酔いどれおねーさんが恋をして……別れる話

穀潰之熊

青夏0

Wish for Happiness

 夢。

 あたしが見る夢は、大体実際に起きた出来事だ。


「あんたさぁっ! 言っていい事と悪い事の区別、出来ないわけ⁈」

「いい加減にしてよっ、下手くそのくせにっ!」


 よく覚えてる。これは学生時代、バンドが崩壊した瞬間。

 なんて言ったんだっけな。よく覚えてない……そんなんだから崩壊したんだろうけど。


 ともかく、あたしはちょっとした戯れ感覚で彼女たちの心を傷つけ。

 そして、見限られた。


「……っ! ……ぅっ!」


 頭が痛い。

 痛みに耐えかねて瞼を開くと、熱い液体が食道を駆け上り出した。


「うっ……があっ、ううっ」


 偶然手元にあったコンビニの袋で事なきを得て、口腔に残った液体をアルコールで押し戻す。


「うっ、ゴホッゴホッ!」


 喉が灼けるような感覚と共に、徐々にあの酩酊が戻ってきた。


 普段なら、これでぼうっと出来る。

 現実から遠ざかることが出来た。


 でも今日は、足りなかった。


「や、やだあっ……怖い、怖いよ……」


 暗い部屋に人の気配はなく、自分が生み出したゴミの山ばかり。

 誰もいない、ひとりぼっちの空間。


 こんなところには、いられない。いたくない。


「だ、誰か……助けて……」


 なんとか必死の思いで立ち上がって、千円札だけ握りしめると。

 あたしは駅の方へと歩き出した。

 自分以外の、誰かの温もりを求めて。


◆ ◆ ◆


2020年12月23日 Wednesday PM11:25

小張おはり名気屋なきや武内たけうちほまれ


「おねーさん。そんな格好で寝てちゃ、危ないぜ」


 朦朧とした意識のまま、どれほど経ったんだろう?

 とにかく、顔も名前も知らない待ち人が来た。


「冬なんだから。上着のひとつでも着ないと、風邪ひく前に死んじゃうぞ」

「へへへっ。だぁいじょーぶ、お酒飲んでるから」

「もっと危険だろ、おい」


 瞼を開くとそこは……ゴミ捨て場だった。

 どうやらあたしは、燃えないごみの袋をマットレス代わりに寝てしまったらしい。


「チミも、おねーさんみたいに飲んでみれれ? フワーッと、ばらららららら……」

「うーん。完全に出来上がってしまっているぞ」


 どうやら彼は、おしゃべりが好きみたい。

 最短記録じゃ一言も交わす事なく部屋に連れ込まれたけど……たまにはこういうのも、悪くないかも。


 なんて感傷に浸るのは後にしよう。ここは日本列島第5の島、羅宮凪らぐな島。

 全体的にあったかいところだし、ネットで今年の冬も暖冬だとか言われてた気がする。

 でもさすがに、クリスマスに外で寝てたら凍死する。


 自力で歩く気力すらなかったけど、死にたくないから縋るしかなかった。


「じゃあ、チミィ。おねーさんを安全なところであっためてよぉ」

「ちぇっ。俺は警官じゃないんだぞ、まったく」


 すると、ばさり。

 あたしに人肌の温かみを持つ上着が被せられた。

 なんか布っぽいジャンパー。


 そこら中にドラゴンやら大きな鳥やら、なんだかすごい刺繍が入ったスカジャンだった。

 気が付いてみれば、あたしは上着を着ずにワンピースだけで外に出てたみたい。

 そりゃ、アパートを出た時は必死になってたけど……我ながら、自分の壊れ方が恐ろしい。


「ほら、着なよ」

「うへへー、ありがとー。ありがとついでに、あるけなーい」

「こっ、こいつ……」


 などと言いつつも、彼は背中を向けて屈んでいた。

 着ているものに反して優しいというか、甘いね。


「ほら。行くんだろ? 家どこ?」

「ありがとぉ。あたし、春日谷かすがや惣菜そうざい町に住んでるんだぁ。で……今何時?」

「もう終電まで15分もないよ……始発を待つか」


 彼の上着を羽織ると、その背中へ覆い被さった。

 身体目当ての男は目立つのが嫌いだ。

 だから大抵肩を貸すものだけど、この子は少し珍しい。


 それとも、身体を密着させたい単なるスケベかも。

 ちょっと試してみよう。


「ごめんねぇ、ぺったんこのガリガリで」

「……おねーさん、ちゃんと食べてる?」


 投げ掛けられた問いに、下心は感じられなかった。

 隠すのがうまいもんだ。

 あたしは千円札と引き換えに得た、最後の空き瓶を彼の目前に突き出す。


「これ。一本で、ハーフ・チャージ」

「単なる酒じゃないか。栄養補給にならないぜ」

「クククク、知らないのかい? お酒はアミノ酸・糖質・カロリーそしてアルコールが含まれた完全食だァ……」

「アミノ酸とカロリー以外余分だぞ」


 人間をおぶっているのに、彼の足取りは驚くほどしっかりしていた。

 多分、鍛えているんだろう。体は細めだけど、頼もしい筋肉の強度を背中から感じる。


「まったく、なんで俺がこんな目に……!」

「あはは、がんばれー」


 などと応援しているうちに、彼の足が明るい場所の目前で止まった。

 すぐ背後では車の気配がするし、横をうかがうと普通っぽい人の姿が見える。


 どんなラブホかと思って見上げてみると、そこはホテルじゃない。

 始発までやってるファミレスだった。


「あれぇ? ホテルじゃないの?」

「ほ、ホテルって……あのね、まるで俺が身体目当てで助けたみたいな言い方しないでよ」

「違うの?」

「違うのっ」


 拍子抜けだけど、冷蔵庫とマットレスしかない家に戻るよりはマシかな。

 自分に言い聞かせると、彼の背中に身を預けた。


 なんだか彼が店員さんと一言二言交わすと、お尻がどこかに降ろされた。


「ほら、着いたよ」

「……ここ、暑くない?」

「俺の上着、着てるからだよ。暑いなら返してよ」


 シャツ姿の彼を改めて見る。


 黒髪で全体的に長い……特に前髪は目が隠れるくらい長い男の子だった。

 顔はまあ、95年くらいなら(知らないけど)モテそうな感じ。悪くない。

 ワンナイトの相手としては最高だったのに。


「あー、わかったぁ。おねーさんが薄着でいるのを眺めたいんだ」

「真冬にそんなペラペラなワンピース、いくら最近の暖冬でも怖くて見てらんないぞ……まあ、帰りまでに返してくれたらいいよ」


 素っ気ない態度で返されるのは、それはそれでなんか気に入らない。

 羽織ったスカジャンを広げて……うわ、背中の刺繍はあれだ、鳳凰だ。

 素人目にも凝った作りっぽく見える。


「あんまり雑に扱わないでくれよ? 別珍べっちんのイイヤツなんだからさ」

「へぇ……これ、いくらくらいで売れる?」

「やめときな。不幸が訪れるぜ」

「どんな不幸?」

「チンピラに絡まれたり、後ろからナイフで刺されそうになる」

「具体的だねぇ」

「はっはっは、危うく死ぬところだったぜ」


 ……嘘でなかったとしたら、あたしは結構とんでもない男を引っ掛けたのかもしれない。


 冗談(半分)はほどほどに、向こうのことも知るべきだろう。

 普段ならこんな事はしないけど、ファミレスでおっ始めるわけにもいかない。

 つまり、時間つぶしにおしゃべりをしよう。


「で、チミ。名前は?」

「俺? 志村しむら良介りょうすけ


 一瞬、酔いが覚めたかと思えるほどギョッとした。

 志村良介といえば、春日谷かすがや市で暴れていた暴走族とやり合ったとか、パルクール界隈で伝説を作ったとか、破天荒で有名な学生の名前だ。

 一回り年下でも、ブラックな職場でも、時折ネットでも噂を聞けたほどに有名だ。


 嘘松か都市伝説の類だと思ってた。

 まさか、実在したなんて。


「あの、カス校の?」

「うーん。惣菜町の人にも、俺の名は知れ渡っているらしい」


 ……まさかね。

 女の子を取っ替え引っ替えしてるって噂の人でも、あたしのような場末でアル中やってるアバズレに目を向けるわけない。

 きっと、名前を騙ったナンパ師見習い辺りだろう。


「あーはいはい。そっか、志村くんねぇ」

「うんうん。俺が良介だぜ」


 そういう事にしておいてあげよう。


 あたしと良介くん(仮)が話していると、お水を持った店員さんが寄って来た。


「ご注文はお決まりですか?」

「とりあえず生ァ!」


 と身を乗り出したあたしを良介くんは制した。


「キャンセル。ドリンクバー2つと、皿盛りポテトで」

「ビール! ビール! 冷えてるやつぅ!」


 店員さんはあたしと良介くん(仮)を交互に見ると、


「ドリンクバー2つと皿盛りポテトですね。ごゆっくり」


 と、あたしの注文を無視してそそくさと去って行った。

 酷い、アル中差別だ。


「わー! ぎゃー! 訴えてやるぅ!」

「ビールって、誰が金払うと思ってるんだ……。それよりも、俺が名乗ったんだから、そっちも名乗ってよ」

「えー」

「えー、じゃない。アンフェアだろ」


 そっちこそ、本名名乗ってないくせに。

 とはいえ、呼び名くらいはないと話をしづらいか……だったら。


「おねーさんと呼びなさい」

「いや、だから……まあ、いいや」

「うんうん。人はそうやって成長していくのだ、少年よ」

「絶対適当に言ってるだろ、それ」


 良介くん(仮)の言葉をさらりとかわし、あたしはサーバーからコーラを汲んできた。

 本当ならこんな赤茶色の液体ソフトドリンクじゃなくて、金色のシュワシュワをグイグイとやりたかったけど……妥協してやろう。


 あたしの性根にある暗い影は、まだ大人しくしてくれているから。


「ねーねー、少年。君って確か春日谷南だよねぇ?」

「おう。春日谷南に進学して、今は二年だぞ」

「で、去年だっけ? 文化祭で裸芸やったって、本当ぉ?」


 名前騙りのイヂり半分に尋ねてみた。

 誰かの功名を利用してナンパを考えているのなら、恥も受け入れなければならないのだ。

 あっはっは。


「そうだよ。あれは超ウケたぜ」

「あっはっ……そうなの?」

「うんうん、厳密には裸じゃないぜ。ブロックを二つ手に持って、間の挟んだブロックで股間だけ見せなかったんだ。しかもただの四角いやつじゃないぞ、丸型だぞ丸型」


 裸芸、とまでは聞いていたけどそこまで細かい話は聞いたことがなかった。

 というか、ネットでそんな昔のコントを見た気がする。


「え、マジなの?」

「教師に排除されそうになったけど、触れたら爆発するぞ! って脅しをかけて、ギリギリまで時間を引き延ばしたんだ」

「股間の爆弾が爆発するぞ、って?」

「残念ながら、うしろからカーテン被せられて捕まっちゃった」

「あっはっはっは! 爆弾みたいに処理されちゃったわけだ!」


 実に細かく練られた嘘だこと。

 本当にやってたら退学でしょ。


 とはいえ、冗談としては面白い。

 もしかしたら、今晩はお酒もセックスもなしで越せるかもしれない。


「へぇ。少年は面白い学園生活を過ごしてるんだなぁ」

「おねーさんは? どうだった?」

「おねーさんはねぇ……なかったなぁ。根暗の陰キャだからね、あたし」

「ファミレスで発狂したり、バカ笑いする人が陰キャとは思えないぞ」


 その通り。

 身体をアルコールが巡っている間だけ、あたしは社交の猿真似が出来る。

 頭がバカになっていないと、あたしは人と話すことすらままならない。


 そういう風なのが、壊れてさらにボロボロになっちゃった。


「……」

「どうかした?」

「……いやね、アルコールが足りないかも。暗いこと考えちゃった。お酒頼んでいい? 一緒に飲も?」

「ダメ。それに、俺は飲めない歳だ」

「ちぇーっ」


 酒を飲ませないナンパ師とは、珍しい。


 ……もしかしたら、良介くん(仮)は本当にセックス目当てじゃなくて。

 あたしを純粋に心配して、ここまで連れて来てくれたんじゃ?


 違う、あり得ない。

 そんな男、今まで生きてきた26年間でひとりたりともいなかった。

 いたとしても、あたしのような女には目もくれない。


 話題を変えよう。

 あたしなんかより、彼はもっと面白い話題を持っているはずだ。


「少年はさぁ、お酒飲んだことある?」

「ノーコメント」

「あ、やっぱりあるんだ」

「……今はやめた。カッコつけだったから、味も匂いも好きじゃなかった」

「一緒に飲も?」

「俺の話、聞いてる?」

「そもそも歳のことを言ったら、この時間でファミレスにいるのもヤバいじゃん」

「……あ」


 あたしもさっきまで忘れていたけど、そういえばそうだった。

 良介くんの年齢はよくわからないけど、直感的に18歳以上だと思うけど、なんかダメだったはずだ。

 なにかが、ダメなんだと思う。


「……この話はやめよう。お互いのために」

「うんうん。お互いのために」


 警察に保護されることも考えていたあたしだけど、流石に捕まるのは困る。


 オピ・コーラを一口含んで、すっきりリフレッシュ。さすが痛みも引くクールな味。

 心に漂う暗雲は消えないけど。


「良介くん、ご趣味は? ナンパ?」

「ご挨拶だな……ナンパは、彼女がいない時にしかしないよ」

「じゃあ、今はいないんだ!(グビグビグビグビ)」

「いたんだよ……3時間前までは。なんか……一緒にいると自分が許せなくなる、とか言い出してフラれたんだ」

「ふーん(つまみつまみつまみ)」


 他人の別れ話を聞いていると、お酒じゃないけど喉をとても通る。メシウマ! というやつかな?


