マッド・ドクター
みすてりぃ(さみぃ)
マッド・ドクター
「ふぅ……」
男は小さくため息をついた。
(今日は比較的落ち着いていたな。)
心の中で小さくこぼす。
(そろそろ交代の時間、そして明日からは学会だ。
この後の飛行機に必ず乗らなければならない。
これは私のキャリアにも非常に――)
「先生!すみません!」
受付の看護師の声で、一気に現実に引き戻される。
「救急の依頼です。
交通外傷で2名の受け入れは可能か、とのことです。」
「......受け入れは難しい、ほかをあたってもらってくれ。」
(今このタイミングで救急を受け入れたら、飛行機の時間に間に合わない。
さらに今日からは病院としても休暇に入る。そうなった場合、最善の医療が
提供できない可能性も考えられる。無責任なことはできない。)
「はい、わかりました。もしもし……」
(仕方ないんだ……。)
少しの罪悪感を残しながら、男は早足で病院を後にした。
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空港に着いた男は、電話をかけていた。
幸い、特に問題なく空港に到着し、飛行機も予定通り飛んでいるようだった。
「あら、今日は忙しいんじゃなかったの?
あなたから帰れない、以外の連絡が来るのは珍しいわね。」
電話の相手は男の妻だった。
「いや、今日は移動だからね。明日から忙しくなるんだ。
そうなる前に声を聴いておきたくてね。」
「まさか、脅されて電話してる?身代金目的?合言葉は?」
「おい、からかうなよ。」
「うふふ……」
いつもよりも少しうれしそうな声に感じた。
結婚して5年経つが、こういうやり取りは出会ったころと変わらない。
それが妙に心地よいのだ。
しばらく、たあいのない会話を続けた。
「じゃあそろそろ飛行機に乗るよ、また。」
電話を切ろうとした男に妻は言う。
「ねぇ、戻ってくるのは7日後?よね。」
「ああ、でもそのまま病院には寄るだろうから、帰れるのは
7日後の午後になると思う。」
「そぅ……。」
妙にもったいぶったような言い方だった。
何かあるのかと尋ねようと思ったが、口に出す前に妻が続けた。
「帰ってきたら、話があるの。とても、大事な、ね。」
「大事な話?」
「そう、大事な話。」
「なんだ、今は言えないことなのか?」
「会って、直接伝えたいことなの。心配しなくても
ネガティブなことではないわ。じゃあ頑張ってね。」
おい!と続けようと思ったが、すでに電話は切れていた。
プー、プーという無機質な音がやけに耳に残った。
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(一週間ぶりか……)
学会を終えた男は病院に向かっていた。
結果は大成功と呼べるものであった。
様々な意見や新たな知見を得るとともに、自身を
アピールすることもできた。
思えば、働き始めてからまるまる一週間病院に関わらないことはなかった。
休みであっても連絡が来たり、何らかの仕事をしていた。
(今日からまた勤務に戻るのか……
たまっている仕事もあるだろうから、忙しくなるな……)
しかし、病院に到着した男を待っていたのは
明らかに想像とは違う光景だった。
待合室の椅子はすべて埋め尽くされており、多くの患者が
経ったまま診察室の前に溢れていた。
忙しい日というものはたびたびあったが、
ここまでの状態になったことはない。
(どういうことだ……?これは……)
あまりにも想定外の光景に立ち尽くしていると、背後から
声がかかる。
「先生!お戻りだったんですね。お疲れ様です。」
学会の前の勤務でも一緒だった看護師だった。
だが、明らかに表情は疲れており
声にも張りがないことがすぐにわかった。
「何が起きているんだ?」
「実は……」
看護師は、病院の現状について簡単に話した。
男が学会に出席した翌日から
同僚の医師が出勤していない。
特に辞表もなければ、連絡もないそうだ。
事務方の職員が家まで訪ねたそうだが反応がなく、
周囲で見かけたという情報も今のところ皆無らしい。
(……失踪?
