第29話「返却棚の事件簿」
中年男 「ぐっ、ぐぬぬぅ、おおおォォォォ!! あっ、やばぃ、、」
美女 「え? ええぇ?!」
中年男 「あ、、、や、やっぱり無理だ! ギ、ギブ!ギブ!! ぎぶぅー!」
美女 「ええ!? もうギブアップ?!
もうちょっと頑張ってくれないと!
もとがとれないですけど!!」
中年男「うーん・・・。もう、ムリ」
美女「もおーー!!! (はぁ~)」
コロナ禍に通販で再流行した筋トレマシンの上で、中年男は大げさに白目を剥いて気絶のフリをした。
隣で見ていたスーツ姿の美女は腕組みをして、もう一度大きく溜め息をついた。
昼下がりのオフィス。いや、オフィスと言うより事務所と呼ぶのがふさわしい、駅前商店街の片隅にある小さな事務所。
ここは山田が代表を務める経営コンサルタント事業所の応接室だ。
令和6年、この国は永く続いたデフレと急激な円安で疲弊していた。先進諸国に先駆けて迎えた超高齢社会は、これから世界が取り組む課題の宝庫として注目を集めた。しかし現実は次々と起こる多様な社会問題によって、この国は出口の見えない迷路に迷い込んでいた。
こうした複雑で変化の早い時代、経営コンサルは企業や行政機関など様々な組織の健康状態を調査し、企業病理の診断と処方薬として利用されていた。
近年の
今、少子高齢化が進むこの国では、若く優秀な人材の確保は企業活動の生命線だ。人材の成長と活躍の場を担う健全な職場環境の保全は、企業の浮き沈みを分ける重要な経営要素となっている。
山田たちのオフィスはこうした企業組織の病巣を最新のデジタル技術と潜入捜査を駆使して見つけ出す手法で業界に名が通っていた。
冒頭のやりとりは、社長の山田と秘書の橘薫(たちばなかおり)のお決まりのやりとりだ。
山田の風体は浅黒い肌に顎ひげ。髪は銀髪に近い白髪、切れ長の瞳はコンサルタントとして経験した修羅場の数だけ鋭さを増した。一見ガテン系の職人を思わせる粗雑さと頓着ない身なりは、おおよそ頭脳を駆使して難題を解決するコンサルタントには見えない。
一方、薫はスラリとしたモデル並の風貌に、日英独中印5か国語を操り会計から訴訟対応までこなす特Aクラスのアナリストだ。
「彼女」は幼くして親の転勤で米国に渡り、その後ハーバードを飛び級で卒業。グローバル企業でキャリアを積んだ後、前職で山田と再会した。
黒と銀の斑模様のロングヘアをまとめた髪型は、異才を放つ彼女のトレードマークになっている。
有能な彼女がなぜこんな場末のコンサルで秘書紛いな仕事に興じているかは、前職での山田と彼女の出逢いに関係ある様だが、本当の事は二人しか知らない。
「お、か、た、たちばな! おい!かおり!!
こ、珈琲にしよう! 珈琲ブレイク!
飲んだら頑張るからさ? な?」
「もー。そうやっていつも逃げるんだからーー。しょうがないなぁ。
やまだくん、いや、山田社長。
実はさっき、美味しいお茶請けを買ってきたんだよね♪
いま淹れるから、ちょっと待っててね♪♪」
「おお!さすが!天才秘書!かおりさま!」
口八丁手八丁、山田はため息をついて、筋トレマシンに大の字になって寝転ろぶと天井をぼんやりと眺めた。
部屋の奥から薫が淹れた珈琲の芳香が部屋を満たした。
「そう言えば、坂上のU社から案件来てるんだけど、どうする?
山田くん、昔あそこに務めてたんだよね?」
薫はそう言うと、山田のカップに珈琲を注いだ。
「・・・」
黙って珈琲を飲もうとする山田に構わず続ける。
「まあ、この仕事じゃ、知り合いが多いと逆にやり難いってこともあるし。
昔の仲間がクランケ(患者)だったりしたら、ね。」
「俺は別に・・・、まあ、そうだな」
生返事をしながら珈琲を
それにしても、薫の煎れた珈琲は相変わらず美味い。
彼女に苦手な事などあるのだろうかと、会話中に明後日のことを考えられるのも、彼女の秘書としての能力のひとつだ。
「あー、山田社長。
やっぱり、久しぶりに古巣に行ってみたらどうです?」
薫はそう言うと、凛とした眼差しでお茶菓子をカップソーサーの上に置いた。
山田は視線をチラッと移した後、また明後日の方向を見て生返事をした。
薫がこの顔をして「社長」と呼ぶ時はろくなことが無い。
当然!薫は山田のそんな所作は無視だ。
「あそこ、立派な体育館あるよね?