「なんか、別れ話楽しんでない?」

「全っ然!(グビグビグビグビつまみつまみつまみ)」

「スゲー飲むし食べるじゃん」


 まともな固形物を口にしたのは、いつぶりだろう。

 相変わらずアルコールの辛味以外はわかんないけど、今は食べられるような気がした。

 もしかしたら胃は受け付けないかもしれないけど、吐くのは慣れっこだ。


 食欲。三大欲求といえば。睡眠欲もあったはずだ。

 あたしは昼間ずーっと寝てるから問題ないけど、良介くんはどうだろう?


「ねー、少年。眠くないの?」

「どういうわけか、長期休暇の間は不眠不休でも平気なんだ」

「……適当言ってない?」

「……適当言ったかも。でも、眠くはないかな。話してて楽しいし」

「へー、中々言うじゃん。格好いいぞぉ、少年。このこのっ」


 口ではこう言える男は掃いて捨てるほどいるけど、おっかしいな。

 良介くんが言うと、どことなく本気に聞こえてくる。


「茶化すなよ」

「まあ、おねーさんは冗談でも嬉しいぞ」

「俺はいつだって本気だぜ?」

「本気だったら、おねーさんおぶってる間にホテルへお持ち帰りするんじゃない?」

「……」


 ポテトにケチャップをディップしながら尋ねると、良介くんは黙ってしまった。

 あっちを見ると、表情をこわばらせてあたしを見ていた。


「あ、引いた? ごめんね!」

「なんというか、よく笑えるよな。十分あり得たのに」

「やってるもん、いつも」

「え?」

「だからぁ……」


 おかしいな。お酒の力が弱まっているせいかもしれない。

 いつも笑い飛ばしているような日常が、喉の辺りでつっかえちゃった。


「あたし、寂しくなったときは思いっきりお酒飲んで……町でひっくり返って寝てるの」

「なっ、なんでそんなことを⁈」

「だからぁ、寂しいからだよ。そうしてたら、男が寄ってきて相手してくれるし。割とゴム付けない奴に一晩中メチャクチャにされたりするけど……その間は人肌の温もりが得られるし」

「ゴムしないってレベルじゃない奴もいるだろ?」

「今のところは、いなかったな。いや、忘れてるだけでいたかも」


 良介くんの表情の険しさはどんどん増していった。

 同じようなことを話したホストっぽい男も険しい顔をしていたけど、それだけだったかな。

 うんうん、そうか、辛いね。話終わった? じゃ、股開いて。って、具合で。


「警察に保護されたら?」

「警察は……おねーさんが警察について教えてあげよう。警察さんは動けないような酔っ払いを見つけたら、保護しなきゃならないのだ」

「知ってるよ。でも家族とか職場に連絡いくだろ? 困らないの?」

「あたし生保ナマポの手帳持ちだし、家族とか友達とか、いないから。だから酔いが完全に抜けるまで牢屋に入れられちゃうんだ。話し相手には困らないけどさぁ。あはは!」


 確か、警察の人はトラ箱とか言ってたっけ。

 警察署の奥の方にある、壁と床にマットがびっしりと張り付けられた狭い部屋。

 結構お世話になってるから、担当の人とはもう顔見知りになっちゃった。


「……俺は女性の性欲を汚らわしいとか、操を固く守るべきだとか、そんな古臭い感性を持ち合わせちゃいない。だけど、もうちょっと自分を大切にするべきだぜ」

「大切、ねぇ……少年は青臭いなぁ」


 大事にされるほど、あたしに価値はない。

 そもそも、あたしの価値って何? ちょっとした酒代と交通費で抱けるリビング・オナホ?

 最低限の仕事にすら適応できず、国から貰えるお金を一ヶ月で全部お酒にするような女に、価値なんてないんだ。


「あのねぇ、少年。おねーさんみたいなダメ人間を口説いたってしょうがないよ? お酒飲んでたら他人にダル絡みして……お酒抜けてたら抜けてたで、余計なことしか言わないのに、必要な事は言えない陰キャのコミュ障で……どうしようもない女なんだからさ」


 手が、震えてきた。

 アルコールの高揚と酩酊が抜けて、現実が押し寄せて来る。

 上昇、安定、自立。希望なんて一つもない、暗い未来が。


「……俺はおねーさんの事、何も知らない」

「うん。そりゃそーだろうね」

「でも一つだけ確かな事がある。おねーさんの自認が酷い事は置いといて、そんな自分に近づくなって言える優しさはある」

「……これって、優しさかなぁ?」

「そうだよ。おねーさんも知っての通り、少し前の俺はろくでもない奴だ。今も、まともになったとは言い難い」


 有名人にもやっぱり種類ってものがある。

 良介くんの噂は、どちらかというと悪名に近い。

 悪名は無名に勝る、とは言うけど。


「だけど当時の俺は近づくな、なんて言えなかった。そうするしかなかったんだ。だから助けろよって感じで……加害者のくせに被害者仕草してたからさ。みっともないプライドが邪魔してたんだ」

「あたしのは、違うよ」

「違くないさ。どっちも、自分の不幸に酔ってるんだ。違いは出力が暴力や自堕落ってだけで」

「……不幸に酔ってるとか、ストレートにキツい事言ってくれるね」

「でも、酔ってるだけじゃ状況は悪くなるばかりだ」


 そんな事は、言われなくてもわかってる。ずっと前から知ってる。

 でも、出来ない。出来る姿が思い浮かばない。

 だから、アルコールだけが現実を遠ざけてくれた。


 いや、遠ざけたんじゃない。自分の目を潰していたんだ。


「出来る側の意見、って感じだね」

「俺だって一人じゃ出来なかったよ。周りに諭してくれる人がいたから、今の俺がいる」

「いいなぁ……あたしにはいないよ、そんな人」

「何言ってるんだよ。俺がいるじゃないか」


 そういえば、身の上話で会話が成立したのは初めてだったかも。

 大抵の男はベッドの上でドン引きして適当にうなずくだけ。

 良介くんのような事を言う男も居たけど、次の朝にはいなくなってる。


 この子は……どうなんだろう。


「……ごめんね、良介くん。ワンナイトの予定だったのに、辛気臭い身の上話をしちゃってさ」

「だからぁ、俺はワンナイトとかそういうのじゃないっての」

「セックス目当てじゃなかったら、何が目的なのさ? さっきはナンパを否定しなかったくせに」

「ナンパと……セックスはイコールじゃないだろ?」


 あ、セックスで変にどもった。

 さては良介くん、見た目と態度によらず童貞だな?


「よっ、童貞!」

「二度も言うな、こら」

「えっ?」

「あれれ? ……ごめん、ちょっと幻聴が」


 もしかして、あたしは無意識に思った事を口走ってたんだろうか。

 まあ、それはともかくとして……良介くんって、本当に童貞なんだ。


「本当に童貞? 女の子を取っ替え引っ替えしてるって噂なのに?」

「取っ替え引っ替えとは失礼な。いや、実際彼女はいたことあるよ、複数回。でも、長続きしたことがない」

「へぇ、どこまでやったの? クンニとかした?」

「お下品だな……まあ、そうだよ。本番以外は、やったよ」

「何人と?」

「……別の話題にしない? ほら、おねーさん辻村たくろう先生の作品に興味ない? 『同級生』の作者さん」

「あたしは、本よりも良介くんのえっち遍歴の方が興味あるなぁ」


 といいつつも、学生時代に本は頻繁に読んでいた。やることがないから。

 良介くんの言う辻村たくろうの『同級生』も読んだことがあるし、『拙者の主君はIT系』とか……あ、これは別名義だったか。

 ていうか、意外だなぁ。良介くんって、本好きなんだ。


 もしあたしが、壊れるこうなる前に出会えてたら……同じぐらいの年頃だったら。

 本の話題で盛り上がったり出来たのかな。


 ……いやだな。これじゃまるで、あたしが良介くんのこと意識しているみたい。

 そんなの、学生じゃあるまいし。10年前じゃん。


「さっきは、女はカタく生きろとか古臭いぜー、みたいなこと言ってたのに。女の下ネタには乗れないの?」

「それは話が違うだろ? そりゃ、誰が下ネタを話そうが自由だけどさ……女の子の下ネタって、なんというか生々しくて引いちゃうんだよ」

「へー、意外と硬派」

「硬派とかじゃなくて、単なる好みの問題だよ。おねーさんだって、あんまりしたくない話題とかあるだろ?」

「まぁね」


 あたしだって、確かに苦手な話題はある。

 貯蓄とかお酒の値上げとか家賃とか……お金の問題ばっかだな、あたし。


「逆にさ、おねーさんは何が好きなの?」

「えっ、あたし?」


 良介くんの問いに、あたしは親指と人差し指で摘まむようなジェスチャーをした。


「……一応聞こう、なに?」

「やだなぁ、お酒に決まってるじゃん」

「いやほら、もっと他にあるだろ? 例えば、学生時代にやってた部活とか……」

「部活、かぁ……」


 十年以上前の記憶。

 確かに当時は楽しかったけれど……


 終わりよければすべてよし、という言葉がある。

 裏を返せば、終わりが悪ければ全部ダメってことになる。


 あたしの場合、過程が楽しくても結末が最悪だった。


「あたしさ、こう見えて学生時代はバンドやってたんだよね」

「へぇ。ロック?」

「ヘヴィ系のロック。あたし、昔からコー・リッツが好きでさ。それで始めたの」


 コー・リッツ。

 そうだ。あたしが小さい頃、斜陽だったアメリカのヘヴィ系メタルで名を挙げた伝説の日本人ロックシンガー。

 今でも世界中を飛び回るくらいの有名人だけど……良介くんは世代が違うかも?


「あ、ごめん。良介くん、コー・リッツ知ってる?」

「ああ。友達が大ファンだから、暇なとき聞かせてもらってるよ。あいつが一番好きなのは確か……『In Real Time』だったかな?」

「おー、原点にして頂点。代表曲じゃん……この薄汚れた都会にー、素肌を晒したぁい!」

「うおおおおっ」


 収録されているように、良介くんが合いの手を入れた。

 そうだ、懐かしいな……バンドやってた時、メンバーと一緒にこんな感じで盛り上がったっけ。


「なんだ。さっきは誤魔化したのに、結構楽しそうに話すじゃない」

「……楽しかった。それはまあ、そう。だけどさ、終わり方が良くなかったんだよねぇ」


 何を言ったかは忘れたけど、無神経なことを言って、他のメンバーを怒らせて絶交。

 これは調子に乗っているかいないかの違いで、あたしはシラフでもそういうところは変わってない。


 ただ、お酒が入っていれば失敗したことを忘れられる。

 怒らせちゃって絶交されても、それを忘れてしまえばノーカンだ。


 だからあたしには、アルコールが必要なんだ。


「そっか。悪いこと聞いちゃったかな」

「……良介くんがつまんない事言うから、おねーさんお酒欲しくなってきちゃった。頼んでいい?」

「始発まであと1時間30分、もうちょっとがんばりなよ」

「え? もうそんな時間?」


 きょろきょろと店内で時計を探すと……どこにもない。

 ならスマホ。ワンピースのポケットを……そういえば、この服にポケットはない。

 もっとも、普段からスマホも財布も持ち歩かないんだけど。


「ほら、4時25分」

「あ、本当だ……」


 呆れたのか、良介くんは携帯のデジタル時計を見せてくれた。

 ただその携帯というのは……


「が、ガラケー……」

「うるさいな。機能するんなら、なんだっていいだろ?」


 彼の見せてくれた二つ折りのガラケー。使ってる人久々に見た。

 いや、中学ぐらいの時に見たような、見なかったような……

 最後に見たのは確か……中学か高校の頃だったような?


「今時ガラケーなんて、おじいさんおばあさんしか使ってないよ?」

「そんなことはない、ビジネス用だって使われてるぜ? ……ともかく、俺様にはネットみたいな軟弱なものは必要ないんだ」

「さっき古臭い考え方がー、とか言ってたじゃん。ド直球に老害染みた発言だよ、それ」

「あれはあれ、これはこれ。俺は俺だ」


 まあ、良介くんの趣味は尊重してあげよう。あたしは年長者なので。

 と、そういえば。時計の隣にあった日付で思い出した。


「そういえば、今日ってクリスマスだっけ」

「イヴだよ、イヴ。前日で、本番は25日の明日だよ」

「どっちでもいーよ、そんなの。良介くんって、誰かとクリスマスを過ごしたりするの?」


 別に、良介くんが誰と過ごそうが関係ないけど。

 それでも、残りの一時間半を潰すために話題が欲しい。


「……そうだなぁ。今年はウチで過ごすかな」

「へぇ。彼女さんとかいないの?」

「だからぁ、俺はおねーさんと会う直前にフラれたのっ」

「あららー、そうだったっけ?」


 そういえばそんな事を言っていたような、言ってないような?

