な手がドアノブをひねる。

「うん。ばいばい」

 いってきます。いってらっしゃい。何度も交わした挨拶はない。ドアがゆっくりと閉まる。ほんの小さな隙間から見えた背中は、振り返ることなく階段を下りていく。閉まったドアの前で、揺は長いこと立ち尽くしていた。

 待っていたら、やっぱりそばに居たいと、彼が戻ってくるような気がしていた。滲んだ涙が靴下に染みを作って、指先が冷え切って、染みが乾ききったあとで、ようやく、揺は部屋に戻った。

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