新時代

安政二年二月、和親条約の調印から一月が過ぎた下田の町は、早春の光に包まれていた。港では、新しく設置された蒸気動力の水門が、古いからくりの歯車と見事な調和を見せながら、静かに動いている。


一郎は高台に立ち、その光景を見下ろしていた。潮の香りと蒸気の匂いが混ざり合う空気に、確かな変化の予感があった。


「やはりここにいらしたのですね」


背後から聞こえた声に、一郎は振り返った。お由が、古い図面と新しい設計書を抱えて立っていた。彼女の姿に、一郎は今更ながら時の流れを感じる。半年前、この高台で初めて出会った時の、あの少し無鉄砲な娘の面影は、今や技術者としての凛とした佇まいへと変わっていた。


「ええ。この景色を見ていると、この半年が夢のようです」


下を見下ろすと、奉行所の前には既に大勢の人が集まり始めていた。今日は機巧堤防の正式な港湾施設認可の式典。江戸からは川路聖謨も、宗弘と共に到着していた。


「見事なものですな」


振り返ると、そこには堀勘定奉行が立っていた。その視線は、新旧の技術が溶け合う港の風景に注がれている。


「高瀬殿」堀は一郎に向き直った。「かつて、お前の父上が提案した時には理解できなかった。しかし今、この目で見て分かる。これこそが、我らの進むべき道なのだと」


遠くからは、新しく就航した和船の汽笛が響いてきた。その音は、もはや異物としてではなく、町の生活に溶け込んでいた。


「プチャーチン提督からの手紙です」お由が一通の書状を差し出した。「先日、本国に到着されたとのこと」


手紙には、下田で学んだ日本の技術への賛辞と、さらなる技術交流への期待が記されていた。特に、機巧堤防の精密な制御機構は、彼らの蒸気機関技術にも多くの示唆を与えたという。


「父上から、新しい図面が届きました」一郎は懐から一枚の紙を取り出した。「他の港町にも、この技術を」


「ええ」お由が頷く。「既に、大坂や長崎からも問い合わせが」


その時、宗弘が坂を上がってきた。その手には、新しい任命書が握られていた。


「朝廷からも」宗弘は静かに告げた。「この技術に関心を示されている。新時代は、もう目の前まで来ているのだ」


町では、式典の準備が着々と進められていた。商人たちは店の軒先を飾り、漁師たちは新鮮な魚を届けている。地元の職人たちは、誇らしげに新しい技術を語り合っていた。


「技術は、人々の中で育つもの」宗弘の言葉には、深い確信が込められていた。「この町で起きたことは、その証だ」


確かに、機巧堤防は単なる防災設備以上のものとなっていた。それは、人々の協力と知恵が結実した、新しい時代の象徴だった。


「一郎」宗弘が声をかけた。「お前は、これからどうするつもりだ」


「はい」一郎の声に迷いはなかった。「この町で、新しい技術の橋渡し役として。そして...」


彼はお由の方をちらりと見た。彼女は微かに頬を染めながら、しかし凛とした表情で頷いた。


「技術の伝承と革新」お由が言葉を継いだ。「それは、私たちの使命です」


地下からは、いつものように歯車の響きが聞こえてきた。しかし今や、その音には新しい調べが織り込まれていた。蒸気機関の力強い鼓動が、古の知恵と見事な和音を奏でている。


やがて式典が始まり、町は祝いの雰囲気に包まれた。一郎は、高台から町を見下ろしながら考えた。これは終わりではない。むしろ、新しい物語の始まりなのだ。


港には、新しい船が次々と入ってくる。その帆には、まだ見ぬ世界への夢が膨らんでいた。空には早春の光が満ち、新しい時代の幕開けを静かに照らしていた。

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からくり海門 ―東西機巧綺譚― 風見 ユウマ @kazami_yuuma

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