 酔いが覚めてきてるくせに、変な所で頭が働いていないから困る。


 でも予定がないのは、あたしも似たようなものだ。


「ねぇ、良介くん」

「なに?」

「おねーさんも、実はヒマだったりするんだ。もう一度、あたしの時間つぶしに付き合ってくれない?」


 家に帰っても、あたしを迎えてくれる人なんていない。

 お酒を入れる冷蔵庫と、寝転がるためのマットレス。

 それと、昔の職場から掛かってくるような気がするスマホ。


 あそこでじっとしていたくなかった。

 色んな人々が幸福な顔を浮かべている時期に、暗い部屋で過ごしたくなかった。


 あたしだって、幸せな顔をして明るい所にいたかった。


「いいけどさ、おねーさん大丈夫? 俺と話してて、ずっと寝てないけどさ」


 そう指摘されると、なんだかウトウトしている自分に気づいた。

 昼間は寝てて、深夜に気絶してても、さすがに眠くなったみたい。


 ……久しぶりだな、お酒抜きで眠くなるなんて。


「うーん、ちょっと眠いかも」

「なら、一旦帰って休んだ方がいいぜ」

「ホテル……」

「そんな金はない。それよりも、いい時間だからそろそろ出ようぜ」


 良介くんの視線を追うと、窓の外は明るくなり始めていた。

 歩いている人には通勤してるっぽい人もいる。そんな人が見えるくらいには、いい時間みたい。


「おねーさん、確か惣菜町に住んでるんだっけ。俺は負川まけがわだから、送ってくよ」


 あたしの住んでる惣菜町はLR中央線負川駅の北にしばらく行った所にある。

 良介くんが住んでいるという負川町の北隣にある町だ。

 ……そうなると。あたしが働いていた頃、あたしはずっと良介くんの住む町を通って通勤していたことになる。


「……世の中って、狭いようで広いんだね」

「どうかした?」

「ううん。あたし、前の職場に行く時、LRに乗ってたからさ。でも、お互い初めて会ったのは、さっきだから……」

「ふふん。運命の出会いってやつだな」

「えっ、へへっ……そうかな」

「……調子狂うなぁ。ま、いいや。一応これ、俺の連絡先だから」


 そういうと、良介くんはテーブルのナプキンにアンケート用のボールペンで連絡先を書いて渡してくれた。


「なんか、30年前って感じだね。こういうの。今時は、電話番号なんてほとんど意識しないし」

「捨てたり汚したり、洗濯しないでくれよ?」

「う、うん……大事にするね」

「いや、それもどうかと思うけど……」


 時間潰しも終わって、あたしたちは会計のレジに向かった。

 そこで、気づいてしまった。


「あっ、あたしっ……お金、持ってない!」

「知ってる。そのワンピース、ポケットないし」

「どっ、どうしよう! お金っ、お金なくてっ、お会計できないよっ!」


 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう

 お金がお金がお金がお金がお金がお金がお金がお金が


「落ち着きなって。俺が立て替えるからさ」

「でででもっ、あたしがっ、良介くんをっ……」

「ちゃんと後で返してくれればいいからさ」


 そう言って、良介くんはあたしの分も含めて支払ってくれた。


「ごめんねっ、本当にごめんねっ。絶対、絶対返すから……えっと、620円!」

「それに……電車賃も上乗せかな」

「あっ……」


 そうだ。帰りにはLR中央線に乗って帰るから……また250円掛かる! これだけでお酒買える!


「ひぃっ、ひぃっ……合計770円」

「……870円じゃない?」

「ピィッ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」


 あんまりにも申し訳ないまま、あたしは会計中ずっと頭を下げるしかなかった。


◆ ◆ ◆


 それから15分ほど掛けて名気屋駅に向かって、LR中央線に乗って20分ほど。

 通勤客の波を逆行しながら、あたしたちは負川駅にやってきた。


 北口の陸橋からルネッサンス・ビルヂングの脇を通って、地面に降りる。

 するとそこは、負川駅前商店街。通勤する時、いつも通っていた商店街だ。

 惣菜町はここを通り過ぎて、国道91号線を横断した先にある。


「ふぅ、負川に戻ってきたぞ。おねーさんは、惣菜町だっけ?」

「う、うん……」


 良介くんは、負川。この辺り住み。

 そこまで知ったのに、良介くんはあたしの事を名前すら知らない。


「どうかした? 送ってこうか?」

「ああ、いやっ、あのっ……」


 良介くんに家まで教えるのは……まだ嫌だった。

 でも、あたしだけが良介くんの事を一方的に知ってるのは、フェアじゃない。

 そう思った。


「あっ、あたしっ、おねーさん、じゃなくて……」

「うん?」

「あたしっ、名前、名前は、涼宮すずみやさわみって言いまつっ!」


 ああっ、かかっ、噛んだ……肝心な所でっ、みっともないタイミングでっ!

 ヒィイイッ!


「涼宮さわみ。それがおねーさんの本名なんだ」

「うううん」

「……本名、なんだよね?」

「そっ、そう。本名……」

「ってことは、ご先祖さんは小張城辺りの人か」

「えーっと、し、知らない」

「いやさ、涼宮って姓の人、本州にいないって話思い出してさ」

「そー、なんだ。この辺りだとたまに見る名前だから、意識したこと、なかった」


 先祖、お父さん、お母さん。

 そういえば仕事を辞めてから、ずっと連絡を取ってなかった。


 でも、あの人たちはいいかな。

 仕事辞めた時も、生保の審査の時も、ずっと無視されてばっかりだったから。

 多分今さら連絡取っても、まともな言葉なんて聞けない気がする。


「さて、じゃあさわみさん。改めて、家まで送ろうか?」

「だっ、大丈夫。一人で帰れるから。えっと、一休みしたら連絡……夜くらいになるかもしれないけどっ、連絡するねっ」

「うんうん。それじゃあ待ってるぜ」


 これ以上、良介くんの負担になりたくない。

 その一心で久々の明るい帰路を歩いて……アパートの階段を昇る。

 昇る、鍵は……普段からしてない部屋の扉を開く。


 丸一晩時間を空けたせいで、嗅ぎなれた部屋の臭いが際立ってる。

 瓶や缶から垂れて染みこんだお酒の残りと、掃除し損ねて染みついたゲボの異臭。


 こんな部屋の近くに、良介くんを連れて来たくない。

 知られたら、最悪で……最悪で……


…… …… ……


◆ ◆ ◆


志村良介

2020年12月24日 Thursday AM7:45


 ねぐらに到着した良介は、まず部屋の扉を開くと出入り口の脇にあるラジカセから曲を流す。

 そして部屋でお気に入りのポジションに向かうと、そこで仁王立ちする。

 ここまでが、志村良介の奇妙なルーティーンだった。


「ふぅ。色々あったけどようやく戻って来たぞ」


 そうして安堵すると、ひとまず着替えを始めるのだ。


「そう、着替えを……あれれ?」


 上着を脱ごうとすると、良介は自分が半袖シャツのままだと気づいた。

 考えてもみれば、件のおねーさん───涼宮さわみに上着を貸したままではないか。


「……しまった、さわみさんに上着を貸したままだった」


 致し方のない話である。

 もし返してもらうとすれば、それは彼女にペラペラなワンピース一枚でこの寒空を歩けと命じるに他ならないのだ。

 ああ、きっと身体が冷え切って、気の利かない良介に強く失望して振られてしまう事だろう。


 嗚呼、愚鈍な志村良介。

 だからお前は真実の愛など掴めない。掴む資格がない。


「うるさいな、そんなことわかってるよ。どうせ、後でデートなんだ。その時に返してもらうよ」


 返してもらえれば。そしてデートがあればの話である。


 彼女は良介が羽織っていた別珍のイカすスカジャンに並々ならぬ興味を見せていた。

 むろんこの興味とは好感ではなく、金銭目的の値踏みである。


「やめろ。確たる証拠もないのに女の子を悪人扱いするな」


 この自己批判の精神たる私が忠告して、お前は何度窮地を逃れて来た?


 そもそも、私はお前自身なのだ。

 私がそう忠告するということは、内心では志村良介も涼宮さわみを警戒しているのだ───。


「……ふん。俺のくせに、わかったような口を叩きやがって」


 私はお前で、お前は私なのだ。

 お前程度の能力で、他人の内心を推し量るなど到底不可能。

 ならば、すべてを疑ってかかるしかない。


 そもそもの話。

 ゴミ捨て場でごみ袋をマットレスに寝るような女は、信用に値しない。

 道理に聞こえるな?


「あーあー、うるさいうるさい」


 良介は自身の欠点から目をそらすためにベッドで横になった。

 もちろんふて寝したところで現実は何も変わらない。


 もし学習机と向き合って勉強を───冬休みの課題でもいい。

 とにかく勉強をするのならば、私は黙るだろう。


 私は自己批判の精神だが、理不尽な総括をする存在ではない。

 それが正しいと思っているのならば、潔く非難の矛を収めて静観しよう。

 勉学に励むはまさしく、批判すべき行いではないのだから。


 しかし───しかし───


…… …… ……


「……今何時だ」


 意識が戻って早々に俺は腕を伸ばして、腕時計を拾い上げた。

 12/24 Thu PM6:10……やばっ! 寝過ぎたっ!


「さわみさんから連絡は……来てないな」


 おはよう。いや、こんばんは。

 時間が空いているのならば課題をやるべきだ───酒臭い女など、人生における放置すべき存在で上位に位置する。


 イカすスカジャンは残念だが、諦めるしかないだろう。

 お前は一張羅いっちょうらを持ち逃げされたのだ。


「ふん、大して会ってもいないのに人を判断するな。でも、課題については……そうだな。さわみさんから連絡が来るまで、仕方がないから課題を進めてやろう」


 態度は気に入らないが、行動に移すのなら及第点である。

 良介はいつさわみから連絡が来てもいいようにマナーモードを解除した。

 そしてもちろん、己が強く持つ自己批判の精神に自我を明け渡しても良いほどに、強く、つよーく感謝した。


「待て。誰も感謝なんぞしとらんぞ、こら」


 いいや、お前は私に感謝しているのだ。ふっふっふ。


 とにかく、課題だ。

 カバンからちょっと皺の寄ったプリントを取り出すと、鉛筆を握り締めて───


『ヴー、ヴー』


 携帯電話が……震えた。

 慌ててそれを手に取り、応答する。


「もしもしっ」

「りょりょっ、良介くんっ! ごめんなさいぃっ!」


 さわみだ。何やらものすごく慌てた様子だが、何らかの事情で連絡が遅れた旨を謝っているのだろう。


───どうだ、持ち逃げじゃなかっただろ?


