ぼくは不幸
あたりの壁は白く、床もシーツも清潔だ。絵に描いたような病室の窓から、ぼくは枝から落ちる枯れ葉を眺めている。ひらひらと舞うその動きを、指の先で追う。シワだらけの細い指は、カタカタと小さく震えるだけで、言うことをきかなかった。
不幸が名を思い出すこともなく五十年が過ぎ、ぼくは老人になった。結婚はしなかったけど、あの火事の洋菓子屋の娘と産まれて初めての恋愛をし、彼女と別れてからも何人かと付き合った。友達も出来た。そこそこの昇進をして、定年を迎え、老後の生活も楽しかった。人並みの、しかし、不幸が来てくれるまでは考えられないほどの、幸せな人生だったと思う。
ぼくは、隣に立った不幸を見た。何千、何万とぼくの肩代わりをしたために、彼はカラスに啄まれた腐乱死体のようになっていた。
視線に気づいた不幸が、目玉を失った眼窩をこちらへ向けた。
ぼくは、細くなった喉をしぼる。
「ぼくが死んだら、きみはまた別の人のところへ行くのかな」
「いいや。おれの運命も、ここまでだ」
肉の少なくなった顔で、不幸は笑顔らしきものを作った。その顔は、なるほど恐ろしいかもしれないけれど、ぼくにとっては世界中のだれよりも親しみ深く、大切なものだった。
「ぼくはきみのおかげで幸福だったけど、きみは……」
「おまえと話すことができた五十年は、おれがこうなって以来、最高に楽しかったぜ。あの火事は、いま思い出してもゾクゾクするくらいだ」
不幸が、声を振りしぼって笑った。
ぼくも笑った。でも、どうやっても、くしゃくしゃな泣き顔にしかならなかった。
「もっと喜んでくれよ。おれは、やっと消えられる。やっと、楽になれるんだ」
苦しみ抜いたすえに消えてなくなるだなんて、何のために、どうして、彼はこんな目に合っているのだろう。
ぼくの頬を涙がつたう。
不幸が、さらに声を高くして笑った。
「憐れむなよ。これから、おれは断末魔ってやつを迎える。そりゃあ派手に苦しむだろう」
「そんな……」
「実際、おれに取り憑いてたやつの断末魔はすごかった」
縮んで鈍くなったぼくの脳みそが、混乱した。
「不幸にも、何かが取り憑いてたの?」
「ああ。もっとも、おれはそのときは、ただ運が悪いだけの人間だったがな。おれへ取り憑いたやつは、おれに姿を認められたとき、涙を流して喜んでたよ。そのときは意味がわからなかった。だが、おまえと目が合った瞬間にわかった」
不幸が、辛うじて皮だけで繋がった顎をカタカタと鳴らした。
「おれはおまえが気に入ってるから、ちょっとしたアドバイスをやるよ。なるべく不幸そうなやつに取り憑け。そのほうが、早く消えられる」
「待って! どういうこと!?」
不幸も、生きてたころは不幸に取り憑かれていて、そいつが消えて不幸は不幸になって……
つまり、次の不幸は……
「どうして!? どうしてぼくが!?」
不幸の胴体がよじれて、背骨がボキボキと音をたてる。
「どうしてだって?」
彼の関節という関節が、ポップコーンのように裏返る。押し込まれ、赤く縮こまった肉に、白い神経と黄色い脂肪が巻き込まれ、無数の螺旋を描きだす。
「不幸なやつってのは、とことん不幸なのさ」
バレーボール大に圧縮された肉が、血膿の花火を咲かせて飛び散った。
それがすっかり蒸発してしまったとき、ベッドに横たわったぼくの死体と、新しい不幸の姿が、窓ガラスに映っていた。
ぼくは不幸 湯川八〇五 @yukawa805y
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