あいつはそんな奴じゃないはずだ、だが……)
優しい男、お人好しな男。
そんな印象だった。
「頼まれたら断るのが苦手なんだ」
そういっていつも仕事を抱えていた。
そんな男が突然いなくなった。
その事実だけが今ここにある。
(いや……)
「彼のことも心配ではあるが、今はそれどころではないだろう。
引き留めてすまないね。私もすぐに準備しよう。」
もちろん、心配する気持ちはあった。
だが、それ以上に現状が切迫しているのが目に見えていた。
何か大切なことを忘れている気がしたが、考えている余裕はない。
1分1秒を争う、救うべき命がそこにはあった。
そんな気持ちで男は診察室に向かった。
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結局男が帰路についたのは、日付が変わってからだった。
病院を出る間際に思い出した妻との約束。
しかし、電話は繋がらずメッセージアプリの既読がつくこともなかった。
直接伝えたい大事な話がある。
そう聞いていたにもかかわらずすっかりと忘れてしまっていた。
家に着いた。
時刻は深夜、周囲は静寂に包まれていた。
そして、それは男の家も同様であった。
「怒らせてしまったかな……」
約八日ぶりにたどり着いた自宅。
鍵を開けようとしたときに違和感を覚える。
(鍵が開いている……?)
男は中に入る。
見知った自宅。自動で灯る玄関の明かり。
しかし、違和感は深まる。
(静かすぎる……普段なら空調の音やセキュリティの音が……)
不自然だ。
自宅ではあるが自宅ではないような感覚。
(まさか⁉)
妻の身に何かがあったのか。
男は夜中であることなど気にも留めず、妻の名を大声で
叫ぼうとした。
しかし、その思いが音に乗ることはなかった。
男の視界は地面に吸い寄せられていく。
玄関の冷たい床と景色が平行になったとき、
遅れて激痛が襲ってきた。
(なんだ……?)
起き上がろうとするが、倒れた体はうまく動かず、
寝返りを打つことで精いっぱい。
仰向けになった男の視界に映ったのは、何かを振りかぶる人影だった。
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真っ暗な部屋の真ん中で男は目覚めた。
それが夢や創造の類でないということを頭部に走る激痛が
教えてくれていた。
「おい!誰かいるのか!」
男は叫んだが、特に反応はなかった。
立ち上がろうとしたが、椅子に拘束されているようだ。
全く動けない。
声の反響から狭い部屋に閉じ込められているということはわかったが、
その状況を脱却できるような発見はなかった。
30分もたった頃だろうか。
目の前に突然光が現れた。
(眩しい……なんだ、モニター?)
「ヤァ、先生。ゴ機嫌ハドウダイ?」
真っ暗な空間で強く光るモニターに映っていたのは、男だった。
ピエロのようなメイクをして、口元をゆがませて笑っている。
「誰だ!何のつもりでこんな!」
強い光は目を眩ませ、一層頭痛を強くさせた。
「ソウダナ。名前ガ無イト呼ビヅライダロウカラ、
見タママニ,-ピエロ-トデモ呼ンデクレ。」
画面に映るピエロからは表情が読み取れない。
声も機械音のようで、何らかの加工をしていることが分かった。
「ふざけるな!私を今すぐここから解放しろ!こんなことをして、
どうなるか分かっているんだろうな!おい!なんとか言ったらどうなんだ!
くそっ!なんで私がこんな...」
「ソンナ言葉シカ出テコナイノカ?
本当ニ自分ハナンノ理由モナクコンナ所ニ連レテコラレタ、ト。
自分ニハナンノ罪モナイトデモ思ッテイルノカ?」
目に見えている姿とは裏腹にピエロは冷静に見えた。
しかし、突然叫び始める。
「自分ノシタ事ニ何モ気ヅイテイナイノカ!!」
狭い部屋に響き渡る声。
あまりの頭痛に男は顔をしかめる。
それを見たピエロは、続けて言う。
「アァ、スマナイ。取リ乱シテシマッタ。
ソレヨリモ先生、モット聞カナケレバイケナイコトガアルンジャナイカ?
