おれは不幸
電車を降りる。駅前には、古い住宅がごみごみと建っていて、それらの一階は、土産物屋だったり食堂だったり喫茶店だったりする。昔ながらの鳥居前町という感じだ。
「日祭日は混むんだろうなぁ」
太陽の真下にそびえた大鳥居を眺めがら、ぼくはつぶやいた。
そう、今日は日祭日ではない。このところの定時あがりに加え、なんと、平日に有給まで取れてしまった。そのうえ、改札機に引っかかることも、スマホを落とすことも、眼鏡をなくすこともない。普通の人にとっては普通の、しかしぼくにとっては人生で初めてとも言える、スムーズで穏やかな日々だ。
開放感でいっぱいの体で伸びをすると、腹の虫がぐーと鳴いた。腕時計を確認する。十一時。ラッキーなことに、目の前の喫茶店がちょうどランチの立て看板を出したところだった。
笑顔の店員に会釈をし、店へ入る。窓辺の古テーブルでは、ステンドグラスのランプシェードがツヤツヤと光っている。鉄板に乗った、これまた古風なナポリタンは、絶品とまではいかなくとも、十分に美味しく、量もあった。
食後のホットコーヒーを待ちながら、銀杏並木を行き来する人々を眺める。石畳の歩道は清潔で、まばらな人影はどれも若くはない。空の色も穏やかにくすんで、何もかもが平和に見えた。
テーブルランプに照らされたあいつが、窓ガラスに映り込んでいる以外は。
ガラスの反射ごしに目が合うと、そいつはニタリと笑った。ガチャガチャと生えていたはずの歯が何本か抜け、細めた目のまわりには、皮下組織らしきうねうねとした筋が見え隠れするようになった。初めて会った日から、明らかにグロ度が進行している。
でも、それだけだ。脅かされるでも、うなされるでも、呪い的な何かをかけられるでもない。むしろ……
ぼくの思考をさえぎるように、ガチャ! っと音がした。食べ終わったナポリタンの鉄板の上でカップが割れ、こぼれたコーヒーが湯気をあげている。
「す、すみません!」
お怪我は、と尋ねるウエイトレスに、ぼくは首を横に振った。動きがぎこちなかったせいか何度も確認されたが、本当に、火傷も切り傷も、何も負っていなかった。上手く返事ができなかったのは、こんなシーンでは間違いなく火傷をするはずのこのぼくが無事だったことに、戸惑いを隠せなかったからだ。
さまよわせた視線が、窓ガラスの中のあいつを捉える。表皮のない瞼の奥で、左の目玉が音をたてて弾けた。あいつは呻いて、なのに声をたてて笑った。
害がなくても、気味が悪いのは間違いない。やっぱり早く祓ってもらおう。
逃げるように店を出て、力強くそびえる大鳥居を目指す。足場の組まれた古ビルの横を通り過ぎたとき、嫌な思い出が頭をよぎった。高校生のころ、ビル工事の作業員に鉄骨を落とされ、脳天を十五針も縫ったうえ、そのころから薄かった頭髪をスキンヘッドにするハメになり、クラスの笑い者になった。
カッパハゲの頭頂部に薄っすらと残った傷痕に触れる。ケロイド特有のツルツルとした手触りの奥で、記憶がズキンと疼いた。思わず足をとめ、ため息をつく。すぼめた唇をかすめて、鉄パイプが落下していった。
「ひぇっ」
大きくバウンドしたそれは、アスファルトにくぼみを作り、コロコロと道路へ転がっていった。駆けつけてきた作業員の謝罪の声が、血の気の引いた耳に遠く聞こえた。
ゴボッ! と、耳元で大きな音がした。目をやる。あいつの脇腹が縦に裂け、赤黒い腸がこぼれるところだった。
「も、もしかして……」
こいつが来てからの一週間が、映画のフィルムのように流れていく。痴漢冤罪が晴れたこと。コーヒーがかからなかったこと。鉄骨を避けられたこと。残業や定期切れなど、小さな不幸の数々が、雨雲が晴れたみたいに訪れなくなったこと。ぼくの日々が穏やかになったのに反比例して、こいつがどんどんグロくなっていったこと。
「まさか……」
ぼくは、あふれた腸を押さえてのたうちまわるあいつを見おろした。
そのとき、喫茶店のウエイトレスが、息を切らして追いかけてきた。
「スマホ、お忘れになってますよ」
それを、ぼくが震える手で受け取った瞬間。あいつの右耳が、裂けるチーズみたいにビヨンと粘液を引いて裂けた。ウエイトレスにろくに礼も言えないまま、ぼくはヨロヨロと歩きだした。まだカタカタ鳴っている手で、スマホを耳にあてがう。まばらな人の流れを泳ぎながら、通話をよそおい、取り憑かれた日以来、初めてあいつに話しかけた。
「ね、ねぇ……」
かすれた声をしぼり出し、考えていたことを確かめる。
「そうだよ」
少ない歯をカチカチ言わせて、やつは頷いた。
「おれは、取り憑いたやつの不幸を引き受ける。百倍だか千倍だかにしてな。そして、そいつが平穏に天寿をまっとうしたら、次のやつに取り憑く。それを、ずっと繰り返してるのさ」
「な、何人くらい?」
「忘れたよ。長い時間なのは確かだ」
彼が瞬きをすると、こぼれて角膜が白く乾いた右目が、振り子のように揺れた。
「どうして、そんなこと」
「わからない。思うに、それがおれの定めだとか運命だとか、そういうやつなんだろうな」
血膿のへばりついた唇が弧を描いた。
笑う場面じゃないだろう。ぼくがドン引きするのを見越したように、彼は自分を指さした。
「こんな状態になってから、姿を見られるのも話しかけられるのも初めてだから、嬉しいのさ」
ぼくの鼻の奥がツーンとなった。だれにも見られず、感謝もされず、ただ黙って不幸を引き受けるだけだなんて。そんな悲惨なことがあるだろうか。
「きみ、名前はあるの?」
思わずたずねると、彼のこぼれた目玉が、いたずらっぽく揺れた。
「忘れてしまった。強いて言うなら」
裂けた唇が、赤い肉を覗かせる。
「不幸、とでも呼んでくれ。おれはそうしてる」
「そんなふうに言わないでよ」
スマホを下ろして、ぼくは初めて、まっすぐに彼を見た。どこもかしこもモザイクをかけたくなるような彼の体は、怖くはなく、ただ切なく、痛ましかった。
「名前、思い出せるように協力するよ」
「嬉しいことを言ってくれるな」
枯れた喉仏が、クツクツと鳴らされた。
「運命じゃなくても、おまえの不幸なら引き受けてやりたくなる」
「ぼくは自分の不幸を呪うばかりで、だれかに優しくしようなんて思えずに生きてきたのに……そんなふうに考えられるなんて、すごいよ」
彼――不幸は、瞼だけが残った左の目を細めた。
「おまえもなれるさ」
「努力するよ」
ぼくも、ほほえみを返した。
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