不幸との冒険
それからのぼくは変わった。物事を避けたり悲観したりするのではなく、他人のために細々と動くようになった。不幸が身を削って引き受けてくれているものを、無駄にしてはいけない気がした。
今も、事務の女の子が具合を悪そうにしてたので、午後の来客に出す茶菓子を代わりに買いに出たところだ。ビル風は冷たいけれど、心の中にはあたたかいものが灯っていて、晩秋の突き抜けた青空と同じくらい晴れやかだった。
得意先への手土産を買いにぼくも何度か訪れたことがある洋菓子屋なので、道に迷うことはない。あと二つ角を曲がったら到着だ。
そこまで来たところで、異臭に気づいた。
黒い煙が、ビルの向こうに立ちのぼっている。けたたましいサイレンをあげて、消防車がぼくを追い抜いていった。
煙の元へ駆けつける。見慣れた店舗が炎に包まれていた。
「母が、まだ中にいるんです!」
店番の女の子が中へ駆け込もうとするのを、近所の人たちが抑えている。
路地が狭いせいで消防車は立ち往生し、消防士たちが遠くの消火栓から懸命にホースを引っぱっている。消火が始まるのはまだ先だろう。
店へ駆けこもうとした足を、ぼくはハッと止めた。
ぼくは、何をしようとしている?
不幸が来てから、面倒ごとがグッと減って、他人を思いやれるようになった。そのことに舞いあがっているけれど、ぼくは別にハッピーになったわけじゃない。ただ人並みの生活を送る、人並みの男になっただけだ。
拳を握って、うつむいた。
ヒーローになんかなれっこない。火の中になんか、飛びこめっこないんだ。
「行けよ」
ガラガラとした声に顔をあげると、こぼれて濁った不幸の瞳が、真正面からぼくを見ていた。
「おまえは死なない。おれがいるからな」
「でも……」
スマホを忘れたり、コーヒーをかけられそうになっただけでも、不幸の耳は裂け、目は弾けた。命を落とすような大事故を肩代わりなんてしたら……
「いいんだ」
目玉がへしゃげたほうの瞼を、彼は細めた。
「おれにも、たまにはヒーロー気分を味わわせてくれよ」
湿気た干物のような腕で、不幸はぼくの背中をポンと叩いた。
ぼくは駆け出した。消防士の制止も、野次馬の悲鳴も、何もかもを振り切って、炎をあげるビルへ突っ込んだ。
店内は火でいっぱいだった。陳列された焼き菓子も、レジ奥に備えられた紙袋の束も、古い壁のクロスも燃えている。そのどこにも人影はない。
口を覆って、店の奥へ踏み込む。ショーケースが爆発して、赤く熱せられたガラス片が頬の横を飛び過ぎていった。
奥の調理場、消し炭となったオーブンの横で、人らしきものが踊り狂っている。人らしき、というのは、それが火柱となって燃えていて、とても人間とは思えなかったからだ。
おぞましい光景に、ぼくは思わず後じさった。何かが爆ぜる音とともに、ビュッと炎の塊が飛んできた。鼻先をかすめたそれは、壁にへばりつき、焼夷弾さながらに大きく燃えあがった。場に不釣り合いな甘ったるい匂いが漂う。
「バターかマーガリンか……何かの油脂に火が点いたんだ」
背広の上着を脱いで、ぼくは人影に駆けよった。爆発する油脂が、マリオのボスステージみたいに炎の塊を投げてくる。どれもぼくの体すれすれに、けれども決して当たることなく飛び散っては、でたらめに火をばらまいていく。
のたうち、転げまわり始めた店主の、炎に包まれた上半身へ抱きつくようにして、上着で包む。まだ燃えている彼女を抱え、ドアへ走った。
背後で、油脂の爆ぜる音がした。シャツの背中に、ビチャッと嫌な音がした。猛烈な痛みとともに、ぼくもまた燃えはじめた。
売り場は、一面の火の海だった。熱風が、ぼくの薄い前髪を焦がす。皮膚どころか、気管の中まで焼けただれてしまいそうだ。ゴォッと、背後からも火の手がせりあがってくる。
出口への道が、ない。
不幸は、ぼくは死なないと言った。けれど土台、こんなにも大きな災難からは逃れようがないのかもしれなかった。
どうせ死ぬなら、やれるだけ足掻いてやる。炎を突っ切る覚悟で息を止める。その鼻っ面を、やにわに何かが引っぱたいた。燃えて脆くなった壁を突き破って、ホースの水が降り注ぎ始めたのだった。
病院に運ばれたぼくは、店主が何とか一命を取り留めたことを、彼女の娘から聞いた。これから悲惨な治療が待ち受けているであろう彼女に反して、ぼくは背中に軟膏を塗るだけで済んだ。
当然だった。
ぼくは、ベッドから不幸を見る。
彼は、ぼくがあの店から助け出されてからずっと、人語にならない叫びをあげ続けている。全身の肉という肉が、見えないやすりをかけられているかのように、細かく削ぎ落とされているのだ。彼が全身を掻きむしって絶叫するたびに、赤い血肉が霧となって立ちのぼる。
それが収まったあとには、皮と肉をはぎ取られた不幸の姿があった。
「……ごめん」
「なぁに」
ズルズルになった不幸は、剥きだしになった頬骨で笑った。
「こういうのも悪くない」
ところどころちぎれた指で、サムズアップをする。
泣き笑いのぼくも、同じポーズで応えた。
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