時を跨ぐ試験
中里朔
おにぎりの値段
「すると、この電車に乗る切符で買い物もできるってことですか?」
「切符じゃない。ICカードだ」
主任の
「いいかい、浅田さん。あなたがここへ来てからもう二十年経つんだ。世の中の仕組みもだいぶ変わった。その年になってから新しいことを学ぶのは大変だろうが、しっかり覚えないと今の時代で生きていくのは難しいぞ」
「ええ、わかってますよ。電話だって持ち歩くのが普通になったんでしょう?」
「そうだ、よく知ってるな」
「刑務作業で一緒だった9174番の兄ちゃんに聞きました。ここ掘れワンワンで捕まったとか……。変わった奴ですね」
「ここ掘れワンワン? 9174番は詐欺罪で収監されてる奴だな……」
「はい。電話で婆さんを騙して金を奪ったと言ってましたね」
「そりゃ”オレオレ詐欺”だ!」
「なぁんだ、聞き違いですか。どおりで変わった罪だなと思いました」
「全然違うだろ。真面目にやらないと出所できないぞ」
「真面目にやってますよ。ところで富田林さん……」
「なんだ?」
「電話を持ち歩いたら、街中でコードが絡まりませんかね?」
「富田林主任。浅田さんの教育は進んでいるのかね?」
「はい、所長。週末には試験を行い、習熟度を確かめます」
「そうか、よろしく頼むよ。くれぐれも落第なんてことのないように」
「もちろんです」
強盗致傷で二十年か。長かったな。でももうすぐ
富田林さんは今までの常識は通じないなんて言ってたが、天地がひっくり返ったわけじゃあるまいし、言葉さえ通じればどうにでもなるよ。
しかし、試験をするとか言ってたな。もし落ちたら刑期が伸びるのか聞いておけばよかった。仕方ない、少しは勉強しておくか。
「うん、まあいいだろう。よく覚えたな浅田さん」
「そうでしょう? こう見えて記憶力はいいんですよ」
浅田は袖口に忍ばせていたメモを、そっと上着のポケットへ移した。
「では最後の問題だ」
「え、まだあるんですか?」
富田林はじろりと浅田を睨む。
「な、なんです? 怖い顔をして……」
「うむ。ここに、預かっていた浅田さんの所持金がある」
「労務作業の給金ですね」
「刑務所を出れば自由に使える」
「そりゃ、俺の金ですから」
「なにに使う?」
「まずは出所祝いに酒でも買って――――」
再び富田林がじろりと睨む。
「そんな怖い顔で睨まないでくださいよ。酒はやめたんでした。am/pmでおにぎりでも買います」
「am/pm……?」
「知らないんですか? コンビニですよ。この刑務所の近くにあったはずですが」
富田林がしばらく考えてから言った。
「とっくにないな。ファミマに吸収されたはずだ」
「なくなったのか。じゃあスリーエフでもいいですけど」
「それはローソンになった」
浅田は呆気にとられてぽかんと口を開ける。
「もうコンビニならなんでもいいですよ。おにぎりくらいどこのコンビニでも買るでしょう?」
「ちゃんと金を出して買うなら構わない。なにしろあなたは窃盗だけで前科八犯だからな」
「真人間になったんです。盗まずに百円出して買いますよ」
富田林は目を剝いて浅田を見た。
「ああ、消費税ですよね。百五円ちゃんと払いますって」
「残念だな、浅田さん。いまや消費税は十パーセントに上がった。持ち帰る飲食料品は軽減税率で八パーセントだが……。いや、そういうことじゃなくて……」
「なんだかややこしいことになっているんですね。要するに百十円払えば、持ち帰ってもその場で食べてもいいんでしょう?」
「物価も上がっているんだよ。コンビニのおにぎりは百円では買えない。百三十円から百八十円くらいかな。プラス消費税だ」
「ひゃあ、高くなりましたね。ということは他のものも……?」
「ああ、二十年前に比べれば品物はなんでも高くなっている。上がらないのは私の小遣いくらいだ。本当に必要なものだけを買わないと、あっという間に無一文になってしまうぞ」
「わかりました。お金は大事に使います。あとポイントも貯めます」
「そ、そうか。まあ頑張ってくれ。じゃあ合格だよ。おめでとう浅田さん」
出所の日。守衛が敬礼をして門を開ける。
「長い付き合いだったが、今日でお別れだ。もう戻ってくるなよ」
「お世話になりました。富田林さんもお元気で」
「誰か迎えに来ているんだろう?」
「俺みたいな前科者に、迎えなんてありませんよ」
「あの人は違うのか?」
年のころは三十代くらいの男が、浅田の姿を確認すると軽く頭を下げてから近寄ってきた。
「……誰だい?」
「お勤めご苦労様でした、浅田さん」
その男と、記憶の中の顔が一致した。
「あ、お前。どうしてここへ……」
二人の様子を、首を傾げて見守る富田林と守衛。
「あの男、毎日のように誰かを待っていたようです」
「ほう。出所日を知らないということは、家族ではなさそうだが……」
「弟は元気かい?」
「ええ、おかげさまで」
「仕事は? 働いているんだろう?」
「リフォームの会社で……営業やってます」
「へぇ、頑張っているんだな。それはよかった」
ファーストフード店の一角、何十年ぶりかに食べたハンバーガーはとびきりに
浅田がこの男と会ったのは二十年前の深夜――
ほろ酔い気分で帰宅中の浅田は、行列ができるラーメン店の前で震えている
勇には弟がいる。繁華街を歩いていた弟が、かわいらしい女の子に声をかけられたのだが、それが美人局だった。ガラの悪い男が現れて「俺の女になにをする。慰謝料を持ってこい」と脅されてしまう。ガラの悪い男は、慰謝料が払えないのなら、ラーメン店から金庫を盗んで来いと言うのだった。
不安がる弟から相談された勇は考えた。高校受験を控える弟にそんな真似はさせられない。勇は身代わりに空き巣に入ろうとした。ところが店の前まで来たら、体が震えて動けなくなってしまった。
「わかった。俺が金庫を盗ってくる」
弟想いの勇にほだされたのか、酒の勢いだったのか記憶にはない。
窃盗ならお手の物だ。あっさりと窓を壊し、店内に侵入した。金庫を見つけて手を伸ばそうとした時、まばゆい明かりが灯った。
「誰だ!」
忘れ物を取りに戻った店主と鉢合わせしたのだ。
――しまった!
