不幸な日々
翌日は、拍子抜けするくらいスムーズな一日だった。子持ち様は定時までキッチリと仕事をこなし、ぼくも久しぶりに定時でフィニッシュをキメた。
トイレ――今度は会社のだ――で小便をすませ、脂ぎった顔を洗う。さっぱり爽やか……な場面のはずだが、顔をあげると、洗面台の鏡ごしにあいつと目が合った。
この化け物は、風呂にも便所にも寝室にもついてきて、一緒に出勤するどころか、営業先にまでくっついてきた。とはいえ、とくに何をするでもなく立っているだけで、他の人には見えないので、生活に支障はない。ないけど……
ぼくの視線に気づいて、あいつは茶色い体液のしみ出た唇で薄く笑った。ピーラーをかけたみたいに削げたこめかみが引き攣れる。赤剥けた皮膚の裂け目から覗く肉は、酸でもかけられたみたいにただれて、ところどころ黒ずんでいた。やつが身じろぎすると、酸っぱい臭いがプンと漂う。それは、先週の飲み会で、酔った同僚に頭からゲロをかけられたのを思い起こさせた。
害はないかもしれないけど、こんなのが隣にいるのは、どう考えたって不幸に違いない。
眉間にシワを寄せつつハンカチで顔を拭いていると、ポケットのスマホが着信音を鳴らしはじめた。
ひび割れた画面に表示されているのは、知らない番号だった。昨日、あのスポーツ男に会社の名刺を取られたことを思い出す。こんな電話になんて出たくはない。ないけど、出ないとひどいことになるに決まっている。トイレに他の社員がいないことを確認し、通話アイコンをタップした。
「け、警察!?」
相手の名乗りに、ぼくは悲鳴をあげた。昨日は誠意が云々で許すと言っていたけれど、気が変わって訴えにかかったのだろうか。
「落ち着いてください」
受話器の向こうの警察官が、なだめるように言った。
「被害に遭われているのではないかと、おかけしただけですから」
「被害? ぼくが?」
警察官は続ける。
「今朝、痴漢冤罪をふっかけて金品を要求しようとした男女を捕まえたところ、どうも余罪があるようでして。彼らが持っていた名刺の束の中に、あなたのものも含まれていましたので、連絡を差しあげたんです。脅されたり、強請られたりていませんか?」
「いや、名刺を一枚取られただけで、特に……」
「そうですか。困ったことがおありでしたら、いつでもご連絡ください」
電話が切れてからも、ぼくは、起こったことを受け止めきれないでいた。今までの人生の法則からすると、延々と強請られる展開になっていたはずだ。それが、何の被害もないうちに犯人が捕まるだなんて……いつもは正面衝突してくる不幸が、急ハンドルを切ったかのようだ。
鏡の中で、あいつと目が合う。ピギリ、と耳障りな音をたてて、やつの首の筋が弾けた。脂肪らしき黄色いものが、ピシャリと鏡にへばりつく。腐った脂身の臭いが、ぼくを現実へ引きもどした。
今日はたまたま運に恵まれた。だけど、こんな気色の悪いやつが隣にいる限り、不幸には違いない。なんてったって、死ぬまで取り憑かれるって宣言されたんだから。
スマホをポケットへしまい、冷汗を吹いた額をハンカチで拭う。
次の休みには、お祓いにでも行ってみようか。二十五と四十二の歳に大枚をはたいた厄払いが露ほども効かなかったぼくに、効果があるのか疑問だけれど。
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