自由研究 1日目 その③

「ねえ、その子大丈夫?」


ぎぃと少しばかり耳障りな音がして、戻ってきた風は止んでしまった。振り仰げば、そこには自転車に跨ったどこか見慣れた制服に身を包んだきれいなお姉さんがいて、心配そうにあきちゃんの方を覗き込むようにしていた。長い髪は後ろでひとまとめにされていて、背中の方で動物の尻尾みたいに垂れている。

どうやら自然のもたらしたものとばかり思っていた風は、お姉さんの自転車で颯爽と駆けるときに生まれた、人工的なものらしかった。


「ああ…うん、はい、大丈夫です」


しどろもどろになりながらも、返事をした。あきちゃんの方はというと、ぽかんと口を開いて、お姉さんを見上げるだけで、少し怯えているような感じすらした。まぁたしかに、突然に大人?(といっても、たぶんこのお姉さんはわたしのお姉ちゃんと同じ高校生っぽいけれど)に話しかけられて、すくんでしまう気持ちは分かる。

お姉ちゃんと話すときはそうでもないけれど、わたしたち小学生とも、お父さんやお母さんの大人とも違う、異質な雰囲気をまとう女子高生に対して、わたしもちょっぴりだけれど気後れする気持ちを抱えていたのは確かだ。


「ああ、ごめんごめん」


お姉さんはそう言って、歩道の端の方に、つまりはわたしたちの腰かけている方へと自転車を寄せて止めると、わたしの隣の、空いたブロックの上に何の躊躇もなく座った。しわひとつない紺のスカートが揺れて、それが汚れてしまったらどうするつもりだろうと、他人事なのに妙に気にかかった。


「ほんとに大丈夫なのね?」


ずっと姿勢を低くしてくれたのは、どうやらわたしとあきちゃんが委縮しているのに気づいたかららしかった。視線を同じ高さにして見据えるとよく分かる。鋭い瞳と、きれいな鼻立ち。なによりやっぱりきれいで長くて、触れると気持ちのよさそうな黒い髪が目についた。そして、その彼女の鋭い瞳にじっと見つめられて、外からの暑さのためだけでなくて、内側からじわじわと湧き上がる知らない熱を感じた。


「あれ、きみも顔が赤いな」


お姉さんに指摘されて、ぼっとまたさらに顔やら何やらが沸騰するような、どうしようもない瞬間的な暴発を感じた。これはまずい。以前に体育の時間に眩暈がしたときのことが頭をよぎる。この感覚はあれに似ていて、でも不思議と不快感よりも、何かずっと浸っていたくなるような、大切な暖かさのような気もした。


「ほんとだ、ひーちゃん大丈夫?」


ずっと沈黙を守っていたあきちゃんが呼びかけてきて、だいじょうぶだいじょうぶと、ぽつりぽつりと返すのだけれど、意外に自分の声は弱弱しく聞こえた。


「ちょっとまってて」


お姉さんはすっくと立ちあがって、自転車のカゴの中に入ったてかてかと黒く光るスポーツバッグの中をがさごそとやって、目に鮮やかな水色の水筒を取り出してきた。


「はいこれ。飲みさしで申し訳ないんだけど…自販機ここら辺にたぶんないよね?」


わたしとあきちゃんの方を交互に見やって尋ねる。たぶんなかったと思います、俯きがちに答えるあきちゃんを横目に、おずおずと水筒を受け取った。蓋はお姉さんが開けてくれたので、いただきますと言って、ちびちびと口に含んだ。


「遠慮しなくていいから」


お姉さんが少しだけ怖い顔をして言うから、怒らせてしまったかなとか心配になりながら、飲みたい分飲んでしまおうと思って、今度は思い切ってごきゅごきゅと飲んだ。

甘いスポーツドリンクの味がして、そうえいばきくちがこっそりスポーツドリンクを水筒に入れて持参してきたのを告げ口されて、先生に怒られていたのを思い出した。

高校生は自由でいいなぁ。羨む気持ちが最初に来て、でもすぐさまありがとうを言わなきゃいけないことを思い出した。


「ありがとうございました…」


しおしおと感謝の言葉を告げると、お姉さんはいーえと優しく、薄い笑みを浮かべてくれた。鋭い瞳はくしゃりと歪められると、途端に包み込んでくれるような人懐っこい優しさが滲み出すようだった。釣られて、わたしもにこりと笑みを零す。

お姉さんは、きみもいる?とあきちゃんの方にも水筒を差し向けた。あきちゃんはあ、じゃあと言って、受け取って、わたしとおんなじように、そんなに残ってたかなっていうぐらいにぐびぐびと飲んだ。


「いい飲みっぷり」


満足した様子でそう言って微笑んでみせて、あきちゃんから水筒を返してもらったお姉さんは、スポーツバッグにそれを詰め込み直して、そそくさとペダルに跨って、立ち去る体勢に入る。あ、そうだ。今思い出したという風に振り返って、お姉さんは、家近いの?と聞いてきた。即座にはいと答えようとして、ここでもしいいえと言ったらもう少しだけでも長くお姉さんといられたりするのだろうかと、邪な考えが頭よぎったけれど、ここまでお世話になりっぱなしなこともあったし、さすがにわがままな嘘を吐くのは気が引けて、結局はいと答えてしまった。


「そりゃよかった。じゃ、お達者で」


おたっしゃ?

わたしとあきちゃんが首を傾げているうちに、お姉さんはペダルを回してぐんぐんと速度を上げて、近所の橋の方へと続く道路を走って行ってしまった。

小さくなっていくお姉さんの背中は、彼女のシャツがあまりにきれいに漂白され過ぎているせいで、立ち上るぐにゃぐにゃ(これはのちに陽炎というのだと知った)と、空に浮かぶ雲たちとに紛れて、またたく間に見えなくなってしまった。


「やさしいお姉ちゃんだったね」


あきちゃんがぽかんとした顔をして言った。


「うん、きれいな人だった」


「え?まぁ、それもそうだけど」


わたしの頭もぽかんとしているらしく、上手いことあきちゃんとの会話は噛み合わなかった。

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蝶とレモンの木 @kobemi

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