一度入って見たかったんだよねぇ。
あそこ、実業団スポーツの上位常連でしょ?
今年から始まったSVリーグの選手もいるでしょ?!
バレーボール、いま
私、
連れてって下さいよー。
や・ま・だ社長〜 って、聞いてる?」
矢継ぎ早に捲したてる薫を放ったらかし、山田はU社で働いていた時のことを思い出していた。
「・・・。そうか。
そんな事もあったっけな」
筋トレマシンと珈琲の香りが、長く忘れていた「あの事件」を山田に思いださせた。
それは山田がこの会社を立ち上げるキッカケとなった事件だ。
久々にトレーニングマシンに寝転んで天井を眺めながら、10年以上経過した今も、「オレンジの封筒」の謎を抱えたままだったことを思い出した時だった。
不意に事務所入口のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー。はー、お腹すいたー!
かおりさーん。ただいま帰りました!!
おっ!珍しく社長がいる。
またサボってますな?
かおりさんに怒られますよ!って、
あっ、珈琲!私にも下さい!」
昼下がりの応接室がさらに賑やかになった。
あの事件の「なっちゃん」こと、天童夏海は、いまこのオフィスで調査員として働いている。
あの事件の後、U社は様々な不祥事が噴出し、それに比例するように業績も落ち込んでいった。当時聞こえてきた噂では、あの事件と同様の問題がいろんな部署で発覚し、中には取引先と共謀を疑われるケースもあったという。
巨大グループの一角を担っていたU社にとって信用は他に代えがたい経営資産だった。
会社組織の深部まで蝕んだ病巣は深刻で、立て直そうとする瞳美の父親や大山田部長たちの努力も虚しく、失われた信用を取り戻す事はできなかった。
U社はグループの癌細胞として解体され、病巣を切除する様に管理職がリストラされた。残った社員たちは散り散りとなりグループ企業に吸収されて会社の
そして、十数年という長い再生期間を経て、また駅前の繁華街を見下ろすあの丘にU社は再建された。残った者、離散し成功した者、失敗した者。いろんな話は入ってきた。仲間の葬儀に集った回数は途中から覚えていない。
ただそこには人生の悲喜交々があったことは間違いなかった。
企業再生を生業とするこの業界にあっても、あの謎の組織がその後どうなったのかは不自然なほど聞こえてこない。
夏海もその騒動の中、一足早く退社し、薫とこの仕事を立ち上げていた俺のもとに転がり込んできたのだ。
「あ!そう言えば、社長に郵便ですって。
さっき入口でいつものイケメン配達員さんが渡してくれました。
はい、かおりさん、これ。」
夏海は肩から斜め掛けした大きめの白いバックから封筒の束を取り出した。
薫は手早く淹れた珈琲とお茶請けのカステラを夏海に渡すと、かわりにそれを受け取った。
「なっちゃん、ありがと。
んー、請求書に、請求書に、請求書っと。
たまには私宛のファンレターでも来ないかしら、と。
あれ?なっちゃん、なにこの封筒?」
「あー、さっき入口で宅配の人が渡してくれたんですけど、社長宛みたいですよー。」
受け取った封筒をヒラヒラなびかせながら薫が振り返ると、山田の表情を見て声をあげた。
「しゃ、社長?どうしました?
大丈夫?口から珈琲が溢れてるわよ!」
「あ、ああ。
かおり、それは、ひょっとしてオレンジ色の封筒か?」
「・・・。他に何色に見えるのかしら?」
そう言うと薫は山田に封筒を手渡した。
封筒の裏側に差出人の名前はない。
薫の入れた珈琲が、あの事件の給湯室に香っていた珈琲と重なった。
永い刻を経て、山田の記憶の図書館の、返却棚に置かれたままの事件簿が開こうとしていた。
その職場課題はリテラシー向上委員会にまかせてください? soboroharumaki @yuichikmgt
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