 うるさい。私の領域に踏み込んでくるな。

 良介は鉛筆を放り投げ、カバンにプリントを押し込んだ。


「さわみさん、連絡待ってたよ。どう? デートは行けそう?」

「はいっ、今っ、名気屋駅めいえきっ、電車で着いたところでっ!」

「……はぁ?」

「ヒッ⁈」


 暴言を確認。-10000点だ。愚かな志村良介め、内省せよ。


 つい口から出た粗暴な本心を誤魔化すために、良介は咳ばらいを一つ。


「ごめん、タンが……オホン! えっと、今どこだって?」

「だだからっ、あたしつい寝過ぎちゃって遅くなって……だから誉に行こうとしてて……」

「……俺は隣の負川町の人間なんだから、負川駅で待ち合わせればよかったんじゃ?」


 しばしの間、沈黙が流れた。

 電話の向こうでダイヤル・アップ接続音が聞こえる気がする。

 いや、本当に聞いたことはないが。


 返事をただ待ち続けるのも芸のない話だ。

 良介はこの間に出かけようと、予備の上着を探し始めた。

 なにせ、普段使いのスカジャンはさわみに貸してしまったのだ。


 窓のカーテンレールにもう一着。

 不織布の埃除けの下に、施設の院長のお下がりである簡易ジャンパーが掛かっている。


 本来ならばあの男のいる海自の服など着たくもないが、女の子のためでもないのにシャツ一枚で真冬の寒空の下へ行く気にはなれない。


 真っ黒なジャンパーを羽織って、改めて尋ねる。


「さわみさん? 大丈夫?」

「あっ、あばばばばば……」


 どうやら相当なショックを受けているらしい。


───こりゃ、落ちつかせないと会話にならないな。


 そう分析した良介は、機転を利かせる事にした。


「えーっと、俺も今から誉に向かうから。待ってる間、お酒飲んででもいいからさ」

「あばっ、お酒っ」


 酒と聞いて正気を取り戻すあたり、本格的アル中である。

 これで多少、会話の余地が生まれたと見てさらに続ける。


「じゃあ、須屋大通すやおおどおりの未来の泉で会おう。それと、あんまり飲み過ぎて前後不覚になっちゃ、デートの時困っちゃうぜ」

「あっ、はっ、ははっ……の、飲む……お酒、飲む……待ってる……お酒」


 ブツリ。通話は不躾に途切れた。


「……大丈夫だろうな、おい」


 嫌な予感しかしないが、約束してしまった以上は破るわけにもいくまい。


「ふん、きっとさわみさんは大丈夫だ。さあ、誉にレッツ郷田!」


 さわみの食事代と交通費でさらに薄くなった財布をポケットに押し込むと(五千円しかない)、良介はねぐらの扉を開いた。


 もちろん、ラジカセの音楽を止めることを忘れずに。

 SDGsはコツコツと。


◆ ◆ ◆


 一時間後、良介も誉の地に追いついた。

 クリスマス・イヴのディナー時なだけあって、周囲はカップルや家族連れでごった返していた。

 もちろん、良介のように相手を求めて街を彷徨っている人間もゼロではない。


「俺は彷徨ってない、ちゃーんと特定の相手がいるんだ」


 果たして、彼女とは何日保つことやら。

 などと時間潰しに妄想を相手にしていると、須屋大通の中心地である未来の広場が見えてきた。


 ここは巨大な噴水である未来の泉を中心とした広場となっており、やはり待ち合わせと思わしき人影を多く見ることが出来る。

 しかし、人が多ければその分種類も増える。

 種類の多様性は時に、ロクでもないものも含まれてしまう。


「ね、いいじゃん? どうせ今日もヒマなんだろ?」

「いや、だからさぁ。先約、あるし……」


 髪の毛を白金に染め、派手な白コートを身につけた細身の男。

 偏見になるかもしれないが、後ろ姿から一目で「ホストっぽい」という印象を抱く男だ。


 それが、噴水の淵に腰掛けるさわみに言い寄っていたのだ。


「お前に先約なんて、いるわけないだろ? アル中のタダマンなんかに」

「……」


 ホストという生き物が嫌いだ。

 女の子を誘惑し、金を貢がせ、パパ活という蟻地獄へ引き摺り込む外道だ。


 よく知ってる。それで俺は大切な人を失った。


 ホストっぽい奴の背後に立つと、さわみさんが俺の存在に気づいた。


「あっ……」

「うっ」


 さわみさんの動きで警官か何かと思ったのだろう。

 ホストはギョッとした様子で振り返った。


 そして、安堵の息とともに笑った。


「なに、君?」

「俺が先約の人」

「はぁ?」

「だからぁ、俺がその先約なの」

「誰よ、君?」


 俺にホストの知り合いはいない。この男の顔も見たことがなかった。

 なら、新人ホスト辺りだろう。


「知りたい?」

「はぁ。いーわ、別に」


 なんであれ、敵だと判断したようで。

 露骨に剣呑な雰囲気を漂わせ出した。


「んで、なに? 正義のヒーロー? おんにゃのこに手を出すなぁー、って?」

「ヒーローの引き立て役って自覚はあるんだ。賢いねぇ、きみ」


 ホストが息を吸って、視線をしばしば動かした。

 これは来る。意識を切り替え、向こうの体捌きに注意を向ける。


 互いの距離が密着し、息遣いが感じられるほど接近する。

 そして奴は耳元で囁いた。


「邪魔。殺すよ?」

「おいおい、言葉が強いな。光り物でも持ってるのか?」


 ドンっ。左肩に向かって拳が叩きつけられる。

 古き良き・・・・肩パンの文化。チンピラ文化圏では「おはよう」ぐらいの挨拶だったらしい……


「お前殺すのにナイフとかいらねーんだよ」

「じゃ、チンピラそっちの流儀に則って……」


 こちらも、向こうの右肩に向けて拳を叩き込んだ。


「あうっ」


 情けない声を漏らし、三歩後ずさった。


「……は? 何お前、暴力?」

「肩パン返しただけで泣き言? かわいーダサいじゃん」

「は? 知らんし、肩パンにマジになる方がダセーんだよ」


 ホストに限らず、こういった手合いの典型だ。

 加害者のくせに、少し分が悪くなると被害者を気取る。


 これ以上ナメたこと言えないように、この場で上下を理解わからせても良かったが……俺はもう、暴力そういうのからは降りたんだ。


「ダサいって言われちゃった。女の子に下品な侮辱する奴に」

「タダマンはターダーマーンッ! タダでセックスする! 事実ッ! そんなこともわかんねーの⁈ バカなのー⁉︎」

「フリー・セックス目当てなんだ。そんなイキった格好してるのに、意外とモテないんだね。一緒に過ごすお得意さんいないの?」

「は? アホ? 俺が、特別にッ! セックス、してやるって言うの! 望んでないのッ!」


 ほとんど当てずっぽうの挑発だったが、あれだ。

 人は事実無根の中傷よりも、都合の悪い事実の指摘に怒る。というやつか。


「うーん。話すだけ無駄な気がしてきたぞ」

「俺が付き合ってやってんの! お前が! ウダウダ! 言うから! わかるか、ボケェ!」


 周囲に人が集まってきた。

 誰かさんのおかげで、もう警察が来るか来ないかの騒ぎだろう。


 騒音から目を離して、未だ噴水の淵に座るさわみさんを見る。

 彼女は顔を伏せて、背中を震わせていた。

 きっと、泣いているのだろう。


「どこ見てんだよぉっ! おい!」


 蹴りを受け止める。

 スネにジンとした痛みが広がるが、さわみさんにぶつけられた侮辱と比べれば些事だ。


 この痛みで、ちょうど後輩から教えてもらった安全な・・・会話方法を思い出した。

 実践するには距離感もいい具合だ。


「なんとか言え! おっ」


 ホストの喉仏を握った。

 親指と人差し指で軟骨を潰さない程度に、頸動脈の血流を完全に止めない程度に。

 つま先立ちになるくらい持ち上げれば効果的だ。


 これをやられると喉仏の痛みと窒息、それに血流の減少で辛い上に怖い。

 後輩から実際にやられたから、よく知ってる。


「なあ。親から教わらなかった? 『酷いこと言ったら、ごめんなさいしろ』って」

「……ごめん、なさい」

「どこ見て言ってんだ、アホ」


 スネ蹴りを返すと、さわみさんに向けて跪かせる。


「ほら」

「がっ……痛い……」

「一番痛い人のこと考えなよ」

「俺……」

「へぇ?」


 肛門を蹴り上げると、「アオッ」と汚い声で鳴いた。


 ……ダメだな、あんまり暴力的になるとこいつら辺りまで堕ちる。

 もっと明るく、楽しく過ごさなければならない。


 愚かな志村良介、自省せよ。


「……ふぅ」


 さわみへ視線をやると、伏せた顔が上がり始めていた。

 続いて、ホストを見る。


「ごめんなさいは?」

「フーッ……フーッ……」


 この男は反抗のつもりだろう。

 屈辱に耐えるように息を荒げ、口を閉ざしていた。


「りょう、すけくん……もう、いいから」

「あれれ、よかったの?」

「形だけ謝られたって、意味ないし」

「そりゃそっか」


 思い出した。

 学園の教条的で事なかれ主義の強い───言うなれば、ろくでもない教師は形だけでも謝罪させ、事態の収拾にこだわる傾向がある。


 そんな謝罪など当然後に繋がることはなく、同じことが繰り返されるか、あるいはさらに酷くなる。


 現実は学園で度々見てきた。

 正す、などと言えるほど良介は善人ではないが、見える火の粉を払うよう努力してきた。


 だからこそ、言える。

 強制された謝罪に意味などない。

 最近は、春日谷南はとても改善されているので、すっかり忘れていた。


「フーッ……フウウウッ……」


 ホストの呼吸が落ち着き始めた───いや、違う。

 これは呼吸を整えている!


 素早く飛び退くと、良介の足を刃が掠めた。


「フーッ、フッフッ! フーッ!」


 ホストはナイフを振り回しながら立ち上がり、迫る。


「良介くんっ!」

「うああああっ」

「なんだあっ」

「喧嘩だぁっ! ナイフ!」


 固唾を飲んで見守っていた群衆たちが騒ぎ出す。

 しかし、直接的に止めようとする者は一人としていない。


 彼らからしてみれば、画面の向こうの出来事と大差はない。

 違いは、目前で起きている以外にない。当事者意識の欠落だ。

 実際、この光景をスマホのカメラ越しに見ている者は少なくない。


 自分に向けられた暴力は、自力でどうにかするしかないのだ。

 昔のように、いつものように。


「殺す! 殺してやるぅっ!」


 護身用のつもりか、凶器は小さい折り畳みナイフに見えた。

 職務質問を食らえば一発アウトの代物である。


 そして、こんなへなへな太刀筋の刃物でも、斬られれば一撃で死ぬ事態もあり得る。

 武器とは、そういった理不尽を成立させるための存在だ。


 どれだけ後ろに距離を取っても、群衆は逃げて囲むばかりで仲裁に入らない。

 背を向けて逃げ出しても、彼らは道を開けるという行動すら咄嗟に行えないだろう。

 となれば、車道まで一直線に逃げるのも結構な賭けとなる。


 なんとか群衆をかき分ければ、どうにかなるか?

