ぼくは不幸

湯川八〇五

不幸がぼくにやってきた

 汗の臭いでいっぱいの電車が行く。寿司詰め一歩手前の車内がぶるんと揺れ、吊り革に掴まったぼくもぶるんとなった。

 月曜の終電の地下鉄は、乗客全員が、早退からの七連休をキメた子持ち同僚がやり残した仕事を押しつけられて、十日間休みなく残業したみたいな顔をしている。少なくともぼくはそうで、でもそんなことには慣れきってしまっているから、もう何かを感じることもない。

 残暑の風呂キャンセルが祟って痒みのシグナルを送ってくる頭皮を、短い指で掻く。脂は山盛り、そのくせ肝心の頭髪はごく乏しい頭から、フケとともに気力がパラパラと散っていく。

 休日出勤のせいで、今日がまだ週始はじめだなんて信じられない。そんな気持ちをSNSの海で共有しようと、ポケットからスマートフォンを取りだす。脂でギトギトになった指から、すり減ったスマホカバーがすっぽ抜けた。傷だらけの革靴の横に墜落したそれを、デスクワークでカチカチになった腰で拾いあげる。貼り直したばかりのガラスフィルムがヒビ割れているのにため息をついたとき、とつぜん手首をねじり上げられた。

「痴漢です!」

 スポーツマン然としたルックス百点の男が、ぼくの手首を掴んでいる。

「この子のこと、盗撮しようとしてました!」

 彼の隣では、清楚さの塊のような黒髪の女の子が、目を潤ませている。

「ちょ、待っ、違……」

 仲間意識さえ抱いていた乗客たちが、犬の糞へ向けるような目でぼくを見てくる。

 スポーツの男は、凛々しい眉を吊りあげた。

「次の駅で降りてください」

「でもこれ終電……」

「逃げるんですか」

 太くて長い指が、ぶくぶくに浮腫んだぼくの手首へめり込こむ。乗客も、ぼくを弾き出そうとパンパンに注意を膨らませている。

 ブレーキの高い音がして、電車が停まる。ドアが開くと同時に、ぼくは引きずり降ろされた。

 寂しい駅だった。男は無言で、ぼくを駅員室……ではなく、男子トイレへと引っぱっていった。さっきまでミモザみたいに見えていた女の子が、金剛力士像の顔で、男子トイレの入り口を塞ぐ。洗面台の奥へ押しやられたぼくのワイシャツの胸ポケットから、スポーツの男は名刺入れを奪った。生臭く湿ったタイルに、顔写真入りの名刺が散らばった。

「会社にバレたくないだろ? うちの彼女も、誠意を見せてくれたら、警察には行かなくていいって言ってる」

 男が、指に挟んだ名刺をパタパタ扇がせる。女の子はコクリと頷いた。

「えっと……その……」

「どうかしましたか」

 うろたえるぼくに声がかかった。

 女の子の肩の向こうから、駅員が眠そうな顔を覗かせている。

 スポーツの男は舌打ちをした。

「会社は分かってるからな」

 ぼくにだけ聞こえる低い声で言って、一転、ほがらかな笑顔を駅員へ向ける。

「大丈夫、ちょっと肩がぶつかっただけです」

 眠そうな駅員は、床に散らばった名刺へ目をやり、ぼくを見た。

 慌てて、ぼくは頷いた。

「そうですか。あと十分でシャッターを閉めますよ」

 駅員は、あくびを噛み殺しながら去っていった。他の二人も、姿を消した。

 ぼくは、ヘナヘナとへたりこんだ。危うく、社会人生命が終わるところだった。残業終電スマホ粉砕という、ぼくにとってはありがちな不幸に、まさか痴漢冤罪までついてくるとは。なんて日だろう。

 でも、駅員が来てくれてよかった。いつものぼくだったら、警察を呼ばれるとか、冤罪の現場をネットでばらまかれるとか、もっと不幸な展開になってたに違いない。なんてったって、学生のころ、体育の時間に忘れ物を取りにいっただけで下着泥棒扱いされ、停学寸前までいった実績があるのだから。

 洗面台のへりへ掴まり、ヨロヨロと起きあがる。鏡。冴えない顔をしたぼくの斜め後ろに、人影らしきものが立っていた。

「な、ななな!?」

 それは、人影と言えるのか怪しかった。辛うじて人の形を保ってはいるものの、色んなものが欠けているからだ。頭髪は一本もないし、皮膚はまともな部分がひとつもない。鼻は削げ、右目はこぼれ、唇は肉が弾けて口の中が剥きだしになっている。紫色の歯肉は骨ごと歪んでいるのか、ガチャガチャとした歯が、ほとんど横向きに生えているありさまだ。

「おまえ、おれが見えるのか」

 ベチャベチャとした声で言って、そいつは、腰を抜かしたぼくを覗き込んできた。鏡越しでないそいつは、今まで気づかなかったのか不思議なくらいの腐臭を発している。

「しゃ、しゃべった!」

「おれが、見えるのか」

 ふたたび発せられた言葉とともに、猫の死体に似た口臭が漂った。

 顔を背けて、ぼくは腕を振り回した。

「見えるよ! どっかいけよ!」

「そいつは無理だ」

 血膿まじりの唾液が、ぬらぬらと糸を引いて、やつの顎から伝い落ちる。ぼくが尻をよじらせ後ずさると、そいつも一歩、骨の飛びだした足の甲を踏みだした。

「も、もしかして、ぼくに取り憑いたってこと?」

「ああ、おまえが死ぬまで一緒だ」

「うそでしょ……」

 ただでさえ不幸でいっぱいの日々なのに、こんな悪霊にまで取り憑かれるだなんて。不幸すぎるにもほどがある。

 泣きだしそうなぼくを、駅のアナウンスが急かしたてた。出口シャッターが閉まるらしい。

 洗面台に手をついて、ぼくはようよう立ちあがった。

 鏡に、ぼくとあいつが並んで映っている。あいつは確かにひどい見た目だけど、チビでハゲで眼鏡、おまけに潰れた鼻とタラコ唇のぼくとは、けっこうお似合いかもしれなかった。

 不格好なぼくの唇が、わなわなと持ちあがった。見た目も境遇もこんな化物とお似合いだなんて、もう笑うしかないじゃないか。

 そいつもニィと笑って、緑のガチャ歯をパカパカ鳴らした。

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