……ソウ、例エバ、私ノ妻ハドコニ行ッタノカ?トカ……」
変わらないトーンで話すピエロ。
男の表情は一転、怒りに燃えていた。
再び声を上げようとしたが、さえぎるようにピエロは言う。
「何モシテイナイヨ。預カッテハイルガネ。私ハ君ト違ッテ優シインダ。
君ノヨウニ、無差別ニ奪ッタリハシナイ。コレガ証拠ダヨ。」
ピエロがそういうと、プツンという音とともに
モニターの画面が切り替わる。
そこにはぐったりとした様子で椅子に縛られる
妻の姿が映し出されていた。
「おい!しっかりしろ!」
男は声を上げるが、妻は何も反応しなかった。
声は届いていないのかもしれない。
プツン
音が鳴り、再びピエロが現れる。
「貴様……」
さらに男の表情は怒りを表していた。
怒髪天を衝くとはこのことだろう。
しかし、そんな思いとは裏腹にピエロは語る。
その声は相変わらず機械音のようだが、楽しんでいるようにも聞こえた。
「楽シイノハココカラサ。
見テノ通リ、私ハ先生ノ大切ナモノヲ2ツ預カッテイル。ドッチヲ返シテ欲シイ?
私ハ優シイカラ選バセテアゲルヨ!アハハハハハハハ!」
高笑いするピエロ。
(イカれてる……異常者だ……。
つまり私の命か妻の命どちらかを選べというわけか……。)
男は心の中で半ばあきらめにも似た感情を抱く。
(本当に助かるのか……?
あのピエロは明らかにおかしいが、どこか律儀な気もする……。
本当に妻の命を助けてくれるのかもしれない……。
私が死ねば……。)
「早クシナイト、ドッチモ無理ニナッチャウヨ?ドッチニスルノ?」
薄ら笑いを浮かべるピエロ。
男は意を決して妻を助けてくれと伝えようとする。
しかし、それを遮るように続ける。
「先生ノ奥サンノ命ト、子供ノ命ト」
(!!!!!)
伝えようとした言葉は口から出なかった。
(子供……?)
と、考えたところで思い出す。
「帰ってきたら、話があるの。とても、大事な、ね。」
男の顔は絶望に満ちていた。
隠し切れない驚きもあったが、それ以上に。
想定しうる最悪が頭に浮かんだからだ。
その顔を見たピエロは少し意外そうな顔をした。
そしてその顔は満面の笑みに変わっていく。
「アハハハハハハ!!
モシカシテ先生、知ラナカッタノ?
君ノ奥サンハ君ノ子供ヲ身ゴモッテイルンダヨ。」
「……るな。」
絞りだした精いっぱいの声だった。
「何カ言ッタカイ?モシカシテ、モウ決マッタノカナ?」
ピエロは陽気に尋ねる。
先ほどの声とは裏腹に、男は激高して叫んだ。
「ふざけるな!そんなの、選べるわけがない!何が目的なんだ!
こんな馬鹿なことをして!さっさと私たちを解放しろ!気の狂った変人が!
こんなの人間のすることじゃない!」
大声を出した痛みで再び顔をしかめる男。
しかし、その声を受けたピエロは笑うでもなく、怒るでもない。
無、というのにふさわしい表情をしていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
変声器を外したのだろうか。その声に、聞き覚えがある気がした。
「君は、するじゃないか。
君は、自分のために他人の命を簡単に切り捨てるじゃないか。
自分のものは切り捨てられないなんて、そんな道理はないだろう?」
妙に落ち着き払ったその声が、ピエロの仮想と相まって
さらに不気味さを演出していた。
「あの時も、そうだったのか?」
だんだんと声が荒くなっていく。
ピエロの仮想とは不釣り合いに、その目は涙で満ちていた。
(あの時……?)
男は答えられなかった。
その様子を見て、ピエロは立ち上がり叫ぶ。
「私の妻と娘の救急搬送を断った時も
そんなふうに自分のことだけを考えていたのかと言っているんだ!」
画面の中で、いろいろな器物が飛び回った。
(まさか……!!)
「……あの日、飲酒運転の車が私の妻と娘を襲った。ひどい事故だったよ。
連絡がきたときは絶望したが、私は知っていた。あの日君が、腕のいい同僚の外科医が
当直をしていると。だから、搬送を頼んだ。搬入ができるということもわかっていた。
そして病院に駆けつけようとした。」
「だが、断られた。時間がかかっているうちに妻は...そしてもちろん娘もだ。
仕方なかったんだろうと思おうとした。ところがどうだ?
