星を見る、原稿は手に

桜无庵紗樹

星を見る、原稿は手に

 夕方。薄い青とオレンジが混ざっている空。


 自分がいるこの空間は、人の熱気と暖房の機械的な暖かさでコートも脱いでいいくらいの暑さだった。


 手には小さなメモ用紙のようなもの―原稿用紙を半分に切り、糸を通してまとめられている―が開いた状態で置かれている。


 原稿用紙にペンを走らせている。と言っても文章を書いているわけではない。絵を描いているのだ。

 

 なぜ、原稿用紙に絵を描いているかというと、マス目があって使いやすい。そんな理由だ。




がたんがたたん。がたんがたたん。




 車輪が鉄の隙間に当たり、丁寧にリズムを奏でる。


 人の喋り声はしない。


 僕は今、電車の中にいる。かれこれ3時間くらい。少し申し訳ない気がする。


 別に家だと居心地が悪いとか。それで電車ですることなくて絵を描いているとか。そういうことではない。


 理由があるのだ。単純だが、重要な理由だ。重大な約束でもある。


 まあ、全部言い訳に過ぎないが……。でも、“しょうがない”ってやつだ。


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 弟がいる。13歳も齢に差がある。俺が19歳で、弟が6歳。とても、可愛い。もう食べてしまいたいぐらい可愛い。キュートアグレッションと言うのだったか?まあ、とりあえず。可愛いのだ。


 しかも、とても活発で溌剌だ。いろんなものに興味を示し、様々な知識をスポンジのように吸収していった。贔屓目無しにとても賢い子だった。

 

 ただ、弟は昔から体が弱かった。持病もある。完治は難しいらしいけど。命に関わるほどではないらしい。小さい頃に何回も高熱を出して、そのうち2度は入院した。それで、親も付きっきりで弟を世話をしていた。


 嫉妬がなかったと言えば嘘になるが、それでも弟が大好きだった。


 弟は普段、あまりわがままを言わない子だった。それどころかおねだりも殆どしないもんだから、親も俺も事あるごとに戸惑った。誕生日プレゼントだとかクリスマスだとか。


 そんな弟が俺に始めて、おねだりをした。


「電車が見たい。にいが描いたやつ。」


 実を言うと何だが、俺は美大に通っている。世間一般から見ればやはり絵はうまい方だろう。まあ、彫刻科なんだが……。


 電車の絵を描くのに電車を見てないのは変だと思っただろう。

 

 別にこれは俺がたいそう変わってるというわけではない。


 弟は、さっきも言った通り体が弱い。まだ、長距離の移動に耐えられるかわからない。過保護だと思うが、電車には乗せられない。


 それで、弟は、電車の中身を知らないから見たいらしい。


 ちょうど課題にも行き詰まっていたし、息抜きに⋯⋯ということだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 人の喋り声はしない。


 未だに納得できる絵ができない。弟が待っているんだ。今日中に完成させたい。


 それに何より、弟が憧れる電車はこんなものではなかった。


 一体何が違うのだろう。


 奥行き? 形状? 陰影? 形? そもそもモチーフがだめなのだろうか?


 頭を抱えていると、電車がカーブした。遠心力が、重さと気持ち悪さが同時にかかる。


 これかもしれない。


 これだ!


 直感的にこれが、この力がうまく電車を表す。そう理解した。そう思った。


 ペンを走らせる。もはや周りの目は気にしない。カリカリと音がなる。


 人の喋り声はしない。


 次のカーブが気になってしょうがない。いますぐ日でも調べたい。でも手が止まらない。


 だから思う。思考する。期待する。


 早く、次のカーブは来ないのか?来てくれないのか?


 

 その答えのない問答に頭が支配される。でも、手は動き続ける。シナプスがなくなる。神経が一本だけになった気がする。


 早く、早く。早く!!




ガタン。ががったん。



 とてつもない力がかかる。横方向に力がかかる。


 ああ、躍動感と臨場感。素晴らしい絵が描ける。


「すごい!これだ!!」

 声には出していないはずだ。なんだか周りの音がうるさくて真偽はわからないけど。


 人の喋り声はしない。


 金属が擦れる音がする。


 体が後ろに引っ張られる。


 後頭部に重力がかかる。


 人の喋り声はしない。人々が泣き叫ぶ音がする。


 横を見る。周りの景色が回転した。横転した。


 視界が夜に埋もれる。火花が散った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『ーーーー路線の列車が、18時頃にーーー』『ーー死傷者はーーーー』『ーーーー今回の事故にーー責任ーーーーー』『ーーーー整備不足か?ーー』『ーーーーー17時頃に線路内に立ち入るーーーーー』



 それからしばらくして、たくさんのけむりがあがりました。みんなかおによるがかかっていて、なんだかかなしいきもちになりました。ぼくのおにいちゃんもけむりがあるところにいきました。おにいちゃんはとてもえがうまくて、いつもなかがよかったです。

 いつかえってくるのか。わからないけど、ままとおとうさんにばいばいしてっていわれたのでしました。

 おにいちゃん、えをはやくみせてね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 夕方がもうすぐ終わる。もう夜になる。いつの間にか寝ていたようだ。

 

 足に力が入らない。――体が熱い。


 とてつもなく疲労しているのだろうか。少し上体を起こすだけでだいぶかかってしまった。




 ああ、まずいなあ。よく見えないけど。身体がない。下半身が見えない。それに、動かせない。


 死にたくないな。死にたくない。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」


 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。イヤだ嫌だ。


 誰か助けに⋯⋯。


 だれか⋯⋯⋯⋯。



 寒いな。そりゃそうだろう。いまは1月だ。真冬も真冬。


 眠くなってきた。あくびをしようとする。


「。ぁあ゙ぁあ。ッ!」


 喉が痛い。咳き込もうとする。のどが動かない。


 弟に絵を見せないと。


 始めてだった。認められた気がした。嬉しかった。


 親からも反対されても大学に入るほどだったかと言われると微妙だけど弟に価値あるものになったのはよかった。


 寝る前に少しだけ。約束だから。描かないと。


 指に力を込める。指が宙をなぞる。


 どうしようもないと空を見上げる。なんでかは知らないけど癖だ。


 そして見上げた先には、とても綺麗で、あまりにも残酷な群青色があった。

 周りには、大きいものも小さいものも。明るいものも暗いものも。色があるものも白いものも。たくさんの光が輝いていた。



 ああ、これも見せてやりたいな⋯⋯。

















 人の喋り声はしない。

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