 逃亡は最強の護身だが、今回はよろしくない判断だ。


 噴水の淵に座るさわみに視線をやる。

 硬直してしまった彼女は座ったままの姿勢で逃げるどころか、立つことさえできずにいた。


 動物が車に驚いた姿勢のまま撥ねられるのと一緒だ。

 生物は皆、想像だにしない状況に放り出されると無能になる。それが正常なのだ。


───ああ、カッコよく逆転とか出来ればなぁ。


 刃を大げさに退いてかわし、一定の距離を保たざるを得ない。

 助けが来なければじり貧だが───


 その時、良介はホストの背後に割れる人波を見た。

 あれが何であれ、動きを止めた方がいいだろう。

 良介は振り下ろされた拳を組んだ腕で阻み、刃を止めた。


「フーッ! フーッ……フーッ!」

「お前、口がハッパ臭いぞっ」

「殺すゥッ!」


 と、威勢よく吠えたのが最後だった。


「こっちの台詞ッ!」


 その辺で調達したと思われる看板がホストの後頭部に叩き付けられた。

 ナイフがするりと手から滑り落ち、ワイン色のスーツを着た男が素早く回収した。

 そこからは、文字通りのリンチであった。


 派手なスーツを着た集団が、ハッパ臭いホスト男を徹底的に足蹴にしたのだ。


「この野郎っ、新人が店潰す気か!」

「喧嘩売る相手ぐらい考えろ能無し!」

「仕事増やしやがって、マジで殺すぞ!」


 どうやら、彼の同僚(あるいは上司)は警察よりも先に到着したらしい。

 所属するホストが逮捕されたとなれば、店に警察が介入する口実を与えることになる。


 昨今の情勢では、致命的な事件となる。

 せめて逮捕される前に、一旦身柄を押さえて供述の原稿を考える隙が欲しかったのだろう。


「良介」

「……誰だよ。俺にホストの知り合いはいないよ」


 ワイン色のスーツを着た男と睨み合う。

 良介の記憶には、それっぽい男がいた。

 しかし彼とは全くの別人。


 なぜなら、その男は尊敬できる立派な人物だった。

 ホストのような賤職せんしょくになど、なるはずがないからだ。

 第一この男は、記憶にある名とは全く別の源氏名なまえを名乗っている。


「今回は、あいつの個人的な……暴走だ。だから約束破りじゃない。いいな?」

「約束もクソもないだろ? 俺とお前は全くの無関係なんだ」

「……わかった」


 言葉少なに確かめると、ワインスーツは他のホストを従えながら(ハッパ臭いホストも抱えて)、その場を素早く退散していった。


 相手は組織的な行動ではなく、背後のケツモチとも話をつけて。

 見事、一件落着というわけである。


 素早く退散していくホスト連中を横目に、良介はさわみに歩み寄った。

 ほっとしている様子だが、かわいそうに。

 身体は恐怖で硬直したままだった。


「さわみさん、怪我はない?」

「それはこっちのセリフで……怪我けが、ない……?」


 改めて良介は自分の身体を見た。

 一番危なかった足はズボンが切れる事もなく、手首にも傷や痛みはない。


 空気を和ませるため、良介は股間を凝視し───


「けがなくても大丈夫。いざって時のために、ここは毎日手入れしてるんだ」

「……えっ?」


 渾身のジョークに、さわみはしばし硬直し───

 やがて真意に気付いたのか、破顔して大笑いした。


「ちょっ、あっ、あはははっ! そうじゃないってばぁ!」


 珍しく成功したようで、真面目な雰囲気は霧散した。

 というより、単に下ネタが受けただけだが。


「さわみさんの方こそ、大丈夫? 怪我はない?」

「うん。あたしは……平気だよ」


 その口ぶりは、酒が入っている彼女とは思えないほどに覇気がなかった。

 あの侮辱が尾を引いているのだろう。


「お邪魔虫は行っちゃったからさ。今度こそ楽しもうよ」

「……うん」


 さわみに手を差し伸べ、立ち上がるよう促す。

 そして二人は、夜の街へ───


「悪いが、お邪魔虫その2だ」


 と、不機嫌そうな表情の制服警官二人が行く手を遮った。

 年配のベテラン警官と、若い婦警のコンビ。

 率直に言おう。二人とも良介の知り合いだった。


「あれれ? 巡査長に茉莉まつりさん? 名気屋駅めいえき北口勤務じゃなかったっけ?」

「ふん。間が悪くて、俺らにも要請が来たんだ。話を聞かせてもらうぞ」

「俺たち、これからデートなんだ……せめて明日じゃ、ダメ?」


 本人の言うとおり、まさにお邪魔虫その2である。

 堅物の巡査長に頼んでも仕方がない。

(比較的)優しい方の茉莉巡査に頼むと───


「残念ながら、見逃す事は出来ないかなぁ」

「そんなぁ」

「なるべく早く終わるようにしてあげるから」


 反社ヤクザホストならば逃げてもよかったが、公権力に要請されては逆らいようがない。

 良介はさわみに視線を送り、


「ごめん、もうちょっと待ってね」

「あは、まあこういうのもアニメみたいで悪くないかも」

「……まったく。他人の仕事をダシにしてくれるな」


 巡査長のツッコミは、至極真っ当なものであった。


◆ ◆ ◆


涼宮さわみ

2020年12月24日 Thursday PM8:10


「ふぅ。貴重な日に無駄な時間を過ごしてしまったぞ」

「おつかれー。飲む?」


 警察に色々と話した良介くんに、飲みさしの一合瓶を突き付ける。


「いらない」

「間接キッスできちゃうぞ~?」

「ふん。俺様はその程度で興奮するような、初心うぶな男じゃないんだ」

「……童貞のくせに」

「しいいいいいっ」


 待ち合わせ場所にずっと立ち尽くすのもバカみたいだから、あたしたちはとりあえず未来の広場から南に向かって歩き出した。

 左右には綺麗な高層ビルがずらっと並んでいて、窓の向こうで歩いたり食事をする人々が目に入る。


 あたしが歩きたかった、明るい所。

 でも今は不思議と、そこまで羨ましいとは思わなかった。


「それでさ、どうしよ?」

「誘ったのはさわみさんだろ? なにかプランは?」

「え~? 全然ない。ノープランだよ」

「……あ、そう」


 だめだ。このままだと多分、印象が悪い。

 一口、瓶のお酒を含んで胃に送り込む。

 アルコールのおかげで、あたしを阻むネガティブな考えがぼうっとし始めた。


「なんとなーく……あれで良介くんとお別れしたくなくて、つい……さ」

「ほ、本当? それは、嬉しいなぁ」


 ……自分で言っていて恥ずかしくなってきた。

 瓶に残ったお酒をぐいと一気に飲み干す。

 冷たい液体が通った喉が、胃が、すぐにかっと熱くなった。


「さわみさんがノープランならさ、夕食でもどう?」

「おー、いいねー! ならそこの、出島屋のレストランとかいいじゃぁん?」

「うんうん。それじゃあ、行ってみようぜ」


 この人と一緒に明るい所を歩けたら、どれほど楽しんだろうか。

 そんな事を考えながら、通りの横断歩道に差し掛かると。


「そういえばさわみさん、今回は財布持ってる?」

「んー? 持ってるよ。ほら」


 今回は上着を着ているから、ポケットに入れる余地があった。

 ……しまった、そういえばこの上着良介くんのを借りたままだ。

 まあ、それは後でいいや。


「ふふん。だから今回は、おねーさんのおごりなのだ」

「おお」


 ふっふっふ。大人の経済力を少年に見せて上げよう。

 ……原資は生保だけど。


「で、予算はどのぐらい?」

「予算? 予算はねー……」


 財布を開いて、分厚くなっているポケットを見る。

 野口さんが一人、二人……あとは、受け取っちゃったけど捨て時を逃して入れっぱなしだったレシートだけ。

 小銭は……50円玉1枚と、10円玉が3枚。


「……どっ、どうにかなるなる! だぁいじょうぶ!」

「なんか、すごく不安になる反応だな……」

「ちなみに? 参考だけどぉ? 良介くんって、いくら持ってるわけ?」

「俺は五千円しかないぞ」

「……ひゅっ」


 あっ、あたしの所持金学生未満⁈

 えっ、ATMは……そうだ。前にキャッシュカードごと財布を落としてから、カードと通帳は家に保管するようにしたんだ。

 停止と再発行面倒だったし。


 バカーっ! カードの意味がないでしょうがぁっ!

 あっても大して入ってないけど!


 なんて頭の中で突っ込みしてる暇はない。

 取りに戻るのは……い、嫌すぎる。戻ったら夜中になっちゃうよぉ。


 となると、もう誤魔化すしかない!


「おっ、思うんだけどさぁ。やっぱり人生って、お金じゃないよね⁉」

「どうした急に」

「ほら、だから高級なレストランでおいしいもの食べても、得られない幸福ってあるかな~ってさぁ!」

「……もしかしてさわみさん、お金ない?」

「ぐっ」


 どうしよう。言葉が詰まって、声が出ない。

 ひとまず、口を開けたついでにお酒を……

 そうだ。もう一滴残らず飲み干したんだった。


「ええと、ええっと……」

「俺のおごりでもいいよ、今回は」

「いっ、いいの?」

「ふふん。女の子にお金を払わせるわけにはいかないからな」

「おお」


 ……情けない。

 啖呵を切っておいて年下の男の子、それも学生にお金を払わせるなんて。


 正直、男に奢ってもらった事は何度だってある。

 というか、外食では大抵奢りだ。

 そのあとに、相応の対価は払うけど。


 でもここまで、自分も払いたいと思った相手は初めてだった。


「わっ、ワリカン! 割り勘なら、まあまあなとこ行けそうじゃん?」

「……それもそっか。悪いね、苦学生で」

「悪いのはこっちの方だよ、あたしなんて本当は社会人で……」


 その現実を振り返ると……あたし、なにしてるんだろう?

 自堕落で破滅的な生活をして、学生の良介くんに助けられて。

 挙げ句、ご飯を奢るなんて提案される。


 年上のおねーさんを名乗ったのが、馬鹿みたい。


「ねえ、さわみさん」

「なっ、なに?」

「今日は楽しもうぜ!」


 ニッ、と良介くんは明るく笑ってみせた。

 その後ろで煌めく高層ビルの明かりは、まるで彼が持つ後光のようで……


「……まぶしいなぁ」

「え?」

「なんでもない。そうしよっか」


 確か良介くんの元カノの人は、自分が許せなくなる。

 そう言って別れたんだっけ。

 その気持ちは、なんとなくあたしにもわかる気がした。


◆ ◆ ◆


「あち、あちち……」


 ぐつぐつと煮だった土鍋から麺をつまむと、鍋の蓋に置く。

 名古屋名物の味噌煮込み、だったかな?

 出島屋にはその名古屋で有名な老舗の味噌煮込み屋が入っていた。


 良介くんは店員さんの忠告も聞かずに、鍋から直接うどんを啜っていた。


「良介くーん、舌やけどしちゃうよぉ?」

「問題ない。俺は口だけじゃなく、全体的に丈夫なんだっちっち! ふーっ! ふーっ!」


 まったく。喧嘩になるとあれほど冷静なのに、全然子供じゃん。

 あたしも、味噌煮込みのスープを味わった。

 うん、濃い味が焼酎と合う!


「くーっ! 濃い味がしておいしいっ」

「な、なんか不安を感じる評価だぞ」


 味。そういえば、味を感じたのは本当に久々。

 そうだ。味噌って、こんな塩っ辛い味なんだった。

 でも、それを口にすると良介くんは心配しちゃうから……


「普段はもっと、ベロッベロに酔っ払ってるからね」

「そこまで酔わないでくれよ?」

「だぁいじょうぶ。抑えるからさぁ」


 また良介くんにおぶってもらうのは……

 悪くないけど、何度も甘えたら流石に見限られるような気がする。

 そう考えてしまうと、箸が止まった。


 箸を置いた手が、自然と焼酎のお銚子に向かい……

 ダメだ。お酒は楽しむもので、逃げるものじゃない。


 お水のコップを握って、一口。


「ふぅ。良介くんって、味噌煮込み食べたことある?」

「俺? ……そういや、初めてかも。うどんならちょくちょく食べてるけどさ」

「ふぅん。ま、安くてお手軽だもんね」

「でもウチの場合、数が数だからなぁ。手間がすごいんだ、これが」

「兄弟が多かったり?」


 彼の面倒見の良さを考えれば、長男くらいでも腑に落ちる。

 苦学生なのも、子沢山の家なら納得だ。


「兄弟っちゃ兄弟だけど……あれれ、さわみさんに言ってなかったっけ?」

「? 何の話?」

「いや、俺が施設育ちだって話」

「……少年院?」

「ちっがーう! 児童養護施設……つまり、孤児院だよ」

「えっ……」


 酒が入っている時のあたしは、社交の猿真似が出来る。

 でも所詮は猿真似で、実態は頭がぼうっとして無神経な本性が露わになっているだけ。


 孤児院、つまり親がいない。

 良介くんは単なる苦学生ではなく、親の庇護すら受けられない身の上なんだ。


 それを、少年院育ちなんて……

 施設育ちなんて言ったら、まず孤児院だろうに。


 彼の住む負川町、その駅前商店街のそばにある児童養護施設は有名だ。

 もっと早く、気づくべきだった。良介くんはあそこの人間だと。


 ここまで、酔っ払った頭を恨んだ事はなかった。

 頭の中に漂っていた霧は、どこかへ吹き飛んじゃった。


「ごっ、ごめん……あたしっ、あたし、全然考えてなくって……」

「いいよ。昔の俺って、バレなかっただけって感じだったからさ。そういう冗談と取られたって仕方がない」

「で、でもあれは……ライン越えだよ」

「俺が気にしてないんだから、ラインだって越えてないさ」

「でも……」


 ああ、いやだ。

 どうしてあたしはこうも馬鹿なんだろう。


 ろくに人と話せないくせに、少し話せそうになったら調子に乗って。

 一線を越えた発言をしてしまう。


 昔も調子に乗って壊した。前も考えなしに壊した。あの時はあたしが壊されて。この間は酒で壊した。

 そして今また……無神経で壊した。性懲りもなく。


 今までの失敗が、今の失敗に加勢して。

 頭がぐちゃぐちゃで、言葉もめちゃくちゃで。


「あたしっ、あたしはっ……」

「さわみさん。顔を上げなよ」

「……無理」


 今顔を上げたら、見られる。引かれる。捨てられる。


 でも、良介くんなら。

 もしかしたら、許してくれるかもしれない。


 呼吸を整えて、ゆっくりと顔を上げる。


 視界が閉ざされて、唇に温かい感触を感じた。


 キスくらいは、何度か求められるままにした事はある。

 でもこれは……違う。


 二人の距離が離れると、良介くんは笑みを浮かべたまま口を開いた。


「俺は彼女がいない時は、毎日のようにナンパしてるんだ」

「……」


 知ってる。それにこの手慣れた感じは多分、キスも初めてじゃない。

 でもあたしのようにセックスの延長にある体液の交換じゃなくて。

 もっと純粋な、互いの好き・・を重ねる。そんな綺麗なものだった。


「もちろん成功率は低い。たまに怒鳴られたり、蹴っ飛ばされたりするんだ」

「……」

「この程度でへこたれるほど、ヤワじゃないんだ」


 ああ、なんて強いんだろう。

 物理的な意味じゃなくて、精神的な意味で。

 酒に逃げているだけのあたしとは、全然違う。


「許して、くれるの?」

「はっはっは。許す許さないの土俵にすら立ってないぜ」


 改めて良介くんはあたしに笑みを向けると、向かいの椅子に戻った。


「ほら、味噌煮込みが冷めちゃうぜ」

「……うんっ」


 促されるまま、味噌煮込みを啜る。

 おいしい。そう感じたのは、本当に久しぶりだった。


「やるねぇ、兄ちゃん」


 すると、この顛末を見ていたっぽい隣の席のお爺さんが良介くんに語り掛けた。

 ちょっと下世話な感じの語りに、彼は大胆なドヤ顔を決めた。


「だろ?」


 恥ずかしがりもせずに、堂々と。

 こういうところも、良介くんらしさなんだろう。


◆ ◆ ◆


志村良介

2020年12月24日 Thursday PM9:25


「ふぅ。須屋大通に戻って来たぞ」

「……戻って来たねぇ」


 クリスマス・ディナー(味噌煮込み)を堪能した二人は、再び須屋大通へと出た。

 冬が生み出す容赦のない風がぶうと吹き、温まったばかりの身体を冷やす。


───しかし……思わずキスしちゃったけど、蹴っ飛ばされなくてよかったぁ。


 驚くほど愚かな志村良介は、顔を伏せてしまったさわみにキスをしたのだ。

 いや、愚かだけではない。恐ろしく浅慮である。

 フレンチ・ディナーならまだしも、あの店は味噌煮込み屋である。場を弁えよ。


───フレンチ・キスはしてないぜ?


 黙れ。


「……ふん。そ、それでさわみさん。次はどうする?」


 次。

 互いの好意を言葉で確認した訳ではないが、キスという究極の愛情表現で確かめ合ったのだ。もはや合意を得たも同然。

 ならば。ならば次と来れば……くっくっく。


「うん? エッチでもする?」

「ギョッ⁈」


 あまりにもど直球。お、思わず辺りを確認してしまった……

 じゃない。良介は童貞らしく、浮ついた表情でそわそわした。


「あっはは、かわいい」

「……さわみさん。あんまりおちょくらないでくれ」

「ごめんごめん。でも、否定はしないんだね?」


 その時、さわみの目が妖しく光った───気がした。

 気迫に思わず押されかけたが、良介は男らしく胸を張った。


「うんっ!」

「素直でよろしい……よしよし、ここはおねーさんが一つ、筆下ろしといこうか」


───ごっ、くん……!


 生唾が喉を滑り降りた。

 正直な所、さわみの肢体はセクシーとは程遠い。真逆と言っても良い。


 顔は美人ながら、スカジャンの下にある体躯は痩せぎすで、自称するように胸も小さい。

 しかしながら! 言語化の難しい独特な色香を感じるのだ。

 一歩間違えば共に破滅しそうな。そんな危険な色香なのだ。


───あれれ? おい、女の子を悪く言うなよ。


 自分で思っておいて何を言う。

 では、なにか? お前の想いはその程度で萎えるものだったのか?


