「しずくの音」【光の守り人シリーズ】

ソコニ

第1話「しずくの音」

朝もやの立ち込める温泉街。石畳に染み込んだ湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。古い町並みを縫うように、一筋の細道を進むと、そこに一軒の古民家カフェがあった。「澪(みお)」。百年以上の歴史を持つ建物を改装した、この街で一番新しい、そして一番古い店。


陽子は庭の掃除をしていた。竹箒を持つ手が、朝の静けさを崩さぬよう、そっと動く。初夏の朝の空気は、まだ涼しく澄んでいた。


「今朝は、少し違うわね」


玄関先の風鈴が、風もないのに、かすかに鳴る。陽子は耳を澄ました。普段なら何でもない音に聞こえるはずなのに、今朝は違う。まるで誰かが、そっと話しかけてくるような。


店内に戻ると、カウンターに白藤琴子の姿があった。八十がらみの老女の姿は、いつもの藍の着物姿。温かな微笑みを浮かべている。


「おはよう、陽子さん」

「琴子さん、今朝は珍しく」

「ええ。今日はね、大切なお客様が来られるの。実相院の奥の茶葉、使う時が来たわ」


実相院。この温泉街の外れにある古いお寺。その奥庭で、特別な日にだけ摘まれる茶葉。陽子は祖母から、そして琴子から、その茶葉のことを教わった。人の心を癒す不思議な力を持つという。


「でも、琴子さん...」

振り返った時には、もう姿はなかった。代わりに、一筋の朝日が古いカウンターを照らしていた。


開店から二時間ほど経った頃、来客があった。

三十代後半くらいの女性。紺のスーツは上質だが、疲れの色が染みついている。


「いらっしゃいませ」

陽子が声をかけると、女性は深いため息をついた。

「お勧めのお茶を...何でもいいです」


窓際の席に座った女性の手元には、白い封筒が見える。サイズと形から、おそらく辞表だろう。机に置かれた封筒は、まるでその重さに耐えかねているかのように、少し歪んでいた。


陽子は実相院の茶葉を取り出した。急須に湯を注ごうとした時、風鈴の音が再び響く。と同時に、不思議な映像が浮かび上がった。


映像の中で、女性は机に向かっている。パソコンの画面に社内研修の資料が映る。人材育成部門の主任として、彼女―村田美咲は15年間、若手の育成に携わってきた。


新入社員たちの生き生きとした表情。困難を乗り越えて成長していく姿。それを見守ることが、美咲の誇りであり喜びだった。


「村田さんの研修で、本当に自信がつきました」

「細かいところまで、いつも気にかけてくれて...」

嬉しい言葉の数々。


しかし最近、何かが違ってきている。部下たちの目が、少しずつ違う方向を向き始めた。


「もっと自由にやらせてほしい」

「いちいち細かく指示されるのは、もう...」

「古い考え方だと思います」


耳元でささやかれる言葉が、棘となって胸に刺さる。完璧を求めすぎる自分。融通の利かない自分。若い世代と合わない自分。


先日の課長との面談。

「村田さん、ちょっと柔軟性に欠けるところがあるんじゃないかな。世代交代の時期かもしれない」

その言葉が、最後の一押しとなった。


映像が消える。陽子は深く息を吸い、実相院の茶葉を急須に入れた。


お湯を注ぐ。一筋、また一筋と、湯が茶葉に染み込んでいく。その様子が、まるで人の心のようだと、陽子は思う。強すぎず、弱すぎず。茶葉が開くのを、ゆっくりと待つ。


「お待たせしました」


差し出された湯呑みから、かすかな香りが立ち上る。美咲が一口飲んだ瞬間、その目に涙が浮かんだ。


「懐かしい...祖母の家でよく飲んだお茶の味」

声が震える。

「祖母はね、お茶を淹れるのが上手な人でした。でも、最初から上手だったわけじゃない」

思い出すように目を細める。

「『失敗は、次の美味しさのヒントになる』って、いつも笑っていました。そう...私の失敗も、優しく受け止めてくれて」


陽子は、そっと言葉を添えた。

「sometimes less is more...時には、手を緩めることで、相手の成長を見守ることができるのかもしれません」


「まるで、私の心が...」


「お茶は不思議なもので」

陽子は続ける。

「飲む人の心に、一番必要な味を見せてくれるんです。あなたが若手に示してきた道筋は、決して間違っていない。ただ、今は少し、彼らの茶葉が開くのを待つ時なのかもしれません」


美咲は、また一口お茶を飲んだ。

涙が頬を伝う。

「完璧を求めすぎていたのかもしれない。相手の成長を、ゆっくり見守る余裕を忘れていた」


封筒に手を伸ばし、そっとバッグの中にしまう。

「もう少し、違うやり方を探してみます。私にも、まだ成長の余地があるのかもしれない」


夕暮れ時、美咲が帰った後、陽子は使った急須を洗っていた。その時、背後で琴子の声がした。


「よかったわね。実相院の茶葉が、ちゃんと彼女の心に届いた」

振り向くと、夕日に透けるような姿で琴子が立っていた。

「人を育てることは、お茶を淹れることに似ているのよ。強すぎず、弱すぎず。相手の心に寄り添うように」


陽子は頷く。

「はい。きっと彼女なら、新しい道を見つけられると思います」


琴子の姿が消えていく。

代わりに、風鈴が一つ、静かな音を響かせた。

それは、どこか安らかな、しずくの音のようだった。


カウンターに戻った陽子は、実相院の茶葉の茶筒を手に取る。

まだ、誰かの心に寄り添うお茶を淹れる時を待っている茶葉たち。

明日は、また誰が、このカフェの扉を開けるのだろう。


窓の外では、夕暮れの温泉街に、新しい湯煙が立ち始めていた。


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