君は余裕を持って仕事を終え、悠々と学会に向かったそうじゃないか!!」
ひときわ暴れ、泣き、叫んだ。
次にピエロが画面に映ったときには、そのメイクはほとんどなくなっていた。
代わりに、見知った顔が映っていた。
明らかにやつれているが、そこにはかつての同僚がいた。
もはやピエロでなくなった男は続ける。
「なぜ私なんだ...私の人生なんだ。どうして私の妻と子供が...こんな人生間違っている!」
変わり果てた同僚の姿に、男は何も言えなかった。
救急受け入れが成立していたとして。
絶対に助かったという確証はないだろう。
だが、あの日、あの時の。
たった一つの選択が、一人の人間を壊したのだ。
その事実は決して揺るがない。
「すまない……。」
男の口から絞り出せたのは、これだけだった。
言葉の代わりに、どうしようもない吐き気が襲ってきた。
そこから、少し。
ほんの少しの静寂があたりを包む。
そして、唐突に破られる。
「そうか...この人生がいけないんだ...やり直そう。
そうだ、やり直せばいい。やり直せばいいんだ。」
そういうと、ピエロだった男は立ち上がり、画面の外に消えていった。
(どこへ……)
男は尋ねようと口を開いた。
しかしまたもそれが声になる前にさえぎられる。
「いやあぁぁ!何!止め...!ゴホッ...!ゔ...」
けたたましい叫び声。
まるで部屋中が震えているような声。
聞き覚えのある声、そして大きな違和感。
その声は、モニターから出ている音ではない。
明らかに同じ建物の中。
いや、まるで隣の部屋から聞こえているような。
男の顔から、一気に血色が消えた。
最悪の想定が、現実になったであろうことを悟ったからだ。
偽物だ、作り物だと思いこもうとしたが、
感覚、いや、細胞がそれを否定している。
(あの声は……。)
そう思った瞬間。
男の背後から扉の開く音がした。
そして、ザリザリと、一歩づつ近づいてくる足音。
絶望が、背後から忍び寄っている。
しかし、男は何もできなかった。
いや、何もしなかったという方が正しいだろう。
なぜなら――
男には絶望にあらがう術も、
そして、理由も、もうなかったのだから。
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(ここは……?)
ぼんやりと温かく、優しい、そして全く知らない景色だった。
どうやらベッドの上にいるようだ。
幾度も嗅いだことのある独特な香りがする。
(病院……?)
「……!」
誰かを呼ぼうと思ったが、声の代わりに激痛が走った。
(喉が……いったい何がどうなっているの?
わたしは家で彼の帰りを……)
立ち上がろうとすると、病室の扉が開く。
「意識が戻ったのか!」
私が待っていたはずの彼がそこに立っていた。
唐突に、周りの目も気にせずに抱きしめられた。
「どうしたの」と声をかけたいが、音を生むことができない。
強く私を抱きしめていた手をほどき、彼はゆっくりと
話し始めた。
「君は、交通事故にあったんだ...…。飲酒運転の車が相手でね。
それで、3ヶ月も眠っていたんだよ...…。とてもいいにくいんだけど、それで
君は声を失ったんだ。」
「でもね、奇跡的に、と言うべきなのかな。赤ちゃんは無事だったんだよ...。
君も命に別状はなかった。なぜ意識が戻らなかったかわからないんだ。」
「ここには治療のために引っ越したんだ。田舎で不便だけど空気もいい。
きっと子育てするにはいい環境さ。」
話し終えると、もう一度深く抱きしめ合った。
大粒の涙を流した。そして笑った。
おぼろげで断片的な記憶。
あれはきっと悪夢だったんだ。
ここからまた、私たちの生活が始まる。
彼も私につられて少し笑ったと思う。
涙であまり見えなかったけど。
少し、口元が歪んでいたもの。
マッド・ドクター みすてりぃ(さみぃ) @mysterysummy
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