「答えはもちろんノーだ」

「どうかした?」

「いや、なんでもない。それで、ホホホホホホテルををををっ……」


 どもりまくっとるではないか。

 そんな醜態を晒して、ほれ。呆れてさわみは笑っているではないか。


「さっきまでの威勢、どこ行っちゃったの?」

「ふんっ、俺は純情な少年なんだ。ででっ、ほ……宿泊施設なんだけどさ」

「あー、それよりもさ。良介くん、今いくら持ってる?」

「い、いまぁ?」


 記憶にある所持金は、先ほどの食事費で1500円ほど減った。

 財布には5000円あったはずなので、残金は約3500円。小学生の算数である。


「3500円ぐらい……かな?」

「うーん。そりゃラブホって安いっちゃ安いけど、それじゃちょっとなぁ……」

「えっ、ダメなの⁈」


 ラブホの前を通ったのは一度や二度ではない。

 しかしその度に、看板にある宿泊と休憩の文字が見えていた。


「きゅ、休憩なら?」

「……良介くん、本当に童貞だったんだね」

「うるせいやいっ」

「仕方がない、ここはおねーさんが解説してあげよう。今日は何の日?」

「クリスマス・イヴの日!」


 クリスマスの前日。去年はらぐな院───施設でチビ共と過ごす事になった。

 今年はやりたいようにやれと院長と従業員から許しを得たので、今年は自由にやれている。


 その院長は病気で入院中なので、今頃従業員の有香とバイトがチビ共を寝かしつけているだろう。


「では、カップル達はこの日、何をする?」

「……パーティーとか、キスとか?」

「良介くんさぁ、さっき自分が何言ってたか忘れた?」


 みっともないプライドが、恥ずかしい言葉を拒んでいた。

 しかし、少し考えるとさわみの言いたい事を理解出来た。


「ああ、そうか……こういう日の夜は、どこも空いてないのか」

「それにどこも特別価格だからねー。ビジホを代わりにしてもいいけど、どちらにせよ諭吉くらいは用意しないと」

「……ちぇっ。野口英世だって偉人じゃないか。梅毒と麻痺の関係を発見したんだぞ」

「あはは、んなこと言ったってしょうがないじゃん」


 そう。愚かな志村良介は知らないかもしれないが、紙幣に描かれた偉人は識別兼偽造防止用のマークなのだ。

 それに、お前如きが偉業の程度を測ろうなどと烏滸おこがましいとは思わないのか?


「……じゃあ、どうしよう。負川に戻る?」

「そうしよっか」


 記憶を巡らせる。

 その限りでは、負川の辺りにラブホの類はなかった───はずである。

 駅前に負川シンボルホテルはあるが、あそこは旅行者向けの施設。言うまでもなく所持金五千円未満で入れるような所ではない。


 名気屋駅へ戻ろうと西に進み始めた時。

 不意にさわみは立ち止まり、良介を振り返った。


「ねぇ、良介くん。聞いていい?」

「なに?」

「その。あたし達って、付き合うって事で……いいんだよ、ね?」


 彼女の頰が先ほどよりも紅潮していたのは、酩酊や良介の勘違いではないだろう。

 なにやら話の順番が前後している気がしないでもないが、改めてその想いを口にした。


「うん。俺はさわみさんがいい」

「……そっか」


 道の先には光り輝く名気屋駅と、そびえ立つセントラル・ツイン・タワーがあった。

 夜の街に浮かぶ灯台を目印に、二人は並び歩く。


「なんで、あたしがいいの?」

「ぶっちゃけた事言っていい?」

「いーよ」

「顔」

「……想像はしてたけどさ。もうちょっとためらえよぅ、こら」


 さわみが良介の肩に拳をめり込ませた。

 もちろん冗談……あでで、結構痛いぞ。冗談だよな?

 冗談ではないのだろう。普通に失礼な発言である。


「そりゃ、顔ってのは容姿のこともあるよ」

「容姿以外の顔って? なに?」


 あの出会い、ゴミ捨て場の彼女を思い出す。


 輪違わちがい公園近くの住宅街。彼女はそこにあるマンションのゴミ捨て場にいた。

 それも、ルールを無視して深夜に捨てられたゴミ袋の上に。

 異臭がしないのは、幸運にも燃えないごみの日だったのが幸いしたのだろう。


 問題は、あの時の彼女の表情だった。


「……あの時のさわみさん、すごく辛そうな顔してた。うなされてたんだと思う」

「お酒でぐっすりだったんだけど……そんな顔、あたししてた?」

「うん。……そうだ、ここで俺がナンパする基準を教えてあげよう」


 先ほどの意趣返しで、良介は偉そうに胸を張った。


「ふぅん……聞こうじゃない」

「俺はナンパする時、つまんなさそうな顔をしてる女の子に声を掛けるんだ……」

「……なんで?」

「笑顔に出来るかもしれないだろ?」


 仕方がないので、私が保証してやろう。

 これは本心である。困った事に。


「……それって、好きな理由に入る?」

「好きな理由に絞ると……やっぱり顔かな」

「キモっ!」

「もっ、もちろん前にも言ったけど、優しいって所も含まれてるぜ?」

「ふーん……ま、でも許したげる。本当にあたしを笑顔にしたから」


 そう言うと、さわみはニッと笑みを浮かべてみせた。

 酩酊しているときの、曖昧な笑みではない。

 優しく、柔らかい笑みだった。


「うんうん。さわみさんは笑ってる方がよく似合うぜ」

「それじゃあたしも、良介くんが……好きになった理由、教えてあげる」

「え、いいよ……恥ずかしいし」

「それじゃあアンフェア、でしょ? ……優しいから」

「俺は金持ってないから、引き出しは出来ないぞ」

「こら。真面目な話なんだから、嫌な茶化し方しないでよ」

「ははは。この通り、全っ然優しくなんてないのだ」


 照れ隠しに関係が壊れかねない発言をするものである。

 幸いにもさわみは気分を害した様子ではなく、


「良介くんって、天邪鬼あまのじゃくだよね」

「……だって、なんか怖いじゃないか。よくわからない内に、褒められるとさ」

「自分からナンパするような人がそれ言うの?」

「……」


 その言葉の答えは出せなかった。

 良介がナンパで相手を探すようになったのは前のカス校時代、2年の頃だった。


 当時担任だった近藤先生が……


「浸りすぎー!」

「ぐえっ」


 鋭い拳が良介を襲う!

 が、もちろんこれは戯れの範疇である。威力などない。


 拳が良介の頬から離れると、さわみはそっと身を寄せた。


「その、さ。付き合ってるんだから、もうちょっとあたしの方……見てよ」

「うん……」


 その通り。やや変化球染みた経緯だが、ふたりは付き合っているのだ。

 要望に応じて、良介は彼女と腕を組んだ。


 その腕の細さに、改めて驚かされる。


 その後しばらくの間、沈黙の時間が続き。

 やがて、目的地の名気屋駅。北側の玄関口と呼ばれる黄金時計広場に到着した。


「さわみさん、着いたよ」

「……ごめん、ちょっとうとうとしてた」


 足元が急におぼつかなくなったので、何事かと思っていたが。

 なるほど、半分寝ていたのか。納得は出来たが───


 酔っぱらった女性に寄り掛かられて歩いている。

 知り合いに見られれば、妙な誤解をされてしまうだろう。


「うーん、絵面が最悪だぞ……誰かに見つかる前に負川に戻ろう」


 うとうとしているさわみを起こして、なんとか改札にLAICAを提示させると。

 二人は電車へと乗り込んだ。


◆ ◆ ◆


 こんな日の夜では、負川駅にすら人が多い。

 電車から降りる人々の最後尾で改札口を通ると、北口の広場に出た。


 この時期になると、広場には大きなクリスマス・ツリーが立てられる。

 家族連れやカップルはそびえ立つ大樹を背に、語らいや自撮りを繰り広げていた。


「……ふぅ。ようやく負川に戻ってきたぞ」


 後ろを歩いていたさわみを振り返る。

 電車に空席はなく、残念ながら終始立ちっぱなしでいた。

 そのため、彼女は未だに眠そうで───


「さわみさん、大丈夫?」

「うん……まだ、大丈夫だから」


 アルコールが回ってきた眠気か、あるいはまた別のものか。

 とはいえ、問題がある。

 この後何をするにせよ、こんな状態では何もしようがない。


 まさか───するわけではあるまいな?


「ふん。紳士であるこの俺様が、女の子をモノ扱いするわけがない」


 立ち止まって様子をうかがっていると、さわみはよろよろと歩み寄り───その手を差し出した。

 意図を尋ねるほど、良介も野暮ではない。

 優しく、その小さな手を握り返した。


「それでさわみさん、これからどうするの? さわみさんの家に行くの?」

「……良介くんって、施設のどんなところに住んでるの?」

「俺は……なんていうかな、離れで一人暮らしって感じかな」


 自分の部屋に女の子を呼ぶ。そんな経験は一度たりとも……えーっと、確か一人だけ……だよな、うん。

 そう、年下の幼なじみが訪ねてくる以外にはない。

 今は長期休暇なので、日中でなければまず遭遇しないだろう。


「部屋に、行きたいな……だめ?」

「いいよ。でも、ナイショだぜ?」

「大丈夫、約束は守るからさ」


 酒の入った陽気な態度とも、抜けたおどおどした態度とも違う。

 虚脱と呼ぶよりほかない状態だ。相当な眠気が彼女を襲っているのだろう。


 行き先として、さわみの部屋はやんわりと拒絶されたのだ。

 きっと、戻りたくない理由があるのだろう。


「きょろ、キョロキョロ……」


 広場を越えると、辺りを伺いながら商店街を歩く。

 客観的にも実情的にもこれはお持ち帰り・・・・・の瞬間である。


 名実ともに交際関係と相成ったので、問題はないはずなのだが───

 さすがに施設の部屋に連れ込むのがバレるのはまずい。


 商店街の中ほどで道を曲がり、施設らぐな院の門をくぐる。

 チビたちの食堂であり寝室でもある建屋を見れば、照明は消えて静まり返っていた。


 あの元気っ子どもに意識があって静かに出来るとは到底思えない。

 クリスマス・パーティーで疲れ果てて、今はすやすやと寝息を立てていることだろう。


「よし……チビどもはクリアだ」


 あとは、施設の従業員である有香だけだが───彼女が寝ているチビどものそばを離れるとは思えない。

 よって、こちらの問題も解決だ。


「ふぅ……ステルスで帰れそうだぜ」


 万が一のことを考えてこっそりと、らぐな院の敷地を横断し───かつての物置である、離れの扉を開いた。


「ほら、さわみさん。俺の部屋についたよ」

「……そっか、ここが君の、部屋なんだ」


 とろんとした目で周りへ視線をやると、さわみの身体が良介に預けられた。


「ごめん、良介くん。ベッド借りるね」

「うんうん。いくらだって借りてくれていいぜ」


 さわみに肩を貸しながらベッドまで歩き、その身体を横たえさせた。

 ついでに、上着をそっと脱がせる。


「……ごめん、そういえば借りたまんまだった」

「帰りも着てっていいよ。ポケットない服だと不便だろ?」

「うん……」


 スカジャンを取り払った身体からは、ほてりと匂いを感じた。

 人間の異性が放つ、独特な魅力のある体臭である。


───ごっ、くん。


 思わず生唾飲んじゃった。じゃない、心の奥で沸く律動を感じた。

 今のさわみは完全に無防備で───ワンピースの肩ひも一本を動かすだけで、その肢体は容易くあらわとなる。


 エロスを感じるな?


「……俺は紳士だ。寝込みを襲うなんて卑劣な真似はしないぞ」

「別に、いいよ? あたし寝てるから……身体、好きなように使って」

「……」


 己の欲望に、相手からの肯定が加わった。

 もう止まらない。


 大義名分を得た獣欲は、早速財布を取り出して袋を握った。

 そして上着を脱ぎ捨て、同じベッドに入り込む。


 同じシーツの中で、二つの体温が交じり合った。


「……良介くん。寝ちゃう前に、言うね」

「な、なに?」


 思わぬタイミングに面食らい、良介は思わずその手を止めた。


「あたし、ちゃんとするね? お酒は……完全にはやめられないけど、生保やめて、お仕事して……良介くんを、養ったげる」

「や、やめてくれよ。……俺、依存しちゃうよ」

「だって……負担……やだ……」


 それきり、さわみは静かになった。


「……さわみさん?」

「すぅ……すぅ……」


 安らかな寝息。どうやら、限界が訪れたらしい。


 さわみさんと最初に会った時。

 ゴミ捨て場で眠る彼女に安らぎは見られなかった。


 寝顔から伝わるほどの不安と恐怖に苦しんでいた。

 そんな彼女を、俺は放っておけなかったんだ。


 じゃあ、俺はこの安らかな顔を自分の欲望で荒らすのか?

 本人の許しが出たからといって、そんなのは俺の流儀に反する。

 それに……機会は後でいくらでもある。付き合ってるんだから。うん。


「おやすみ、さわみさん……」


 でも、このくらいはいいだろう。

 彼女にそっとキスをすると、天井を仰いだ。


 こうやって誰かと横になるのは久しぶりだ。

 確か前はのぞみの家で……やめよう。

 頭の中とは言え、さわみさんに失礼だ。


「すぅ……んんっ……」


 などと考えていると、さわみさんが寝返りを打って俺に抱きついてきた。


「養う……か」


 こちらもさわみさんの肩を抱くと、瞼を閉ざす。


 養う、養われる。そんな雑な関係は真っ平ごめんだ。

 でも……俺は、将来何がしたいんだろう?