出口を求め、浅田は駆けだした。目の前に店主が立ちふさがったことに気付かず。
「うわっ!」
真正面からぶつかった二人は、大きな音をたてて転げる。ずきずきと足の
「ちきしょう!」
起き上がろうとして手をついた床に、ぬるりとした感触がして掌を見る。血だ。自分の足を切った感覚はない。
はっとして相手を見た。頭から血を流し、呻く店主がいる。
集まってくるパトカー。
浅田は逃げなかった。勇という少年は、いつの間にかいなくなっていた。
「浅田さん、仕事まだ決まってないんでしょう? だったら手伝ってくれませんか?」
「リフォームの仕事を? 大工の経験なんてないし、俺はあんまり手先が器用じゃないからなぁ」
「いえ、現場作業じゃなくて調査をして欲しいんです」
「調査?」
勇はなぜか周りを気にして、声を潜めて話し始めた。
「指定する家に行ってください。周辺の人通りが多いか少ないか。窓はどの方角にあるか。その家には年寄りしか住んでいません。チャイムを鳴らしてみて、すぐに玄関のドアを開けたら――――」
「おいおい、まるで強盗に入るための下見みたいじゃないか……」
話を遮って苦笑する。こいつは弟想いの優しい男。強盗を企てるわけがない。なぜこんな冗談を?
目の前に真剣な表情の勇がいた。
「お前、まさか……」
「ええ。あいつまた脅されているんです。もう一度、助けてくれませんか?」
ごくり、と浅田はつばを飲み込んだ。
日が暮れ始めた。
帰りの通勤時間にはまだ早く、人の通りはなかった。
浅田は少し離れた物陰から、調査をした家の周辺を窺う。今回は見張り役を頼まれた。実行するのは勇だ。二十年前は震えて動けずにいた気弱な勇が、今日は堂々とした態度で目的の家へ向かっていく。
変わったな。あれからずいぶん時間が経ったんだから、当たり前か。富田林さんも言っていたじゃないか。物事の仕組みや物価だけじゃない、色々なことが変わっているんだと。
途中のコンビニで買ったおにぎりをポケットから出す。
――嫌になっちまう。ビニール袋まで金を取るような世の中だなんて。
包装を解こうとした手が止まる。勇が開け放たれた玄関から室内へ侵入していく。
「おいおい、強行突破かよ」
急に、住人の老いた爺さんが心配になった。怪我でもさせたら自分と同じ懲役刑を喰らう。相手は年寄りだ。打ち所が悪ければ万が一ってことも……。
――ヤバいことになる前に止めなきゃいかん。
勇が侵入した家へ向けて駆けだした。が、すぐに足がもつれて転びそうになる。さすがに昔のように颯爽とは走れない。苦々しい思いで顔を上げたその時。
「まずい、誰か来た」
向かい側から勇と似たような背格好の男が走ってきて、開いたままの玄関から室内へ入るのが見えた。
争う声が聞こえる。浅田が慌てて家の中を覗き込むと、あとから入った男が勇を取り押さえていた。なおも暴れる勇が
「放せ、兄貴!」
――兄貴?
家の前にパトカーが集まり、現場検証が行われていた。押し入った”男”はパトカーに乗せられ、警察署へ連行された。浅田も共謀犯として手錠がかけられる。
勇だと思っていた男は、弟の
弟の様子がおかしいと感じた兄は、あとを追ってここまで来た。そして弟の蛮行を目撃して止めに入ったというわけだ。
兄とそっくりな弟に、浅田はまんまと騙された。
「浅田さん……」
本物の勇が話しかける。
「やあ、ひさしぶり。立派になったな」
「本当に申し訳ありません。弟のせいで……、いえ、すべては僕がきっかけで浅田さんを巻き込んでしまいました」
浅田はまっすぐに勇の顔を見て言った。
「安心したよ。お前だけは昔と変わってない」
勇も二十年前を思い出す。あの日、パトカーのサイレンを聞いて、逃げ出してしまったこと。浅田は自ら警察を呼んだ。勇のことはひとことも話さずに、すべての罪を背負ってくれた。
「あの時よりは強くなれたと思っていたんですが、またこんなことに……」
勇が手首の手錠を見る。その視線に気付いた浅田も重く冷たい手錠を見た。
「なんてことはない。また試験を受ければいいんだよ」
時を跨ぐ試験 中里朔 @nakazato339
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