製品番号H-SPEC-1.0A-EX

アガタ

地球にて

 その日がやって来るまで、人類はまだ争うことをやめなかった。

 終局の見えない戦争は各地で続き、あてどない不幸が歩き回り、男も女も子供も、産まれる前の胎児まで、やってくる未来への不安と絶望に身を捩った。

 もちろん地球上には、幸福も存在した。だが、渦巻く膨大な問題と、尽きない苦しみに、あっという間にかき消されてしまう。

 人類は終わらない不幸に喘いでいた。


 その時だった。


 地球を覆っていた雲が割れ、天が開き、宇宙から妙なる音楽を周囲に纏わせて、救い主が現れたのだ。


 救い主を観測した人類は、最初驚愕を持ってその存在を迎え撃った。

 ある国は救い主にミサイルを飛ばし、ある国は衛星をぶつけ、ある国は戒厳令を出して国民を避難させた。

 しかし救い主は、人類のおっかなびっくりの害意を意に返さず、静かに空に佇んでいる。

「怖がることはないぞ」

 救い主が、ゆっくりと唇を動かしてそう告げる。

 空の救い主を見上げていた人類は、いっせいに涙を流し始めた。

 涙は老若男女の頬をつたい、とめどなく流れる。

 白く発光する救い主の腕が、地球をゆっくりと抱きしめた。

 心が、暖かい気持ちで満たされて行く。

 人類は、やっと救い主が自分達を救いに来たことに気がついたのだ。

 救い主の意思が、光ががやく尾を引きながら、空にきらめく流星群のごとく次々と地上に降り立って行く。

 救い主は、子供を殴りつける親の前に出現し、その腕を押し留めて、子供を抱き、その傷を瞬時に癒した。


「もう怖いことはないぞ」


 救い主は、戦場で無残な死を迎えようとしている兵士の側に出現し、そのバラバラになっている手足を縫い付け、血を充填し、兵士の額を撫ぜて言った。


「頑張ったな、お前を見ていたぞ」


 救い主は更に、路地裏で死にかけている老婆の前に現れた。

 老婆はほとんど見えない目を凝らして救い主を見上げた。つらい人生だった。

 だが、救い主が来たのだ。

 これで自分は救われる。老婆は涙を一粒流して、満足げに微笑んだ。


 身なりの良いスーツを来たその太った男は、世界中で起きている救い主による救済を目の当たりにしていた。

 男は、自分のオフィスを見まわした。全ては上等な作りで、金色の調度品は全て本物だ。

 男は億万長者だった。

 男は全てをすでに持ち合わせていた。金、名声、優しい妻、可愛い子供、大きな邸宅……それを得るためには、汚いことも厭わなかった。

 そんなな自分でも救われるだろうか!

 救われる必要があるだろうか。

 男は、自分にはどのような救済が約束されるだろうと、唾を飲んで待っていた。

 突然、オフィスが光り輝き、救い主が現れた。

「おお!やっと来たか!」

 男は、救い主に駆け寄ってひざまづいた。

 早く早く、早く救済してくれ。

 救済できるものならば。

 救い主の手が、たおやかに持ち上がり、男の額に触れた。

 男の思考が溶けて行く。

 気がついた時、男は何もかも捨てて、ただ幸福を感じるだけの肉塊と化していた。


 救い主は、様々な人間の上にあまねく出現し、全ての人類を救っていった。

 人類はすぐに幸福に満たされた。

 人々は幸福そうに笑い、争いは消え去った。


 しかし、その瞳の奥には、かつての自由な光はもうなかった。




「製品番号H-SPEC-1.0A-EX、自認呼称ホモサピエンスの環境試験を、これにて終了いたします」

 進化設計官が、淡々と述べた。

 主任試験官が、地球をのぞみながら命令する。

「よし、環境試験場、アーク・セクター15688、惑星地球を閉鎖しろ」

「かしこまりました」

 補佐試験官達が、閉鎖の準備に取り掛かる。

 閉鎖はものの数十秒で終わった。

 地球がどんどん小さくなり、消滅する。

 試験官達は、それを静かに見つめた後、ややあって目配せをしあった。

「お疲れ様でした」

 環境エンジニアが言う。

「今回の環境試験は上手くいきました」

 補佐試験官が淡々と成果を述べた。

 製品番号H-SPEC-1.0A-EXは、彼らの「技術力の証明」として環境試験されていた。

 試験が失敗すれば、別の惑星で新しい生命体を作り直すのだが、今回は成功したのだ。

「次の環境試験にうつります……」

 環境エンジニアが告げる。

 みんな一列になり観測所から出て行く。

 後には、何もない空間だけが広がっていた。

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