 どんな職に就くんだろう?


 何も、思い浮かばない。


 それにしても……落ち着けるな。


…… …… …… ……


◆ ◆ ◆


涼宮さわみ

2020年12月25日 Friday AM5:30


 不意に、目が覚めた。

 普段の目覚めといえば、二日酔いの頭痛に叩き起こされるんだけど……


 本当に久しぶり。痛みも不安もない、安らかな目覚めは。


「んんっ……」


 上体を起こして軽く伸びをする。

 あたしが変な夢を見ていたんじゃなければ、ここは……良介くんの家、施設のはず。


 実際、見渡す限りでは見覚えのない部屋だ。


「……あれが全部夢で、良介くんなんて実在しなくて……」


 適当にあたしを持ち帰った男の部屋……だったり。

 隣には、誰もいない。

 布団にぬくもりが残っているだけだった。


「良介、くん……?」


 彼の姿を探す。

 前、右、左、上……下。


「ぐーっ……んむんむんむっ、おぉん……」


 ……いた。

 どうやら寝相の悪い彼は、ベッドから落ちちゃったらしい。


 でもこれで、あれは現実だってわかった。

 いやでも……あの内容は都合のいい夢で、現実の良介くんは……


「や、やめよう。良介くんを、変に疑いたくないし……」


 深呼吸して、ネガティブを吹き飛ばした。


 改めて良介くんの部屋を見ると、あたしのアパートの部屋よりもずっと小さかった。

 全体で四畳もないくらいの、とても狭い部屋。

 良介くんの印象と違って、部屋はびっくりするぐらい整ってるけど……


 家というより物置みたいな建物だった。


「……やっぱり、大変だよね。施設暮らしって」


 ベッドから立ち上がると、床に転がる良介くんに布団を掛けた。

 それでも、彼が目を覚ます気配はまったくなかった。


「何が、長期休暇の間は休まなくていい、よ。ぐっすりじゃない」


 なんだかそんな姿が可愛くて。

 思わず頬にキスをしてしまった。


「んんっ、さわみ……」


 名前を言われて、どきりとした。

 起きたとは思えないけど、なんとなく。

 それだけで驚いた。


「……やだなぁ。あたし、本当に本気になっちゃったみたい」


 改めて自分の気持ちを決めると、良介くんの机へ。

 紙と書くものを適当に見繕うと、伝言をひとこと。


『りょうすけくんへ。メーワクになるといけないから、さきにかえります。上ぎはまたこんど、わたしがちゃんとしたらゼッタイ返すね!』


 思えば、あたしは良介くんの名前をどう書くのかさえ知らない。

 ……自分で言うのもなんだけど、すごいスピード交際だったなぁ。

 でも、恋をするのに時間なんか関係ない! うん。


 ええっと、確かあたしの財布とスマホはスカジャンのポケットだから……あった。

 ハンガーに掛けられていた良介くんのスカジャンをまた借りて、床に放りっぱなしだったジャンパーを代わりに掛けて……


 よし。それじゃあ、良介くんを起こしちゃう前に帰ろう。


「……良介くん。あたし、ちゃんとしてみせるから」


 年上として、恋人として。そして、おねーさんとして。


◆ ◆ ◆


2021年1月7日 Thursday AM7:45


「……思ったより、時間掛かっちゃったな」


 やっぱり生保暮らしが再就職するとなると、結構大変だった。

 ケースワーカーさんと色々話したり、役所とかいろいろ回って書類を書いたり、生保の審査に協力してくれた団体の人に頭下げに行ったり……

 もちろん、就職自体も結構大変だった。


 でも……今のあたしは運がよかった。

 バイトではあるけど、大牧市のHARD ONで就職が決まった。

 楽器が出来る人間を探していたそうで、あたしは本当にタイミングよく応募したらしい。


 学生時代のバンドじゃ、才能のなさを突き付けられたけど……

 でも、ロックで使う楽器の状態はある程度わかる。


「良介くんも、無駄な経験なんかないって、言ってくれたし!」


 直接会う時間は取れなかったけど、電話で良介くんは励ましてくれた。

 就職が決まったときは、一緒になって喜んでくれた。


 だから今、約束を果たすとき。

 上着を返して……どうしようかな。


 海原病院の前を通って商店街の北側から入る。

 この時間でも通勤する人々は多くて、まだ少し怖い。

 でもこの先に彼がいると思うと、耐えられた。


 ついアポも取らずに早朝から来ちゃったけど、もしかしたら施設の方で会えるかな。

 らぐな院のある、商店街の中ほどまで来ると……


「おにい! もう時間ないよ!」


 そんな声と共に、制服姿の女の子が飛び出してきた。

 そういえば今日って始業式の日だっけ。

 でも良介くんと同じ、施設の子? ……おにいって。


「ちょっ、待てって恵理子! 鍵ィ!」


 慌てて出てきたのは……彼だった。

 自転車を押して恵理子と呼んだ女の子を追う彼。


「おにいが悪いんだよ! 始業式なの忘れて寝てるんだもん!」

「それは……しょうがないだろ」


 恵理子ちゃんが、良介くんを振り返る。

 その目を見て、あたしは知ってしまった。


 あの子は、恋をしている。

 恋い焦がれている人を、あの子は見ている。

 あたしと同じ感情を向けているから、すぐにわかった。


 それはすごく真っすぐな感情で、綺麗で、耐えられなかった。


 あたしは、卑怯だ。

 あたしは良介くんの優しさに付け込んで、身体と経済力で誘った。


 青臭い純真さを、青春の恋愛を。

 大人の欲望で汚してしまったんだ。


「?」

「なんだ?」


 その声が聞こえて、あたしは咄嗟に隠れてしまった。


 多分、今のあたしの顔はひどい。

 とても、見せられるものではなかった。

 嫉妬で歪んでる? それとも、涙でぐちゃぐちゃ?


 ひとつだけ、確かな事があった。


 あたしみたいな、良介くんよりも一回り年上の女が。

 まともに仕事もせず、酒を飲んで自堕落に過ごす人間が。

 一回り年下の女の子から、いきなり横からかすめ取るなんて。


 そんなの、アンフェアすぎる。


「……何やってるんだろ、あたし」


 情けない。その一言が、脳裏をよぎった。


◆ ◆ ◆


志村良介

2021年1月7日 Thursday AM11:30


「おし。それじゃあ、今日はサヨナラね。明日もちゃんと来るように。特に約一名」


 担任の西田が、ある特定人物に視線をやりながら言った。

 果たして、誰の事だろうな?


「はいはい。ちゃんと来ますよっと」

「うん。それじゃ、解散」


 良介が片手を挙げて回答すると、西田教諭は巨大な腹を揺らしながら退室していった。

 これはHRの終わりを意味し、放課後という自由時間の到来を示す。


「ふぅ。やっとしょうもない時間が終わったぞ」


 周囲の同級生たちも即座にカバンを担ぎ、我先にと教室を後にする。

 その早さは凄まじいもので、気がつけば教室に残ったのは三人ばかりだった。


「……大助、お前はどうするんだ?」


 良介の目前に座るモヒカングラサン野郎の村山大助は、どうやら一部の教科書を机に戻していたらしい。

 手を止めると、良介を振り返った。

 その表情はどこか、機嫌が良さそうに見えた。


「大会が近いから、しばらくはお前と遊んでやれないなぁ」

「……そうか。ハンドボールって三月だったな」


 ハンドボール部次期部長と噂されるこの男だ。

 この大事な時期に、鍛錬は欠かせないだろう。


「悪いけど、もう行くぜ」

「おう、頑張れよ次期首相しゅしょう

「……なんか、主将の字が違ってる気がするんだけど」


 しょうもない疑問を抱きながらも、大助は足早に廊下へと消えた。

 となると。良介は左隣の女を見た。


「今日は遅くまでいるんだな。暇なのか?」


 脱色した髪に、ピンクのメッシュ。

 真っ黒なピアスやチョーカーを身に着けたパンク・ガールは袖田真奈そでたまなである。


 絵に描いたような不真面目女だが、実際に授業態度は不真面目。

 授業の妨害はしないが、授業を無視してスマホでネットサーフィン(死語)をし、時折英語や日本語ではない本を読んでいる。

 それに対して成績は学年首席、全国模試上位、服装規定違反黙認という理不尽。


 真面目でいれば成績もよくなる。

 と考えている大多数の心を折るのに特化したような人物をしている。


「良介、今失礼な事考えたでしょ?」

「いや、全然」

「あたしはこう見えて、努力してる人には優しいのよ?」

「うーん。弱者の心強者知らず……勝手に人の心を読むな」


 それはさておき。


「今日はね……良介が暇なら、付き合ってあげる」

「ふん。いいのか? 今の俺は……彼女持ちだぞ?」


 まるで、世界の覇者であるかのように。

 良介は威風堂々と胸を張った。


「何人目?」

「えーっと……い、いや! 付き合った回数なんて関係ないだろ!」


 この女。どういうわけか、話してもいないのに良介が彼女を作ると察知してしまう。

 いや、結果として話す事になるのだが───ともかく。頭の出来が違うせいか、隠し事が通じないのだ。


 実際、真奈は登校して真っ先にさわみの事を尋ねた。


「……ゴミ捨て場で寝てた女、ねぇ」

「なんだよ、急に蒸し返して」

「別に。ただなんとなーく、見た事ある人のような気がして」

「……そういえば、真奈って誉のサンチョ好きだったな」


 須屋大通の表通りにはサンチョ・パンサという、激安がウリの何でも屋がある。

 そのすぐ裏には輪違公園があり、さわみと出くわしたのはそのすぐそばだった。


 さわみの生息地(失礼)があの辺りなら、もしかしたら真奈も目にした事があるかもしれない。

 なにせあの美人が真冬に、あのペラペラな衣装一枚でぶらついているのだ。

 きっと、良介よりも目立つに違いない。


「どちらにせよ、まともな人に思えないけど」

「ふん。俺様はそんな些事で他人を判断したりしないのだ……それにさ。あんな薄着で、苦しそうな顔してたらさ。放っておけないだろ?」


 もちろん、その裏には相当量の下心が存在するが───こちらも紛れもない本心であった。


「うんうん。良介って、そういうヤツよね」

「そうそう。俺様は寛大で……」

「あわよくばワンチャン狙うスケベ」

「ちっ、ちっがーう!」

「なのに、チャンスが来ても結局手を出さずに終わる」

「……」


 なんとも言い難い評価である。

 交際を始めて、手を繋いで、そしてキス……をしたのだから、手を出している気はするが───


「手を出すっていうのは、あなたのような童貞基準の話じゃないの」

「他人の心を読むなっちゅーに」


 冗談も程々に。二人は帰り支度を終えると、廊下の階段を降り始めた。

 真奈も良介と同じく負川在住者なので、帰り道はほぼ一緒である。


「でもさ。どんなに可哀想な女の子でも、ちゃんと考えて相手しないと破滅するよ?」

「何人も破滅させてそうな格好の女が言うと説得力があるな」

「……うるさい。あたしの話はいいの」


 珍しく真奈は苛立ちを見せて、良介の戯言を遮った。

 これは本当に珍しいことで、触れてはならない傷というやつに思えた。


「……何人か、そういう女の子と付き合った事はあるよ。ちゃんと、俺からさよならしてる」

「その酔っ払い女が、そういうのと同類でない可能性は?」

「そんなの、他人の内心を知るにはどうすればいいかって言うのと同じだぜ? 生皮剥いだってわかりゃしないよ」

「一般的に考えて、一回り年下の男に近寄る女って、ろくな女じゃないよ」

「俺は一般の範疇にない男だぜ。それに、近寄ったのは俺の方」

「じゃあその女があなたを都合のいい暴力装置として使ったり、ATMとして使わないという保証は?」

「……なぁ、真奈。心配してくれるのはありがたいけど、過ぎた心配は単なる失礼だぜ?」


 先ほどの苛立ちからか、彼女らしからぬ感情的な言葉が出てきた。

 その懸念は良介にも少なからずあったが、さわみは違う。


 色々な過去があるとは聞いていたが、会ってもいない人間に侮辱される謂れはないはずだ。


「……ごめん。少し落ち着く」

「ああ。落ち着いてくれ」


 深呼吸をしつつ、県道108号───通称旧国道91号沿いを歩く。

 二人の間を、ごうと冷たい風が過ぎていった。


「うん。ごめん。ちょっと感情的になった」

「どうしたんだよ、真奈らしくないぜ?」

「あたしは……いつも変わらないつもりだけど」

「さては昨日、変なもの食べただろ?」

「そうね。昨日は……何も食べてなかったかも」


 まったく、ギョッとする冗談を言う女である。

 小さな仲違いと仲直りを終える頃には、負川駅前のルネッサンス・ビルヂングが見えてきた。


 そこが見えれば、負川駅前商店街は目と鼻の先である。


「良介は、この後どうするの?」

「ふふん、実はさわみさんの社会復帰のお祝いをする予定なんだ」

「社会復帰?」

「うん。生活保護とかしてたけどそれ全部返上して、アルバイトするんだってさ」

「……」


 そう告げると、どういうわけか真奈は呆然と良介を見つめ出した。


「な、なんだよ」

「いや。良介って、変わらないなぁって」

「いや、俺の話じゃないって」

「いいえ。あなたの話なの」


 話の意図が理解出来ないが───とりあえず、良介は褒め言葉として受け取る事にした。


 負川駅前商店街では、日中に営業している店舗は少ない。

 その実態は店舗の大多数が夕方から営業を始める居酒屋であり、商店街というよりも飲屋街の様相を呈しているためである。


「それで、真奈はどうするんだ?」

「うーん。あなたのバ先は……」

「どうした?」


 突如言葉を止めた真奈。

 彼女の視線の先を振り返ると、駆け寄る女性の姿が目に入った。


「リョーくん! よかった、ちょうど戻ってくれて」


 坂下有香さかしたゆか。らぐな院唯一の従業員であり、良介にとって母親であり───姉でもある女性だった。

 彼女は見覚えのあるスカジャンを抱えていた。


「どうしたの、姉さん? 俺のスカジャンなんか持って」

「さっき、女の人がリョーくんを訪ねてきて……これと、手紙を置いていったの」


 良介のスカジャンを持つ女。

 覚えがあるのは涼宮さわみ、良介が今愛している女性ただ一人だった。


 しかし奇妙だ。

 連絡先を交換したというのに、手紙とは。


「……電話でもメールでもなく?」

「良介って、連絡してもいつも出ないじゃない」

「ふん。いい雰囲気の時に鳴ったらぶち壊しだからな……どれどれ」


 真奈からの茶々を受け流し、二つ折りの紙を開いた。


『りょうすけくんへ。

おねーさん、君にあきちゃった。


いつもレンラク返ってくるのおそいし、大したこと言わないし。

セックスだって、けっきょくするドキョウもないし。

だからせっかくの就職を機に、新しい男を探す事にしました。


突然ワガママ言ってごめんね。

でもあたしはこういう女だから。


そういう事だから、お互いあんまり気にせずこれからの人生を生きていきましょう。

じゃあね。バイバイ。

よいどれおねーさんより』


 なんだ、これは。

 こんな事を突然言われても、納得出来るわけがない。


 ポケットから携帯を取り出すと、さわみさんに発信する。

 ツー、ツー。


 誰かと通話している最中?

 就職が決まったんだから、ないわけじゃないけど……

 着信拒否されたらこんな感じに聞こえるはずだ。


「悪い、姉さん。スカジャン、部屋に置いといて」

「どこへ行くの?」


 さわみさんの住所は知らないが、惣菜町住まいなのは聞いてる。

 惣菜町は負川町に比べたら大した広さじゃない。かなり絞れるはずだ。


「ちょっと、人を探しに行く」


 商店街北口へ。


「良介」


 真奈の声に、一旦立ち止まる。


「その人が生保やってたなら……持ち家や実家はまずない。賃貸の、多分アパートだと思う」


 学年主席様の言葉なら、信用出来た。

 あいつはこういう時、嘘は言わない。


 惣菜町で、賃貸アパート。それなら候補は一つに絞れる。


「ありがとよ、真奈」


 諦め切れるか。諦められるわけがない。


 あんな手紙。

 あんな涙の跡が残った手紙、信じられるわけがないだろ。


 商店街を出て、国道91号を横断して間もなく。

 惣菜町で唯一のアパートが目に入る。


 いや、規模としてはマンションが近いか?

 どっちでもいいや。そこにさわみさんがいるのなら。


 オートロックすらない古いアパートの玄関を通って……


「さて、こっからは完全ノープランだぞ……」


 我ながら馬鹿みたいだけど、感情100%で行動したんだから仕方がない。

 一軒一軒部屋を回って、表札や郵便受けを見るか?


「うーん。見つける前に通報されそうだ」


 なんて迷ったところで、問題は解決しない。

 一階の通路をざっと見ると、二階へ。


 当然さわみさんがいるわけじゃないけど……開きっぱなしの扉が見えた。

 虫の知らせってやつだろう。何気なく、その扉へ向かって……中を覗いた。


「ちょっとあんた」

「ギョッ⁈」


 ばったり。限りなくおばあさんに近いおばさん、といった風体の女性が玄関口に立っていた。

 俺はびっくりしたのに、向こうは平然としているのはどういうことだろう。


「な、なに?」

「……借金取りかと思ったけど、学生なら違うか」

「借金?」

「この部屋の人、さっき急に電話してきて使わないって言い出したのよ」

「……」


 多分、このおばさんは大家なんだろう。


 それにしても、急に電話して部屋を引き払う。

 身に覚えしかない話だ。


 ただ、もし繋がっていたら。

 それは最悪の結果だった。


「も、もしかしてさ。この部屋の住人って……涼宮さわみさん、だったり?」

「……あんた、あの人のなに?」

「恋人」

「って事は、転居先知ってる?」

「……その様子じゃ、そっちも知らないんだ」


 終わった……。


 大家ですら知らない転居先。

 それを知る方法など、皆無と言っていい。


 大家の肩越しに見えた部屋はがらんとしていて、生活感がなかった。

 引っ越しが数時間で出来るはずがない。

 きっと、こうやって別れるのは前々から決めてたんだろう。


「……ひどいや、さわみさん」

「ああっ、ちょっと⁈」


 そうとしか考えられない……だけど、まだあの涙を信じたい。

 だけど……


「もう、会えないのか……」


 呆然としたまま、俺はどこかもわからない道を歩き続けた。


◆ ◆ ◆


 気がつくと、世界は暗くなっていて。

 俺は負川駅の広場に戻っていた。

 帰巣本能というやつか。


 広場のベンチの腰掛けると、特に理由もなく県道に視線をやる。

 仕事帰りの車と人々が忙しなく行き交い、虚ろな目で過ぎ去っていく。


「……春日谷南を卒業したら、俺もこの社会なかの一員になるわけだ」


 俺のいる施設、らぐな院は永久に衣食住を保証してくれるわけじゃない。

 学園を卒業したら、進学であろうと就職であろうと、独り立ちしなくてはならない。

 その時に俺は、本当の意味でひとりぼっちになる。


「……どうするんだろうな、俺」


 わからない。

 進路調査の紙にはまともな事を書いた記憶がないし、頭にも予定がない。


 頭上に広がる夜空のように、真っ暗だった。


「……ふぅ」


 別に、失恋はいつもの事。初めてじゃないんだ。

 だというのに、この喪失感は……


 ふと、誰かが人波から離れて俺の目前で立ち止まった。

 その足は、どこかで見たような気がして。


「あれれ、おにいじゃん。どうしたの?」


 見上げると、見知った顔があった。

 子月恵理子ねづきえりこ。俺の年下の幼なじみで、バ先の同僚で……自他共に認める妹分だ。


「別に。恵理子には関係ないだろ」

「その顔、もしかしてフラれた?」

「あっさりと口にしてくれるな、おい」

「だっておにいが暗そうにしてるの、そういうときじゃん」

「ちぇっ。わかったような口利きやがって」

「おにいが分かりやすすぎるだけだよ」


 と、失礼な事を言った恵理子は図々しくも隣に腰掛けた。


「で、今回はどんなフラれ方したの?」

「……飽きた、だとさ」

「それ、絶対嘘だよ。おにいといて、飽きるわけないじゃん」

「もしかして、励ましてる?」

「うーん……半分は励ましてて、半分は本当の事言っただけだよ」


 何か気になる言い方だけど……確かに、俺はそうなるように振舞ってきた。

 とはいえ、飽きるという感情とはあまり関係がない気がする。

 どんなに楽しい遊園地でも、毎日遊んでいればいずれ飽きるのと一緒。


 百年の恋だって……いずれは冷める。

 結婚生活の倦怠期なんてのは、よくある話だ。


「恵理子はその人がどんな人だか知らないけど、何か事情があったんだと思うよ」

「事情って、例えば?」

「そんなの、恵理子にわかるわけないじゃん」

「そりゃそうだ」


 恵理子はエスパーではない。

 当然、そんな事を知るはずもなく。

 別れた相手がさわみさんだってことも知らないだろう。


「もう、おにいらしくなくて気持ち悪いなぁ」

「き、気持ち悪い?」

「だって、普段のおにいなら『ふっふっふ、俺様は過去を振り返らない。未来に生きるのだ!』とか言って、前向きにナンパばっかりしてるじゃない」

「普通、そっちの方が気持ち悪いって言われないか?」

「ほらっ、らしくない! 恵理子はさ、おにいがおにいらしくない方が……ううん。なんか、つまんないよ」


 つまんない。そういう恵理子の表情は、明るいものではなかった。


 ……何をやってるんだ、俺は。


 納得は出来ないけど、どうしようもない事をウダウダと気にして。

 確かにそんなのは俺───良介らしくないし、つまらない。


 他人に迷惑をかける上につまらない男など、道端のごみのような存在ではないか。


「……その通りだ。こんなの、俺っぽくないぜ」


 暗い夜空を仰ぎ見る。

 街の強い明かりは、遠い宇宙で輝く星々のきらめきを覆い隠していた。

 しかし見えなかったとしても間違いなく、そこには光を放つ星々があるのだ。


 今回、良介は輝く星を取りこぼした。

 しかし、この広い世の中には美しい輝きを持つ星々が存在するのだ。


「おにい?」

「ふっふっふ。俺様は不撓不屈ふとうふくつの志村良介だ……。この程度で引きずったりなどしないのだ」

「おお……なんか、おにいっぽい」

「当たり前だろ? 俺の発言なんだから」


 これでいいのだろう。

 過去を忘れることは、必ずしも善ではない。


 しかし、多くの宗教が執着を罪の如く扱った歴史を鑑みれば。

 今も昔も、過ぎる執着はロクな結果を生まないのだ。


 だから、さわみの事は忘れない。

 でもそれはそれとして、過去に執着せず今を精一杯生きる。

 良介は、そう決めたのだ。


「さあて、もういい時間だ。帰ってチビどもの飯を作らないとな」

「……よかった。おにい、元通りになって」

「心配かけて悪かったな、恵理子」

「べ、別に。心配なんかしてないもん」


 ベンチから立ち上がると、商店街の方へ。

 道は暗くて不安かもしれないが、進むしかない。

 ならばせめて、自分だけでも明るく。


 ネガティブな奴は表に出ず、後ろで野次でも飛ばしていればいいのだ。


◆ ◆ ◆


 良介くんは、今頃どうしてるんだろう。


 怒ってるかな?

 当然だよね。あれほど期待させておいて、飽きただもん。

 あたしも似たような事をされたら、絶対に怒る。


 でも……良介くんの青春は、あたしみたいなクズに費やしちゃだめだよ。

 もっと年が近くて、壊れてなくて、真っすぐな。

 彼には、そんな青春を過ごしてほしい。


「はあっ……はあっ……」


 良介くんの言う通り、あれからアルコールはやめてないけど……

 時間と場所を考えて、適量を心がけている。

 でもやっぱり、現実から逃れたいという恐怖は毎日のように押し寄せて来る。


「大丈夫……おねーさん、がんばるから……」


 水で顔面を洗い流して、脂汗を落とす。

 毎日が不安で不安でたまらないけど、頑張るしかない。


 良介くんのように。

 辛い境遇でも強く、明るく、真っすぐに。

 自分から振ったのに、卑怯なのは重々承知の上で。


「……よしっ」


 トイレから出ると、雑多な店内が目に飛び込んでくる。

 ここが、あたしの新しい職場。


「涼宮さん、大丈夫だった?」

「は、はいっ。平気です。そろそろ、買取の予約ありましたよね」

「うん。予定じゃ30分後だから、準備した方がいいかしら。お願いね」


 前の職場と比べて給料はぐっと減ったけど、間違いなくいいところだった。

 お客さんがいなくて暇な時間は、商品の点検という名目で楽器も弾ける。


 ああ。バンドやってた頃のベース、売らなきゃよかったな。

 持ってたら生保の審査の時、弾かれたかもしれないけど。


 店内の隅っこに置かれたベンチに腰掛けて、弦を弾く。

 元々はピアノ用の曲だけれど、当時のあたしは尖ってROCKいた。

 だからあえて、ベースで別ジャンルの曲を弾いたりしてたんだ。


「あら、懐かしい曲ね。それ、95年ぐらいの曲よ」


 あたしの演奏を聞きつけた店長が寄ってきた。

 オネエチックでちょっとアクが強いけど、間違いなくいい人だった。


「なんとなく、そんな心境なので……」

「幸せを願う(Wish for Happiness)……そう。悲しい心境なのね」

「ちょっと不安だけど……あたし、後悔はしてません」

「きっと、あなたの決断は報われるわ」


… … … … …


『りょうすけくんへ。

あたしは自分勝手な理由で、あなたを振りました。

怒るだろうし、恨むだろうし、そうしてくれて構いません。

そのまま、つまらない思い出として忘れてくれると幸いです。


無職の暇人が、忙しい学生の都合も考えずに連絡してごめんなさい。

何度も機会があったのに、あたしの事を常に考えてくれたのはとても嬉しかった。


あの出会いも、一緒に過ごしたあの日々も。

たった二週間の、短い冬休みの間だけなのに本当に夢のようで……

次の、自分の恋を始められるか、正直言って不安です。


突然ワガママ言ってごめんね。

でも、あたしはこういう女だから。


どうか、いつものあなたのように明るく、元気で。

そして、幸せになってください。

あたしは、ずっと。そう祈っています。


じゃあね。バイバイ。

涼宮さわみより』


青夏0 ~Wish for Happiness~

To Be Continued. 新しい夏へ続く。

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酔いどれおねーさんが恋をして……別れる話 穀潰之熊 @Neet_Bear

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